第6話:最適解の地 -3-
十日あまりが過ぎた頃、新しい畑がかたちを現し始めた。
汗に濡れ、泥にまみれた村人たちは、息を吐きながらもその風景を眺めていた。
──あの日、村人たちは“神の言葉”に従い、畑を移すという選択を迫られた。
最初は戸惑いだけでなく、怒りや恐れすら、胸に渦巻いていた。
代々耕してきた土地を捨て、見知らぬ沢へ鍬を入れるのだ。
それは村の人々にとって容易な決断ではなかった。
少女──初穂は、何の迷いもなく次々と指示を出す。それは、まるで地を読む神の声のようだった。
「まずは土の表層だけを丁寧に耕してください。硬い層の手前までで十分です。鍬は浅く、土の命を傷つけぬように」
「畝の高さを一定にして、水が穏やかに流れるようにしてください。土地が呼吸できるようにするためです」
「そして畑全体を、南東へとわずかに傾けてください。そうすることで、この地に溜まりやすい冷気が、静かに流れていきます」
初穂は畑に立ち入り、作業の起点から一つひとつの手順を指示した。
農民たちは、経験則として知っている事もあった。
だが、その知識がこうして言葉にされ、理屈として語られるのを聞くのは、誰にとっても初めてのことだった。
男たちは、その姿にいつしか中心を委ねていた──
夕暮れが迫り、作業を終えた人々が引き上げる中、畑の前には佐平と数人の男たちが立っていた。
佐平は鍬の柄に手をかけたまま、黙って畑を見つめている。
その隣で、年若い農夫がぽつりとつぶやいた。
「……これで、間違いなかったんだよな」
佐平が周りの男たちに問いかける。
「おめえたち、どう思う?」
「……正直、土が締まらなくなって助かる。鍬の入りもずいぶん楽だ」
「ここは根が伸びやすそうだ。前の畑も悪くはなかったが、石が多くて手間がかかったからな」
”土が締まる”とは、同じ場所を何年も繰り返し耕し続ければ、やがて土壌構造が壊れ、土は硬く締まり、空気や水を通しにくくなる現象である。
彼らの言葉に、佐平はうなずいて聞いていた。
「理屈は半分も分からねえ。けど、土の顔つきが変わったのは間違いねえな」
年季の入った男がつぶやく。
「……あの娘、ほんとに、人間か?山の神が降りたんじゃねえか」
一瞬の沈黙のあと、佐平がふっと笑った。
「さあな。ただ──」
「あれを信じるかどうかよりも、土が応えてるかどうか……それだけで十分だろ」
男たちはそれぞれに黙り込んだまま、目の前の畑に視線を落とした。
夕暮れの光の中、静かに風が土の表面を吹き抜けていた──
畑を起こしてから三日が過ぎたころ、初穂は誰よりも早く畑に訪れていた。
整地はすでに終わり、土壌の”寝かせ”に向けて、土の状態を観察していた。
(表層10cmの耕起完了を確認。含水率20.1%。通気性良好)
(団粒構造維持。微生物活動指標:活性状態)
(次段階へ移行可。微量栄養素の補填、および病原菌の抑制処置へ)
地面に膝をつき、土にそっと手をかざす初穂の姿は、村人の目には祈るようにも見えただろう。
だがその指先には、微細なナノユニットが稼働し、地中を計測するセンサーの役割を果たしていた。土中の温度、水分、pH、そして微生物の活動までもが、正確に計測されていた。
初穂は畑の中央に立ち、農民たちに次の工程を伝えていた。
「少量の灰を混ぜてください。灰には、草木の育ちに必要な養分を、土に戻す働きがあります」
「また、草木に必要な細かな養分が含まれています。灰が土にしみ込み、根の力を助けることで、病にもかかりにくくなるのです」
イシュタルは、彼らに灰の効能を伝えようとしていた。難しい言葉を避け、より伝わりやすい言葉を慎重に選びながら。
だが、村の人々はイシュタルの予想以上に、理屈よりも経験と伝承を信じ、それを頼りに畑仕事をしていた。
農民たちは一瞬顔を見合わせた。
灰を撒けば作物がよく育つ──それは知っていた。だが、なぜなのかを説明されたのは、これが初めてのことだった。
しかし、初穂は彼らの戸惑いには気づかぬまま、淡々と説明を続けていた。
「そして、作付けの前に、土の一部を布で覆ってください。夜と昼の温度の差をやわらげるためです」
「そうすることで、土が冷えすぎず、乾きすぎず、苗が育ちやすくなります」
農民たちは、この言葉にはっきりと戸惑いの色を浮かべた。
「おい、今、布って言ったか……?畑に?」
布は衣のためにあるもので、地面に敷くなどという発想はまったく理解できなかった。
佐平も眉をひそめた。布を……地面に?
そんな貴重なものを、畑に敷くなど、正気の沙汰ではない。
「布がなければ、藁や落ち葉を使ってください。稲藁や山の葉で十分です」
「木や竹の皮でもかまいません。大切なのは、土が熱と湿り気を保てるようにすること。夜の冷え込みをやわらげるためです」
農民たちは息をのんだ。
「確かに……麦が霜にやられていたことがあったな」
「落ち葉なんて、焚き付けにするくらいしか使い道がないと思っていたが……まさか、土を守る役に立つとは」
──これは現代において”マルチング”と呼ばれる技術の一種である。
昼夜の温度差を緩和し、雑草の抑制や土壌の乾燥を防止する。
使用素材も、ビニールや不織布、黒マルチシートなど多岐にわたる。
農民たちは息をのんだまま、初穂の言葉に圧倒されていた。
それは、どこか異国の術のようでもあり、神の言葉のようにも思えた。
水の通り、風の流れ、土の質──すべてが彼女の言葉通りだった。
誰もが初穂に言葉を返すことをためらわれ、声を失ったように初穂を見つめていた。
佐平の胸には、恐れとも敬いともつかぬものが渦巻いていた。
──この娘、ほんとうに人間なのか。 そんな思いが、心の奥にひっそりと芽を出していた。
茜色に染まった空の下、畑には二つの影だけが残っていた。
初穂は、今日も静かに風を感じながら、土を見つめていた。
佐平はしばらくその横顔を眺めていたが、やがて意を決したように、口を開いた。
「……昔な、村に旅の法師が来たことがある。薬草の使い方を教えてくれた。だが、あれもここまでじゃなかった」
初穂は返事をしなかった。ただ、静かに畑を見つめたまま、そよぐ風に身をゆだねていた。
「……神さまってのは、そうして静かに、土の声を聞くもんなのか?」
初穂は静かに佐平に目を向けた。彼女の瞳には何の動揺もなかった。
初穂は視線をそらさず、佐平の様子を静かに見つめていた。
わずか数秒のあいだに、彼の内面はすでに解析されていた。
(瞳孔収縮:心拍上昇、呼吸リズムにわずかな乱れ)
(情動反応:敬意と畏怖の混在。敵意は無し)
(対話傾向:信念で判断を下す傾向。論理より直感を優先)
「私は、空を飛ぶわけでも、雷を落とすわけでもありません」
「でも──土が語る声を聞くことは、できます。過去、そしてこれからの事をすべて知っているだけです。あなたがたが”まだ知らない”ことを、私は”知っている”だけです」
佐平は、じっと初穂を見つめたまま動かなかった。
長年の風雪に耐えてきた眼差しが、ほんのわずかに細められた。
それは、何かを悟り、受け入れる者の目だった。
「……そうか。神さまってのは空も飛ばずに、こうして静かに土の声を聞くもんなのか。ずいぶんと、地に近いお方だ」
──翌朝、佐平の眼差しからは、不安や畏れの色が消えていた。
イシュタルはそれを見て、初穂の胸の奥に、ふと温かなものが芽生えるのを感じた。これは、彼女にとって予想外の心の揺らぎだった。
春の日差しを浴びて、彼らの眼差しは希望の輝きを放っていた──