第5話:最適解の地 -2-
──早朝、佐平を先頭に、農民たちは荷車を軋ませ、鍬を肩にかけて、新たな畑地へと歩みを進めていた。
大柄な佐平を囲むように男たちが言葉を交わしている。
自然と皆の中心に立つ彼は、村の誰もが一目置いていた。
一人の男が、佐平に話しかける。
「……まさか、本当に畑を動かすことになるとはな」
「長老があそこまで言うたなら、もう腹を決めるしかなかろう」
佐平は、状況をすばやく呑みこみ、次に進む決断が早い男だった。
目の前の困難にも、まず一歩を踏み出すことで道を見つける。
それが、佐平という男の生き方だった。
若者が遠慮がちに尋ねた。
「あの……長老殿って、何て言われたんですか?」
「畑は、命つなぐ場所と心得よ。ってな」
佐平は、鍬を肩にかけ直しながら答えた。
周りの男たちは内心ほっとしていた。
思いのほか、佐平が不機嫌ではなさそうだったからだ。
佐平は頼れる男だが、気性が荒かった。
年季の入った男が、意外そうに口を開いた。
「へぇ……そんなことを?国重殿が、畑のことに口を出すなんて、今までなかったと思うがなあ」
「あぁ、そうだな。だが、畑の移動を言い出したのは長老じゃない。あの子だ……」
佐平が初穂の方を親指でさす。 男たちの間に、ざわめきが走った。
「……あの子が?」
「たしか、忠吉んとこの娘だろ」
「神送りの儀から戻ったって話じゃねぇか」
その瞬間、場の空気がわずかに張りつめた。
視線が交わり、“あの日”を思い出したように、男たちの間に沈黙と緊張が広がる。
信じる者もいれば、”小娘に何がわかる”と眉をひそめる者もいた。
若い者が口を開きかけて、年配の男に制される。
初穂に神が降りたという噂に、村人たちの心は、信と疑いの間を揺れていた。
表には出さないが、佐平の胸の内も静かに揺れていた。
(……あれは、本当にあの娘だったのか?畑を動かすなどと口にしたから、本気で怒鳴ってしまった。なのに、あの落ち着いた態度は何だ)
いつもなら、相手はたじろぎ、言葉に詰まる。
しかし、初穂はまるで何も感じていないように、すぐに口を開いた。
恐れも迷いもなく、返す言葉を探す素振りすらなかった。
昨日の寄り合いでは、長老に諭された形となった佐平だが、彼が真に圧倒されたのは、初穂だった。
佐平の胸の奥に、得体のしれないざらつきが広がった。
(本当に、あの娘に神が降りたというのか……)
──佐平たちとは少し離れた位置から、初穂と忠吉が歩いている。
忠吉は狩りを生業としており、狩猟の代表として昨日の寄り合いに出席していた。
猟が盛んになるのは秋から冬にかけてであり、この時期は畑仕事を手伝っていた。
忠吉が、隣を歩く娘にぽつりと声をかけた。
「……なあ初穂、昨日の寄り合いのことだが」
初穂は歩を緩めず、静かに耳を傾ける。
「おまえ、あのとき……どうしてあんなふうに話したんだ?いや……正直、何を言いたかったのか、よくわからなかったんだ」
父の声には、心配と戸惑い、そして理解したいという素直な気持ちがにじんでいた。
初穂は少しだけうつむき、答えずに前を見つめながら歩き続けた。
やがて、ぽつりと呟くように言った。
「……必要なことを、伝えただけです」
その声は、どこか遠くを見ているような響きがあった。
ふと、初穂は足を止め、忠吉の方を見た。
「……でも、皆が生きるために、少しでも助けになればと、思ったんです」
その言葉は、今の彼女の口ぶりにしては珍しく、わずかに感情を帯びていた。
忠吉は驚いたように娘を見返し、そして静かにうなずいた。
「……そうか。なら、それでいい」
二人はそれ以上語らず、ただ並んで歩き続けた。
わずかでも、娘の事を理解できた。そう思えただけで忠吉は嬉しかった。
初穂の視線は、忠吉の横顔を一瞬だけ捉えていた。
『表情変化:眼球運動に標準値からの乖離0.12。眉間に微細な収縮、口角に緊張の反応。──何かを“探ろうとする”兆候を検知』
『声帯波形:発声エネルギー分布にばらつき有り。言葉に揺れの共振パターンを検出。──感情の裏に強い動揺』
『動作遅延:歩行の動作に平均値から0.2秒の遅延。──意識の焦点が初穂に固定されていると推定』
スキャン結果には、忠吉の感情に明らかな動揺が表れていた。
だが表面上は、それを抑えて娘を気遣う様子を保っている。
(あいつが何を背負っているのか……俺の目で見届ける)
父・忠吉は、娘に宿った変化の意味を見極めようとしていた。
娘がいったい何を思い、何を背負い、どこへ向かおうとしているのか──。
──やがて、一行は足を止めた。
初穂が導いたその場所に、たどり着いたのである。
目の前には、霜がまだらに残る、わずかに湿った斜面が視界に広がる。
陽に照らされた斜面はしっとりと湿り、踏めばわずかに沈みそうなほど、土はやわらかかった。
「ここです。今の時期なら、この場所が最も適しています」
佐平が振り返り、周囲を見回した。
農民たちも鍬を肩に、荷車を引きながら少しずつ集まってくる。
「……見ろよ、こりゃ本当に育ちそうだ」
「陽当たりも風通しも悪くねぇ……ここなら、いけるかもしれん」
男たちは思わず顔を見合わせ、小さく頷いた。
「迷ってる暇はねぇ。始めるぞ!」
佐平が声を張ると、男たちも応じるように声を上げた。
初穂も無言で、しっかりとうなずいた。
やがてその小さな体は、凛とした静けさをまとい、土地をじっと見つめていた。
その揺るぎない視線には、一切の迷いはなかった。
その人々を見守る姿には、千年を見通す知の光が静かに宿っていた。
イシュタルはその眼の中に、確かに栄えるこの地の未来を見ていた──。