第4話:最適解の地
──囲炉裏の間には、村の有力者たちが静かに顔をそろえていた。
薄暗い屋敷の一角に設けられたその空間は、古くから集会所として使われてきた場所だった。
作物の出来や山の獣の動き、水源の様子、村の命運を左右する事柄は、すべてここで話し合われてきた。
あの夜の儀式から三日。
人々の間に流れる空気は、重く、沈んでいた。
囲炉裏の火の奥、長老・国重の背後には、初穂の姿があった。
──集会が始まるその日の朝、初穂は一人、畑に立っていた。
イシュタルは集会に先立ち、畑の土壌状態と作物の生育状況を確認していた。
(環境診断──地温5.3度、水分率17%、日照時間は1日あたり2時間前後。耕作環境、非適合)
彼女の視線は、大気の動きから土中の水分まで、環境の微細な変化を逃さず捉えていた。
陽は高くなり始めたが、田畑にはまだ霜が残っていた。
地温は低く、霜の影響で苗の成長は止まり、土は凍ったまま水を含まず、乾いたように硬くなっていた。
異常気象による農業環境の悪化は明らかだった。
(予測シミュレーション──現環境が継続した場合、次期作付における収量推定値ー82%。耕作継続可能期間:残り2年未満)
以前の初穂は、農民たちに元気よく声をかけ、皆の作業を手伝っていた。
今はそんな面影もなく、ただ静かに畑の周囲を見つめていた。
彼女の姿に気づいた農民たちは、遠巻きに立ち止まり、ひそひそと声を交わしていた。
「……神送りの儀から戻ってきたって、本当なのか?」
「死んだと聞いていたのに……なぜ、あそこに……」
彼らの言葉の端々には、困惑と不安が入り混じっていた。
「まさか、本当に蘇ったってのか?」
「いや、もし拒んで逃げたのなら、それも……」
誰の声にも戸惑いと恐れがにじんでいた。
以前のように気さくに声をかける者はいなかった。
あの柔らかな笑顔も、今は見る影もない。
まるで別人のようなその背に、誰も近づこうとはしなかった……。
──囲炉裏の間では、すでに皆が席に着いていた。
やがて国重が口を開き、重苦しい空気の中で話し合いが始まった。
飢えと寒さに滲んだ声が、囲炉裏の間に静かに広がる。
「もう麦も伸びぬ。昨夜も霜が降りた」
「山には鹿もおらん。もう、どれだけ罠を仕掛けても……」
「山菜も減ってきた……孫らに食わすものもなくて……どうしてよいやら……」
誰かがつぶやくたび、他の者は黙ってうなずくしかなかった。
囲炉裏の火は細く、頼りない光だけがゆらめいていた。寒さを追い払うにはほど遠かった。
「……どうにもならんのか」
静けさの中、長老・国重の声が沈むように響いた。
その時、初穂が大きな声で沈黙を切り裂いた。
「畑の位置を変えてください。作物も、今のままでは適応できません」
その声は、大声というより、沈黙を打ち破る“意思”そのものだった。
囲炉裏の空気が一瞬にして変わり、周囲の視線が一斉に初穂へと向けられる。
「畑の位置を変えたくらいで、どうにもならんわ!」
初穂の発言に、間髪入れず怒鳴るような声が飛んだ。
村の農事を取り仕切る佐平が声を荒げ、初穂を睨みつけた。何もわからぬ小娘が口をはさむな、と言わんばかりの威圧感である。
周囲の緊張など意に介さず、初穂の瞳はただ静かに佐平を見返していた。
「地温と水分量の問題です。溜め池の南側。あそこなら水が流れており、地熱の影響で凍結の心配も少なくなります。菌類の活動も高まり、養分循環が見込めます」
気候や地形条件を活かす事は、伝統農法でも有効な手段である。
初穂が提案した場所は、南向きの斜面で日照量が多く、霜害リスクの軽減が期待される。
「はあ?なんだそれは……”ちねつ”がどうした?”きんるい”がなんだ?そんな話、聞いたこともねえ!腹がふくれねえ理屈はいらねえんだよ!」
誰もが息を飲み、その場が凍り付く。
「単なる畑の移動ではありません。凍らず水が巡る場所では、土が生きて動くのです。そうした土は、作物を守ります」
初穂の言葉に込められた強い意志は、理屈を超えて人々の心に届いていた。
理解は追いつかずとも、その確信に満ちた声に、目を伏せていた者たちの胸に、小さな希望の火が灯り始めていた。
しかし、農民たちは代々同じ土地で同じ作物を作る事が多く、作物の変更や畑の移動は、受け継いできた土地を手放すに等しい苦渋の選択だった。
「うちの家は、ずっとあの畑を守ってきたんだ。畑を動かせだと!?ふざけるな!代々守ってきた土地だぞ、それを捨てろってのか!そんな戯言に耳を貸せるか!」
別の農夫がぽつりとつぶやいた。
「でも、このままじゃ、ほんとうに何も採れなくなる……」
ざわつく囲炉裏の間に、初穂が静かに立ち上がる。
自然と人々の視線が彼女へと向かう中、その口元がゆっくりと開いた。
「この土地での積み重ねは尊いものです。ですが、今は条件を見直すことで、確実に土が息を吹き返す兆しがあります。私は、ここなら必ず作物が育つと確信しています」
長老・国重が、静かに口を開いた。
「……このままでは、次の冬も越せぬ。いまこそ変わる時じゃ。畑とは、ただの土地ではない。命をつなぐ場所と心得よ」
秋に実った作物を蓄え、春の訪れを待つ。それがこの地の暮らしのかたちだった。だが、収穫が乏しければ、冬を越すことも叶わない。
「そうだな……生きるためなら、やるしかない」
農夫たちは国重に説得されて了承した。
「……わかった、やってみよう」
長い沈黙の末、佐平がぽつりと口を開いた。
その声には、沈んだあきらめと、わずかな希望が交差していた。
そのわずかな希望に、囲炉裏の間にいた者たちは耳を傾けた。
小さな一石が波紋を広げるように、変化の気配が、確かに動き始めていた──