第45話:イシュタルの告白
──朝の光がまだ柔らかく、境内の木々が静かに揺れている。
障子越しに差し込み始めた朝日が、柚葉の顔を照らす。
彼女は目を覚まし、初穂の姿を探したが、境内には見当たらなかった。
いつもなら、社の前の石段に座り、カササギがその周りを飛び交う光景が見えたはずだった。
境内の周囲にも初穂の姿は見当たらず、胸に不安がよぎる。
社の辺りに向かうと、扉が少し開いていることに気づいた。
中からは紙が擦れる音がわずかに聞こえてくる。
そっと扉を押し開けると、薄暗い社の中に初穂の姿があった。
彼女は、祭典の式次第をじっと見つめていた。その前には、今日執り行われる神送りの儀の詳細が書かれた巻物が広げられていた。
柚葉は初穂の傍で、息を呑んで動けずにいた。初穂も、ゆっくりと顔を上げて柚葉の方へ向いた。
二人の目が合った瞬間、そこには驚きと緊張が交錯していた。
「今日の夕刻、神送りの儀が執り行われます……」
初穂が静かに呟いた。
柚葉は、巻物の文字を追いながら、咲の名前を見つけた。
言葉を失い、その場に立ち尽くすしかなかった──
春日祭。五穀豊穣や無病息災を祈願する、伝統的な祭典である。
辰の刻から始まり、巳の刻に式典が執り行われる。
祭典は、午前中から昼頃にかけて行われるのだ。
初穂と柚葉が祭典の準備を終えた頃、参列者たちが静かに集まり始めていた。
鳥のさえずりが響き渡り、風がそっと木々を揺らす。
巫女たちは白衣を纏い、鈴の音を響かせながら舞の支度をしている。
人々の表情には、春を迎えることができた喜びで溢れていた。
参道には色とりどりの幟がはためき、石畳には朝露が光っていた。
子どもたちの声が遠くから聞こえ、村の中心には祭りの賑わいが広がり始めていた。
人々の視線は神前に集まり、長老の姿がゆっくりと現れると、空気が一層引き締まった。
まもなく、春日祭の幕開けが訪れようとしていた。
巫女たちは白衣を整え、鈴を手に取り、深呼吸をして心を落ち着けていた。
ひとりの巫女が声をかける。
「柚葉さん、緊張されているのですか」
柚葉は、咲のことが気がかりでならなかった。一言だけでも、声をかけてあげたかった。
「……ええ、心配には及びませぬ」
「それを聞いて安心いたしました。共に努めましょう」
(なぜ、真澄さまは事前に教えてはくださらなかったのであろうか……)
何か言えぬ事情があったのか、直前まで決まらなかったのであろうか。今となっては、確かめる術もない。
人々の期待と緊張が入り混じる空気の中、祭典の始まりを告げる太鼓の音が響いてくる。
神職による祝詞が始まった。
神々への祈りや、祭典の趣旨を伝える重要な儀式である。
この祝詞が終わると、次は巫女たちの神楽舞が奉納される。
舞は神聖な空気を醸し出し、祭典に雅やかな雰囲気を際立たせる。
神様を招き、五穀豊穣や収穫への感謝を伝えるものとして、各地に様々な形で伝承されている。
祝詞が終わり、いよいよ彼女たちの出番となり、空気が一層引き締まるのを感じた。
巫女たちは、白衣を揺らしながら優雅に舞い、鈴の音が清らかに響き渡っていく。
参列者たちは神聖な空気に包まれ、心を一つにして祈りを捧げていた。
境内に、春の訪れを祝う喜びと、神への感謝の心が広がっていた。
──祭典の準備が整う直前。
「……真澄さま。なぜ、神送りの儀を教えてくださらなかったのですか」
柚葉の声には、わずかな怒りがにじんでいた。彼女の瞳は真澄をじっと見つめ、答えを求めている。
一方、真澄はその視線を避けるように目を伏せている。
「柚葉……」
彼女は言葉を詰まらせ、そう呟くことしかできなかった。
「柚葉さん、お待ちなさい」
後ろから初穂の声が響いた。
「お方様!神前の方におられたのでは……」
柚葉は驚きを隠せなかった。だが、その声をよそに、初穂は真澄に向き直る。
「真澄さま……言うに憚れる事情があったのでしょう。そのお気持ちはよくお察しいたします」
「……」真澄は言葉を失い、ただ沈黙を守るばかりだった。
「今宵の神送りの儀を取りやめてはどうでしょうか」
「……え!」 柚葉は驚き、初穂の方へ振り返る。
「……っ!」 真澄は、胸の奥が締め付けられるようだった。
初穂に、中止を言い出されることをずっと心の底で恐れていたのだ。
人身御供の辛さを感じながらも、伝統を守る責任を背負って生きてきた。
しかし、神の名を担う初穂に逆らうことはできず、言葉を失っていた。
「真澄さま、人身御供の重さは私も深く理解しております。しかし、今は村の未来を守るために、別の道を探す時ではないでしょうか。伝統を尊びつつも、命を軽んじることなく、共に新たな祈りの形を模索しましょう」
「……私たちは、決して命を軽んじてなどおりません。わたくしも、この身を捧げ、村の人々の命を守る覚悟で臨んでおります」
彼女の胸中には、重くのしかかる伝統の責務と、村の未来を守るために自らも犠牲にする覚悟ができていた。
神職者たちの存在そのものが、村の希望の灯火となっていたのだ。
しかし、初穂は人身御供の儀式を断ち切らせたかった。
イシュタルにとって、生贄という行為は論理的なものではなく、その行為自体に意味がないと認識していた。
人々の精神的支柱を崩すことなく、この文化を変え、咲を救いたいと願っていた。
──巫女たちの舞が優美に繰り広げられ、祭典の一幕が静かに下りる。
続いて供物の奉納が行われ、再び神楽舞の奉納が予定されていた。
神送りの儀は夕刻。
閉会後のわずかな時間に、初穂と柚葉は、咲に会いに向かうのだった。




