第42話:真澄の決断 -2-
朝の空気は澄み渡り、霜がうっすらと地面を覆っていた。
冬の始まりを感じながら、真澄は村のはずれにある薬草園を訪れていた。
ここでは、初穂が春先から育てていた薬草が広がっており、今では真澄がその手入れを任されていた。
蓬と生姜を摘み取り、布に丁寧に包む。
布の中には、仕上がったばかりの干し柿も入っていた。
(……干し柿。そういえば、去年の今頃、初穂がこれを持って村を回っていましたね……)
今年は、神送りの儀から様々なことがあった。
真澄は、村で起きた出来事を思い返していた。
干し柿を片手に、子どもたちに笑顔を向けていた頃の初穂──その面影は、今の彼女にはもう見られない。 昨年までの彼女の姿が、真澄の脳裏から離れずにいた……。
真澄は社務所に戻ると折敷を清め、薬草と干し柿を載せた。
両手でそれを抱え、御座所へと向かう。
御座所の前に立ち、一礼してから供物を台座に静かに置いた。
薬草を供えることは、彼女の日々の務めだった。
帳の向こうに気配を感じる。
真澄は息を殺し、姿を隠すよう柱の陰に身を寄せた。
神の前に立つとき、己の姿を控えることが常である。
真澄もまた、その教えに従い、物陰から静かに見守っていた。
やがて、白衣の影が現れる。
初穂──神として振る舞う彼女が、柚葉とともに供物の前に立つ。
かつて、干し柿を剥いて子どもたちに笑顔を向けていた初穂。その面影は、今の彼女にはもう見えない。
供物の前に静かに立ち、白衣の裾を整え、ふと視線を横に流す。
その目が、一瞬だけ柱の陰を捉えた。
──気付かれている……。
真澄は息を潜めながらも、初穂の目が一瞬、自分の方を見たことを感じ取った。
初穂は何も言わず、静かに神前へと身を向ける……。
柱の陰に身を寄せるのは、神前に己を晒さぬため。
恐れではなく、礼であり、信仰の形だった。
初穂が帳の奥へと姿を消すのを見届けると、真澄は静かに柱の陰から身を離した。
この社に伝わる儀礼は、遠い昔より伝えられ、村の人々によって受け継がれていた。
神送りの儀──それは、神のもとへ人を差し出すことで災いを鎮め、村の平穏を願う、古くから続く祈りの儀式である。
現代の感覚では想像しがたいが、平安時代には実際に人身御供が行われた記録が残されている。
たとえば『今昔物語集』には、飢饉や疫病の際、神託により若者を神に捧げたという話がいくつか見られる。中でも有名なのは、播磨国・賀茂神社における「神の妻」として選ばれた少女の記録である。
彼女は一定期間、神の御座所に籠もり、村人との接触を絶ち、神の意志を伝える役目を担った。
儀式の後、元の生活に戻ることは許されず、神の領域に留まり続けたという。
初穂の役割も、それに近い。
彼女は神の力を宿す者として、村の災厄を引き受ける定めにある。
帳の奥にある御座所は、神が降りる場であり、そこに入ることは人の世を離れることを意味していた。
真澄が柱の陰に身を寄せ、姿を隠すのも、単なる遠慮ではない。
神前に己を晒さぬという礼節は、古代の神事において厳しく守られてきた。
神に近づきすぎれば、穢れをもたらすとされ、逆に神の力に触れすぎれば人が壊れるとも信じられていた……。
──夕刻、空は淡い橙に染まり、社の屋根の端が長く影を落としていた。
社の中では、灯明の火が静かに揺れている。
空気はすでに夕刻の気配を帯び始めていた。
冬の夕暮れは早く、陽はすでに西の山際に沈みかけていた。
社務所の奥から、父・兼雅が現れた。
神職会から戻ったばかりなのだろう。旅装を脱ぎ、白衣に着替えた姿は、いつもの厳格な宮司そのものだった。社務所に戻った真澄は、奥から現れた父と目を合わせた。
「お帰りなさいませ、父上」
「うむ……。留守の間、変わりはなかったか」
「はい、滞りなく務めを果たしております」
(……父上の面差しが、いつもより厳しく見える。何かを、思案しておられるのか)
彼の右手には、一本の巻物が握られていた。
灯明の前に立つと、ゆっくりとそれを広げる。
「……神職方との会合は、無事に終えた」
真澄は静かに頷いた。
父の言葉の裏に、わずかな沈黙があることに気づいていた。
「次なる神送りの名も……定まった」
真澄の胸が高鳴る。
誰が選ばれるのか──その答えを、恐れながらも待っていた。
兼雅は巻物から目を離し、真澄に向き直る。
「……咲だ」
その言葉が空気を震わせた瞬間、真澄の視界が揺れた。
咲──その名が、胸の奥に突き刺さる。
「……咲が……」
真澄の声は震え、言葉にならなかった。
胸の鼓動の高鳴りが、いつまでも止まらなかった。
真澄は、咲の名を胸に抱きながら、社務所の奥にある儀式の道具に目を向けた。
神送りの儀──その準備は、すでに始まっている。
咲が選ばれたという事実が、空気の重さを変えていた。




