第41話:真澄の決断
杉の枝先に霜が降り、朝の吐息が白く立ちのぼるようになったのは、つい数日前のことだった。
田畑はすっかり刈り取られ、地肌が冬の陽にさらされていた。
束ねられた稲は、軒下で静かに乾きを待っている。
村人たちは、薪を割り、囲炉裏の灰を整えながら、長い冬の支度に追われていた。
社の裏手では、冷え切った水で手を清めるひとりの巫女がいた。
寒空の下、手水場の脇に、清めのための器を並べている。
水器、塩皿、榊を載せる折敷──
やがて、神前に器を並べ終え、祭壇の形が整っていく。
彼女の指先は冷え切っていたが、榊の葉を撫で、塩を盛る所作に乱れはなかった。
その時、彼女の背後を、宮司が巻物を抱えて足早に通り過ぎた。
朝の祈りには加わらず、何か急ぎの務めに向かうようだった。
「真澄よ、これより神職方との会合に赴く。古来のしきたりに則るため、少し日数を要する。三日後の夕刻には戻る予定だ」
この地域では、年末年始や節目の儀式に向けて、神職が集まり会合を開く慣習があった。
儀式の形式や、役割分担などを確認する場とされていた。
「はい、父上。承知いたしました。どうか道中、お気をつけて」
父は巻物を抱えたまま、わずかに頷いた。
そのまま背を向け、社の石段を下りていった。
私は、冷えた空気の中でその背を見送った。
(そう……もう、あの季節が巡ってきたのですね)
この時期になると、神職方が集まり、行事や儀式の形が定められていく。
父の背を見送るたび、去年のあの日が胸によみがえり、季節の巡りを思い知らされる。
あの日──初穂が神送りに選ばれた。
……もう、父上の中では、次の方は決まっているのだろうか。
真澄は、神前で祈りを捧げる中、昨年のあの日を思い出していた──
朝の光の中で、初穂の笑顔が輝いていた。
干された稲束の傍らに腰を下ろし、柿を片手に、小さな包丁で皮をくるくると剥いていた。
干し柿の準備が始まる季節だった。
近くにいた子どもたちに声をかけ、剥いた柿を一切れずつ手渡している。
「えっ、いいの?」
「わあ、甘い!」
子どもたちは頬をほころばせ、初穂の手元を覗き込んでいた。
初穂は、包丁を置いて、指先で口元に人差し指を立てる。
「内緒だよ」と囁いて、子どもたちと目を合わせて笑った。
その仕草に、いたずらっぽさが滲んでいたが、どこか遠くを見ているようでもあった。
柿を手渡しながら、まるで何も変わらぬ日常の中にいるようだった。
けれど私は知っていた──彼女は、神送りの儀に志願している。
それでも、あの笑顔を崩さない。
私は、木陰からその姿を見つめながら、胸の奥が切りつけられるような痛みを感じていた。
その日の夕刻、私は父上とともに初穂の家を訪れたのだった。
囲炉裏の火がぱちりと音を立て、部屋には薪の焦げる匂いが満ちている。
冬の始まりは、薪の音と匂いになって、家の空気に染み渡っていた。
長老の国重様はすでに席に着いており、忠吉様は黙って火を見つめている。
宮司である父の後に続き、居間へ足を踏み入れた。
「失礼いたします」
国重が一礼し、穏やかな表情で声を掛ける。
「これは宮司殿、寒さ厳しき折、足を運んでいただき礼を申す」
宮司は囲炉裏の火に目を落とし、国重と忠吉に深く一礼した。
「国重様、忠吉様。本日はお時間を賜り、誠にありがとうございます」
初穂はその言葉に応じるように、背筋を正した。
「ささ、どうぞ火の傍へ。今年も一段と冷えが強くなっておりますが、宮司殿が元気そうで安心しましたわい」
「国重様も、変わらぬご様子で、何よりです。こうして火を囲めるのは、ありがたいことですな」
「……」
忠吉は火を見つめたまま、喉の奥で何かが揺れたようだった。
しかし、言葉にはならなかった。
国重は咳払いをひとつすると、姿勢を改めて問うた。
「さて──神職方の会合は、滞りなく終えられましたかな」
「はい。古来のしきたりに則り、神送りの儀についても決定が下りました」
「……」
国重は一度、初穂に視線を送り、それから火へと戻した。
宮司は初穂に向き直り、語気を強く言葉を発した。
「初穂殿。神送りの儀について、神職方の決定が下った。来たる月──その務めを、あなたに託したく存じます」
初穂は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして、静かに顔を上げる。
「……承りました。神の御前にて、心を尽くします」
その声は、揺れていなかった。
けれど真澄の胸中では、心が音を立てて軋んでいた。
国重が頷き、忠吉も深く頭を下げた。
誰も、言葉を継がなかった。
囲炉裏の火だけが、ぱちりと音を立てていた。




