第39話:咲の祈り
空が白み始める頃、咲は稲穂を束ねながら、祭壇の飾りを整えていた。
柿や栗が籠に並び、秋の恵みが棚を彩っている。
境内には、臼を運ぶ音や薪の香りが漂っていた。
収穫祭の朝──村人たちは、朝の光が差す前から準備を始めていた。
佐平ともう一人の若い男が、餅を搗く準備をしていた。
神官の男と、巫女の真澄と柚葉は、神前で舞の最終確認を行っている。
境内に朝の光が差し始める──
初穂は、朝日を纏いながら人々の様子を静かに見守っていた。
平安期には、宮中において新嘗祭が重要な祭祀として行われていた。
これは、その年の新穀を神々に奉り、神からの恵みとして天皇自らが口にする儀式である。
同じ時期には、日本各地の神社でも秋の収穫を祝う祭りが行われ、人々は実りへの感謝と来年の豊穣を祈っていた。
咲は、束ねた稲穂を神前に供えていた。
祭事の準備は、普段は年配の者が担うことが多く、咲のような年若い少女が手伝うのは珍しい。
志乃が車具を譲り受けたことへの感謝から、咲は今回の祭事への参加を強く願い出たのだった。
「稲穂は神前の中心だから、絶対に曲げてはなりませぬ……と申されましたけれど、もし曲がっていたら、罰が当たるのでしょうか。ほんの少しだけなら大丈夫……ですよね……」
咲は、相変わらず思ったことをそのまま口にしてしまう。
真剣な顔つきではあるが、その言葉に周囲は思わず肩の力を抜いた。
「稲穂は神さまの目に最初に映るものじゃ。芯をまっすぐに、心もまっすぐに整えなさい」
この年配者は、若い頃に巫女として神事に奉仕していた。
今では世話役として、祭事の実務を支えている。
「柿は陽の果、栗は地の実。左に陽、右に地を据えるのが作法じゃ。籠の縁を越えぬよう、整えておきなさい」
「はい……左に陽、右に地。籠の縁を越えないように、ですね」
咲が供え物を並べ終えると、ふと視線が初穂へと向かう。
(神さまだ……。今、何を考えておられるんだろう)
「咲、神前では、目を伏せるのが礼儀じゃ。あまり凝視するでない」
「ち、違います……その、舞の所作が綺麗で……つい……」
咲は言い訳を口にしながら、視線を逸らした。
頬がじんわりと熱を帯び、赤く染まっていくのが自分でもわかる。
「……よいしょ!……よいしょ!」
掛け声が境内に響く。
杵を手にした佐平が、力強く餅を搗き始めた。
杵が餅に打ち下ろされるたび、境内に湯気が立ちのぼり、米の甘い香りが広がっていく。
若い男が手返しをしながら、佐平の動きに合わせて餅を整えていく。
子供たちがその様子を囲み、歓声を上げながら見守っていた。
咲は、餅の搗かれる音に耳を傾けながら、境内に広がる香りにそっと目を閉じた。
(うわ……いい匂い……。お餅って、こんなにおいしそうだったっけ)
湯気の向こうに人々の姿がゆらゆらと浮かび上がる。
甘い香りに鼻をくすぐられた咲は、(これ、絶対お腹すくやつだ……)と小さく笑った。
搗きあがった餅を、子どもたちが手早く丸めていく。
湯気の向こうで笑い声が弾み、餅つきは彼らにとって、ちょっとした晴れ舞台でもあった。
こうして手を動かし、声を合わせることで、神事の作法と心が受け継がれていく──
祭壇には、稲穂、柿、栗、粟、黍などが美しく供えられ、神前には赤飯と餅が並べられていく。
境内の奥では、巫女たちが白衣に緋袴をまとい、舞の準備を整えていた。
その光景を目にした咲は、胸の奥が締まるような緊張感を覚えた。
志乃が元気に暮らしていることも、国重が助かった奇跡も──咲にとっては、神さまからの贈り物だった。
その記憶が、今の咲を動かしていた。
今こそ、ご恩返しの時だ──咲はそう思い、手元に力を込めた。
咲は、供え物の籠の縁を整えながら、そっと初穂の方へ目を向けた。
(この方に神さまが宿られてから、村は何度も助けていただいた……)
そう思うと、手元の栗一つにも、感謝の気持ちが込められていく。
咲は、柿の向きを直しながら、心の中で静かに祈った。
「どうか、神さまに届きますように」
初穂は神前に佇み、朝の光を背に受けていた。
神前に立つ初穂の姿が、咲の心に火を灯した。
それは、ただの憧れではない。自らも神に捧げたいという、強い願いだった。
──収穫祭は、神への感謝と人々の絆を深める大切な行事である。
集まった人々の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
豊穣の喜びが境内を満たし、言葉にせずとも、誰もが同じ思いを抱いていた。
新たな神の恵みが、村を包んでくださったのだ──と。




