第38話:柚葉の夢 -2-
──障子の隙間から、秋の風が静かに入り込んできた。
頬を撫でる冷気に、柚葉はゆるやかに目を開ける。
朝の光が、紅葉の深まりに染まった景色を鮮やかに照らしていた。
初穂の朝はいつも通り早く、室内にはもう彼女の気配はなかった。
指先に残る温もりを確かめるように、柚葉はそっと手を握りしめた。
まだ夢の気配が胸の奥に漂っている。
琴葉の声、梅の香り、青く輝く光──それらが静かに心を包んでいた。
外に出ると、楓の葉が紅に染まり、風にそっと揺れていた。
虫の声は消え、落ち葉を踏む音だけが、境内に響いている。
楓の木々の向こう、社殿の縁に初穂が膝を揃えて座り、空の彼方を静かに見つめていた。
初穂は、柚葉の気配に気づくと、ゆるやかに振り向いた。
その瞬間、一羽のカササギが社殿の屋根から跳ね上がり、空へと舞い上がっていった。
「……御方さま、おはようございます」
「おはようございます、柚葉さん。……今日は、空の気が澄んでいますね。風も穏やかで、雲の筋が西へ流れています。明日は晴れるでしょう。豊穣祭も、天の神に護られ、迎えられそうですね」
天気を読む初穂の言葉に、もはや驚きはなかった。
それが、いつしか当たり前のように感じられるようになっていた。
未だ胸に残る、夢の残響。
触れることの叶わなかった姉の温もり──その心の声までも。
あの青い光は、神の御業だったのか。
柚葉は、その答えを求めて、初穂に向かって歩み出した。
「……あの、少しだけ……お話ししても、よろしいですか」
「ええ、構いませんよ」
初穂は、静かに微笑んだ。
「昨夜……私、お姉さまにお会いしたのです」
「……」
初穂の表情は一切動かない。
その瞳には、どこか遠くを見つめるような神秘的な雰囲気が重なっていた。
風に揺れる髪が頬にかかり、その瞳には、微かに光が宿っている。
(この御方は、私の心をお読みになっているんだ……)
初穂が、言葉にせずとも心の揺らぎを見透かしていることを、柚葉はうっすらと感じ取っていた。
けれど、もう畏怖はなかった。彼女は、初穂を信頼すると誓った。
「夢の中でしたが、お姉さまと一緒に梅の花を見ていたあの春が、目の前に広がっていました」
夢の中で見た梅の花は、淡い光に包まれて、風にそっと揺れていた。
姉と並んで歩いたあの道──
白と紅の花が枝先に咲き誇り、香りがふたりの間を満たしていた。
琴葉の横顔が、今も柚葉の脳裏に焼きついている。
「しかし、春を過ぎた頃から、病に伏し、外の光に触れることも叶わなくなりました」
「……」
初穂は、静かに柚葉の言葉を受け止めていた。
「秋の頃には、病が移るといけないとされ、私もお姉さまに近づくことを許されませんでした」
当時、柚葉は巫女として神事に携わっており、穢れを避けるため、琴葉のもとへ足を運ぶことはできなかった。
「その夢の中では、私はお姉さまと共にいることができたのです」
柚葉の声が、わずかに震えていた。
「そして、息を引き取ったあの冬、その瞬間まで、私はお姉さまと共にいることができました」
「……」
「息を引き取るその瞬間、お姉さまは、私の傍にいるように語りかけてくださったのです」
柚葉は、迷いを断ち切るように、勇気を振り絞って口を開いた。
「……私が見た夢は、お姉さまの本当のお姿だったのでしょうか。それとも、御方さまの御業が見せた幻だったのでしょうか」
「夢の中で見たそのお姿は、あなたの心が呼び寄せたもの──琴葉さまの魂が、あなたの祈りに応えて現れたのです」
柚葉は、息を呑んだ。
「では、あれは幻ではなく……」
「ええ。幻ではありません。あなたの祈りに、琴葉さまの魂が応えて、夢に現れたものです。あなたが見たものは、琴葉さまの魂の記憶なのです」
柚葉は、思わず身を乗り出すように問いかけた。
「魂が見えるのですか……!お姉さまは、今もここにいらっしゃるんですか!」
「私は、人の心に宿る光を見ることができます。それと同じように、魂の揺らぎも感じ取ることができるのです。琴葉さまの魂は、もうこの場所にはおられません。あなたの真心を受け取って、安らかに旅立たれました」
社殿の背後には、金色に染まったススキが風に揺れていた。
空は澄み渡り、雲は高く、陽の光が境内の石畳を照らしている。
遠くからは、祭りの準備をする村人たちの声が微かに聞こえ、神楽殿の屋根には一羽の白鷺が舞い降りていた。
その姿は、まるで神の使いのように、静かに辺りを見渡していた。
柚葉は、白鷺の姿を見つめながら、そっと目を閉じた。
胸の奥に宿る祈りが、風に乗って空へと昇っていくような気がした。
その瞬間、彼女の心に、静かな確信が芽生えていた。
──姉の魂は、確かに応えてくれた。
そして今、私はこの地に生き、祈りを捧げ続ける者として歩んでいく。
柚葉の瞳には、澄み渡る空と、遠く舞い上がる白鷺の姿が映っていた。




