第37話:柚葉の夢
──風が、梅の枝を揺らしていた。
柚葉は、見覚えのある庭に立っていた。
春先の陽光が、梅の花を透かして降り注いでいる。
足元には、幼い頃に遊んだ石畳。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
「……柚葉」
振り返った瞬間、胸が震えた。
そこに、姉がいた。
「柚葉、こっちへいらっしゃい」
懐かしい声。懐かしい笑顔。
「琴葉お姉さま……」
柚葉は、迷いながらも、姉の手に指先を重ねた。
それは、春の光のように優しく、懐かしかった。
柚葉は、胸の奥に眠っていた想いが、静かにほどけていくのを感じていた。
──あの日、姉は流行り病で亡くなった。
元々病弱だったが、昨年の春を境に、急激に悪化した。
長く続く咳。血の混じった痰……。
彼女は結核を患っていた。
当時、人々はそれを“穢れ”や“霊の障り”と捉え、祈祷や除霊が行われる事も多かった。
柚葉は、姉に降りかかった穢れを祓おうと、必死に祈った。
姉の苦しみは、すべて自分が引き受けると心に誓った。
神に尽くし、善行を重ね、姉の癒えを信じていた。
それでも、最後の瞬間は唐突に訪れた。
柚葉は、庭に咲いていた梅の花を見つめながら、姉と過ごした春を思い出していた。
梅の花が風に揺れるたび、柚葉の記憶も、淡い光のように揺れていた。
切なさと温もりが庭を包み、柚葉はそっと目を閉じた。
──梅の花が散り、風は徐々に熱を帯びていく。
季節は巡り、風景は夏の光に包まれていた。
つい先ほどまで、姉さまと共に梅の花を眺めていた。
それなのに今、琴葉は静かに床に伏している。
あの夏、姉は“穢れを背負った者”として人々の目から遠ざけられた。
当時の人々に、結核の空気感染という概念は無かったが、病が人に移ることは感覚的に理解されていた。
病は、疫病神の影。物の怪の囁き。誰もが、それを霊の障りとして祓おうとした。
(こんなに苦しそうに……病よ、私に降りかかって。琴葉お姉さまから離れて……)
柚葉は姉の手を握ったまま、目を閉じる。
涙が、静かにこぼれ落ちていく。
──夏の熱気が遠ざかり、澄んだ空気が庭を静かに包んでいた。
虫の声が遠くで響き、風はひんやりと肌を撫でていく。
季節は、秋へと移ろっていた。
この頃、病が移ると恐れられ、姉さまに会うことは許されなかった。
私は巫女として、祭りの支度に追われていた。
けれど今、小さな部屋の中で、姉さまは眠り、私はその傍にいる。
これは、柚葉にとって、初めて見る風景だった。
(お姉さま、こんなに痩せてしまって……)
その身は日に日に弱り、食も喉を通らず、病に抗う力さえ残されていなかった。
肺が結核菌によって破壊され、息切れや胸の痛みが強まっていた。
柚葉は、琴葉の両手をしっかりと握りしめた。
見つめることが辛くて、目を伏せようとした。それでも、目を逸らすことはできなかった。
──気が付けば、季節は巡り、冬が訪れていた。
虫の声は消え、風の音だけが耳に残る。
空気は冷たく、肌を刺すようだった。
目の前の琴葉は、もう声を発することはなかった。
握りしめるその手は、温もりを失い、静かに布団の中に沈んでいた。
「お姉さま!」
柚葉は、琴葉の冷たい手を握りしめたまま、声を震わせた。
涙が頬を伝い、胸の奥から絞り出すような叫びが漏れる。
「私を残して、逝かないでください!」
柚葉は、抑えていた感情を堪えきれず、涙が溢れ出すのを止められなかった。
何もしてあげられなかった。
何も届かなかった。
心の奥に残ったのは、どうしようもない悔しさだった。
──その時、琴葉の周囲に輝く青い光の粒子に気が付いた。
いつから舞っていたのだろうか。どこかで見たことがある気がしたが、思い出せない。
『……ありがとう』
ふと、琴葉の声が聞こえたような気がして、柚葉は顔を上げた。
「お姉さま……?」
けれど、姉の体は冷たく、動かないままだった。
『ありがとう、柚葉』
今、はっきりとわかった。琴葉の声が頭に直接響いてきているのだ。
「お姉さま!……柚葉はここにおります!」
柚葉は顔を上げ、涙をこぼしながら叫んだ。
青い光が瞬き、空気が震えた──
その瞬間、琴葉の想いが言葉となって、柚葉の中に溢れ出してきた。
「……え。これは、お姉さまの心……」
琴葉は、孤独なんかじゃなかった。
柚葉の祈りが、その姿が、琴葉に勇気を送っていた。
無力なんかじゃなかった。
柚葉の言葉が、声が、琴葉に力を与えていた。
一人なんかじゃなかった。
柚葉の存在が、その手が、最後まで琴葉を包んでいた。
それから、どれほどの時が流れただろうか。
柚葉は、静かに未来を見据えていた。
「お姉さま……私は前へ進みます。あなたを支えたように、今度は人々の心に寄り添って生きていきます。あの神さまがそうであったように──」
──御座所には、青い粒子が舞い、光が空間を満たしていた。
イシュタルは全ナノユニットを解放し、帳の境界は、もはや意味をなさなくなっていた。
座所中央の空中には、空間の歪みが生じていた。
それは、YOMIによる時空通信だった。
柚葉の枕元には、琴葉の意識の残響が微かに検知されていた。
彼女の魂は、柚葉の傍に、そっと寄り添っていた。
魂の記憶構造が解析され、映像と言葉に変換された情報が、ノンレム睡眠中の柚葉の脳波に重ねられていた。
夢の深度が最大に達した瞬間、柚葉の頬に涙が伝った。
その時、夢の深層で、柚葉の言葉が静かに響いた。
イシュタルは、柚葉のメッセージを光の粒子に乗せて、琴葉の魂へと静かに流した。
『お姉さま……私は前へ進みます』
『あなたを支えたように、今度は人々の心に寄り添って生きていきます』
彼女の魂は、イシュタルから粒子を受け取った。
安らぎに包まれたように、ふわりと舞い上がる。
次の生命へと向かう旅立ちのようだった──




