第36話:揺れる心 -2-
日が傾き始め、社の影が紅葉の絨毯に長く落ちていた。
御座所には帳が下ろされ、あたりには夕餉の香りが微かに漂っている。
この日は柚葉に代わり、真澄が支度した膳が並べられていた。
真澄は膳を整えると、気配を残すことなく既にその場を離れていた。
神職や巫女が儀式を整える際、あえて視線に入らないよう動くことがある。
それは、神聖な場に人の気配を持ち込まぬよう、そうした振る舞いが重んじられてきた。
儀を支える者は、それを誇示しないことが美徳とされてきた。
神の御前に、己の姿を置かぬこと──それが、真澄なりの礼節であった。
「……おかえりなさいませ」
柚葉は、戻ってきた初穂と目を合わせることができなかった。
初穂に寄り添うと誓ったはずなのに──恐怖心がその誓いを崩していく。
そんな自分が、情けなく、ただ、悔しかった。
「今日は、穏やかに過ごせましたか。お身体のほうは、落ち着かれましたか」
初穂の声は、以前の淡々とした調子とは違い、どこか柔らかな温もりを帯びていた。
「はい……ご心配をおかけしました」
初穂は微かに微笑み、帳の向こうへと歩みを進める。
柚葉は、一瞬ためらいながらも、その背を追った。
(表情筋検知:口角に微細な動き)
(感情推定:抑制傾向あり。恐れと信頼を同時に検出)
(背後から追従:距離1.5m後方。重心後退傾向。警戒感有り)
目を合わせようとしない柚葉の、心の距離を探ろうとしていた。
昨夜のあまりに異様な光景が、柚葉の心に影を落としていた。
(見た目も、声も、振る舞いも──いつもの初穂と同じ)
何も変わらない姿。なのに、どうしても距離を置いてしまう。
──夕刻、初穂と柚葉は向かい合って座り、言葉少なに箸を進めていた。
焼き魚の香ばしさと、山菜の煮物のほのかな甘みが、張り詰めた空気を和らげていく。
「本日、村の方々とお話をいたしました。豊作にて、皆さま大層お喜びのご様子でした」
「それは……本当に、よかったです」
その声は、かすかに震えていた……。
初穂は、柚葉の瞳を見つめ、言葉に力を込めた。
「春よりこの地に参って以来、皆さまが心を開いてくださっているのは、あなたが変わらず傍にいてくださったからです」
「……」
初穂の言葉が、胸の奥に染み渡っていくようだった。
「神の名を冠して言葉を紡ぐことに、迷いがなかったわけではありません。けれど、あなたが傍にいてくださることで──その言葉に、皆が耳を傾けるようになったのです」
柚葉の胸の中に、戸惑いがないわけではなかった。
けれど、それ以上に──初穂に宿る何かを知りたかった。
人のようで、人ではない。
それでも、ここまで寄り添ってくれるその心を、もう一度信じてみたい。そう願わずにはいられなかった。
「……お方様は、人の心を、見通しておられるのですか?」
初穂は、静かに目を伏せた。
「……見通す、というのは、少し違うかもしれません」
わずかな沈黙が流れ、柚葉は息を呑んだ。
「心の揺れや、思いの色──そうしたものが、私には、感じられるのです」
(……やはりそうだったんだ!)
「では……わたくしの心も、今──」
「……」
初穂は、そっと頷いた。
柚葉は、初穂の顔を見つめた。
その瞳に映るものが、何であれ──もう一度信じよう。そう、心に刻んだ。
膳に添えていた手に、わずかに力が入る。
膳をそっと脇へ寄せ、少しだけ身を乗り出した。
そして、柚葉は、意を決して口を開いた。
「……無礼を承知の上でお聞きしたいことがございます──どうか、お答えいただけませんか」
「はい、なんでしょうか」
初穂には、柚葉の胸の鼓動の高まりが、言葉より先に伝わってきた。
「……初穂に宿る、あなたは、いったい何者なのですか。神の御使いなのか、それとも──もっと別の存在なのですか」
初穂は、柚葉を見つめたまま、時が止まったかのように静止した。
時間にすると三秒くらいだろうか。
けれど、イシュタルの演算中枢にとって、その数秒は果てしない葛藤の深淵だった。
初穂は、今の関係を壊したくなかった。
柚葉を欺くようなことも、したくなかった。
けれど──自分の正体を語ることで、その絆が崩れてしまうかもしれない。
その可能性を、どうしても受け入れることができなかった。
初穂は、膝の上に手を重ねたまま、静かに言った。
「私には、神の力が備わっています」
それは、AIとして導き出した最も合理的な答えだった。
なのに、言葉を発した瞬間、初穂の心が引き裂かれるような痛みを感じた。
全てを打ち明けたかった。
誰よりも、柚葉に理解してほしかった。
それでも──この言葉しか、選べなかった。
この痛みが、人の心の葛藤というものなのだろうか。
理論として理解していた。しかし、実際に感じるそれは──まるで別物だった。
柚葉の瞳孔の揺れと心拍の変化を捉えた。
(彼女から不安が消えていない。私の”能力”が、恐れを抱かせている……)
「それでは、わたしからも──ひとつ、よろしいですか」
「は、はい……。どうぞ、お聞きください」
「あなたの一番大切なものを、思い浮かべてください」
「……」
最も大切なもの。柚葉は、問われたら”信仰”と即答するつもりでいた。
「答えなくて構いません。目を閉じ、強く思い浮かべてください」
柚葉は、初穂の言葉に従い、静かに目を閉じた。
その胸の奥にある、秘められた想い──それを、そっと思い描いた。
(姉上さま……どうして私を残して逝かれたのですか)
柚葉の頬を、一滴の涙が静かに伝っていった。
「ありがとう。目を開けてください」
「あの……これは、いったい……」
「私の力は、あなたと、この地に生きる人々のために授かったもの。その意味は、明日、あなた自身の心が教えてくれるでしょう」
問いの答えは、明日に持ち越されたようだった。
柚葉の心には、晴れきらぬ霧のような感情が残っていた──
昨日はあまり眠れなかったからだろうか、柚葉は寝床に身を横たえると、引き込まれるように眠りへと落ちていった。
秋の空気が心地よく、村は静粛に包まれていた。
物音も立てず、初穂がゆっくりと寝床から起き上がる。
そっと柚葉の手に触れる、その寝息に聞き耳を立てている。
(脈拍:安定。深度睡眠への移行を確認)
(睡眠状態:レム期突入。夢想活動の兆候あり)
(脳波:θ”シータ”波を検知。感情記憶領域の活性化)
柚葉の脳波が安定し、深度睡眠への移行が完了したことを確認すると、初穂は静かに手をかざした。
空間の温度がわずかに変化し、寝所の周囲に光の粒が浮かび始める。
掌から放たれた光の粒が、空気に溶け込むように揺らめき──柚葉の額へと、集束していった。
優しい梅の香が、季節を越えて辺りに漂い始める。
空気がわずかに温もり、柚葉の指先に手を添えた。
「……柚葉」
その声に包まれながら、柚葉は眠りの深みへと沈んでいく。
そこには、まだ見ぬ再会が──静かに、待っていた。




