第35話:揺れる心
柚葉は、寝所の隅で膝を抱えて座り込んでいた。
初穂の姿も見当たらない……。
昨夜の、あの赤い光を帯びた目が脳裏に浮かぶ。
あの光景は恐ろしかった。けれど──冷静になってみれば、初穂は村を守ってくれたのだ。
ただ、あの光景があまりに異様だった。
その身に宿るのは、神の力なのか──それとも、異形の者の業なのか。
どうしてもそんなことを考えてしまう……。
寝所を出ると、膳がひとつ、静かに並べられていた。
わたしのために……誰が?
(まさか──御方さまが、手ずから?)
外に出ると、陽はすっかり高く昇り、昼の陽射しが、秋の空気を温めていた。
社の方から、誰かの気配がする……。
柚葉はゆっくりと社の方へ歩みを進めると──国重と真澄の姿があった。
真澄がこちらに気付いた。
”叱られる”と思ったが、真澄の声は優しかった。
「あら、柚葉。お体の具合は、もうよろしいのですか」
「え……。あの、少し長く休んでしまいました。ご迷惑をおかけして……」
真澄がわずかに微笑み、軽く首を横に振る。
「御方さまより伺いましたよ。昨夜は熱にうなされていたとか。祭りの支度に心を砕かれるのはありがたいことですが、ご自身のお身もお大切に。神事に仕えるお役目があるのですから」
平安時代において、身体の不調は「穢れ」や「霊的な兆し」として捉えられることが多かった。 病や発熱は、単なる身体的な異変ではなく、霊的・呪術的な意味合いを伴うものと考えられていたのである。
特に女性の場合、夢や熱にうなされる状態は、神がかりや霊的な感応として受け取られることがあった。 そのため、神事に関わる女性は、穢れを避ける意味でも、日々の体調管理が重んじられていたのである。
柚葉は働き者で、今回の収穫祭の準備にも人一倍心を砕いていた。
その姿を見ていた村人たちは、初穂の語ることにも自然と耳を傾け、疑念を抱く者は誰一人いなかった。
「柚葉や、心配せずともよい。今日はゆるりと休まれよ」
「長老さま、ご心配をおかけしてしまって……すみません」
国重はにこりと笑うと、祭りの準備へと向かっていった。
昨夜の出来事は、ただの悪夢だったのだろうか──
いや、確かに現実だった。
(御方さまは、昨夜の出来事については何も語られていないようだ……)
柚葉は、今日は身を休めることにしようと心に決め、静かに寝所へと戻っていった。
その頃、初穂は村を歩いていた。
「今年も、よく実りましたね」
「祭りの準備、ありがとうございます」
柔らかな言葉の裏で、初穂の視線は鋭く、昨夜の痕跡を探っていた。
襲撃してきた男たちは、村の外れから御座所へと、迷いなく足を運んでいた。
その動きは、初穂を目指していたとしか思えず、何らかの情報が洩れていると考えざるを得なかった。
初穂は、村人の表情や動きを一つひとつ拾い上げながら、静かに観察を続けていた。
村人たちは、神の御言葉を授ける初穂の声に耳を傾け、収穫の喜びを分かち合っていた。
だが、初穂は常に冷静な視線で、些細な表情の揺れ、言葉の選び方、視線の動き──
それらを一つひとつ拾い上げながら、静かに村の人々を分析していた。
だが、村人たちの様子に不審な点は見られず、初穂は間者の存在を否定した。
この村の者たちは、皆、収穫祭に向けて誠実に動いている──そう確信できた。
「あ、初穂さま……。柚葉が、いつもお世話になっております」
イシュタルにとっては、初めて言葉を交わす女性だった。
(生前の記憶によると──柚葉の母ですね)
「お母さま、柚葉には日々尽力いただいております。わたくしも、深く感謝しております」
以前の初穂とは、まるで別人のようだった。
村人たちも口を揃えてそう語り、もはや驚く者は少なかった。
その言動と立ち振る舞いには、神がその身に宿ったとしか思えなかった。
初穂は、柚葉が日々心を尽くしていること、祭事に励んでいることを母へ語っていた。
母は、娘が神事に仕えていることを誇らしく思い、自然と笑みがこぼれていた。
初穂が自ずから言葉を交わし、時を過ごすのは珍しいことであった。
『柚葉のことが知りたい』
──その思いがどこから湧いたのかは定かではない。
声や仕草、まなざしの揺らぎに──なぜか心がそっと引き寄せられていく。
過去の記憶だけでは足りない……。
彼女を取り巻く人々の言葉や表情からも、もっと深く知りたいと思った。
AIの判断ではなく、”初穂の心”がそう導いた。
ただ、そうせずにはいられなかった──。




