第32話:月下の襲来 -2-
村では、収穫の時が本格的に始まっていた。
米や雑穀、芋類などの収穫が、村のあちこちで始まっていた。
作物は、干したり漬けたり、粉にしたりと、冬に向けた加工が進められていた。
これらの作業は、主に女性や年長者が手際よく担っていた。
山では、山菜や木の実の採取が行われ、一部の男たちは狩猟に出ていたため、昼間の村は静まり返っていた。
社では収穫祭の飾り付けや供物の準備が進められ、真澄と柚葉、そして療養を終えた国重も、それぞれの持ち場で忙しく立ち働いていた。
初穂は、御座所の静かな間に身を置き、全身のナノユニットを活性化させていた。
医療用ナノユニットが初期化され、初穂の体内で再調整が進められていた。
体の周囲に漂う青白い光が、やがて紫の色を帯び始めた。
数日前から、村の周囲を見知らぬ男がうろついていた。
村の者には一切気付かれることなく、物陰から村の様子を窺っていた。その動きは、誰かを探しているようでもあった。
イシュタルは、カササギの眼を通してその男の動きを捉えていたのだ。
──周囲の光は次第に赤みを帯びながら、初穂の体へと染み込んでいった。
彼女の体には熱が滲み、火照った感覚が静かに彼女を包んでいた。
立ち上がったその背には、赤の残光がわずかに揺れていた。
初穂はゆっくりと御座所を後にした。
村を流れる川沿いを辿り、静かに山の方へと向かった。
山の川の水は澄み、肌を刺すような冷たさだったが、彼女には心地よかった。
冷たい水に身を委ねながら、初穂は静かに思索を巡らせていた。
幾通りもの未来が、演算中枢の中で描かれていた。絶え間なく流れるシミュレーションの中で、初穂の心の奥に潜んでいた違和感が、ふと浮かび上がった。
不審な男は、昨日を最後に姿を見せなくなっていた……。
胸の奥に広がるこのざわめき──これが、”嫌な予感”というものなのか。
違和を胸の奥に抱えながら、初穂は静かに策を描いていた。
初穂が山を下りる頃、夕陽が静かに傾き始めていた。
社の裏に差しかかったとき、柚葉の姿が目に入った。
「あっ、御方さま。……どちらへ行かれていたのでしょうか」
柚葉の声には、どこか不安げな響きがあった。初穂の身を案じていたのだ。
「……川の上流にて、禊をしておりました」
初穂の予想外の言葉に、柚葉は目を丸くした。
「え、御方さまが禊を……?」
禊とは、神に祈る前に、身と心を清めるために行われるものとされていた。
神は穢れを持たぬ存在とされ、禊を必要としないという民間の信仰が根付いていた。
柚葉にとって、禊は神に仕える者や参拝者が行うものであり、違和感が拭えなかった。
初穂は、周囲の価値観の細やかな違いを、まだ十分に理解できていなかった。
初穂の言葉に戸惑いながらも、柚葉は彼女の身を案じずにはいられなかった。
「お体……冷えてはおられませんか。どうか、お体に障りがありませぬよう」
「心身ともに整いました。ご心配には及びません」
「そうでございましたか……それなら、少し安心いたしました。ですが、次からは私もご一緒させてくださいませ」
柚葉は、初穂のことが気になって仕方がなかった。
……初穂が肌を晒し、誰かに見られていたらと思うと、胸がざわついた。
「承知いたしました。柚葉さんも、よく務められましたね。今宵は、どうか安らかにお休みくださいませ」
柚葉は、初穂の隣に歩を進めた。
夕暮れの道を、ふたりは並んで帰っていった──
収穫祭の準備は着々と進んでいる。
村はすっかり静まり返り、虫の声のみが微かに響いていた。柚葉もまた、静かな寝息を立てていた。
柚葉は、祭の支度に熱心に取り組み、誰よりも積極的に動いていた。
その姿には、村への想いが滲んでいた。
初穂は、柚葉の横顔に静かに視線を落とした。
なぜだろうか、胸の奥に言葉にならぬ温もりが広がっていく。
初穂の胸に広がる温もりが、イシュタルにも少しわかった気がした。
分析することはなかった。この気持ちを壊さずにそっと見守りたかった──
その頃、わずかな月明かりの下、四人の男たちが獣道を忍び足で進んでいた。
二人は刃こぼれした鉈を握りしめ、手には土と血の痕がこびりついていた。
もう一人は、短弓を背負い、獣の気配を読む術に長けた狩人であった。
その目は、闇の奥に潜む気配を探っていた。
最後の一人は、山刀を腰に下げた頭目。
かつて幾度も戦場を渡り歩き、今もなお、殺気を纏っていた。
顔を布で覆い、血と泥にまみれた衣を纏ったその姿は、夜闇に溶け込む亡霊のようであった。
「……奴の寝所は、社の裏だ。気を抜くな」
頭目の低い声が、他の者の動きを制するよう響いた。
「噂通りなら、異様な力を持ってる。油断するな」
「もうひとりいたらどうする?」
鉈を手にした二人が、頭目へと視線を向けた。
「……邪魔なら斬れ。声を上げさせるな」
彼らの標的は、ただひとり。神と称される娘──初穂。
その異様な力の噂は、彼らにとって好奇でも畏怖でもない。
面倒と見れば、容赦なく黙らせる。それが、彼らの流儀だった。
村の外周に近づいた瞬間、弓を背負った狩人は、何かがおかしいと感じていた。
「……空気が違う」
左手が静かに動いた。頭目の合図に、全員が足を止める。
「……何が違う?」
「……村に入ったときから、何かが……違う」
「まさか、勘づかれたか?」
「……いや、まだ気づかれてはいない」
狩人の男は、耳鳴りが呪いのように続いていた。
”神がいる村”──その言葉が、耳の奥でじわりと響き、吐き気に似た感覚が広がった。
彼は、異様な違和感はどうやら自分だけのものだと悟り、それ以上は何も言わなかった。
──初穂は、すでに目覚めていた。
社の裏手、木々の間に張り巡らされた深夜の結界。
彼らがその領域に足を踏み入れた瞬間、初穂の中枢に異常信号が走った。
(侵入者有:四名。武器所持、刃、弓。殺意有。境内へ進行中)
初穂はそっと寝床を離れ、隣で眠る柚葉の寝顔に目を落とした。
柚葉は、月明かりの中で静かにまぶたを閉じていた。
(ここで終わらせる……誰にも、近づかせない)
白衣の裾がわずかに揺れ、夜の静寂へと歩を進める
足音は一つも立てず、月光だけが白衣の影を描いていた。
……やがて男たちは、境内の端に足を踏み入れた。
その瞬間、奥の方、社の前に立つ白い影が見えた。
暗闇の中、ただ月光に照らされるようにして、白衣の少女がそこに佇んでいた。
男たちは思わず足を止め、息を飲んだ。
その姿を見た瞬間、彼らは悟った──この娘こそが”神”だと。
まるで自分たちの来訪を知っていたかのように、そこに立っていた。
逃げもせず、隠れもせず、あまりに自然で、あまりに静かで──そして、異様だった。
「……なんだ、見られてる……?」
初穂は目を見開き、頭目の男を真っ直ぐに見据えた。
その視線は、まるで射貫くように鋭く、瞬きもせずに向けられていた。
三人は一瞬たじろぎ、思考が止まった。場を包む沈黙に、喉の動きすら響いた。
だが、頭目の男の目は、怯むことなく、ただ彼女を見つめていた。
(あの女、なんで逃げねぇんだ……)
襲撃を見抜かれたことはある。だが──
標的がひとりで正面に立って待っているなど、これまでに経験したことがない。
けれど、彼らは躊躇を長く引きずる者ではなかった。
人を殺すことに何の感情も抱かぬ者たち。
「……関係ねぇ。やるぞ」




