第31話:月下の襲来
村は秋の実りに満ち、9月の終わりが穏やかに近づいていた。
イシュタルがこの時代に現れてから、いつの間にか半年が経とうとしていた。
村人たちの警戒心も次第に薄れ、今では彼女を神の化身と信じ、祈りを捧げる者が現れるようになっていた。
子供たちは彼女の周りに集まり、物語を求めて瞳を輝かせていた。
大人たちは畑に汗を流しながら、時折彼女に助言を求め、言葉に耳を傾けるようになっていた。
初穂は、神としての姿を崩すことなく、静かに村を見守っていた。
村の平和と秩序を維持し、全体を最適化するために──
それが、彼女の導き出した最適解だった。
──平安時代、村々を脅かす存在として、野盗たちがこの時代の闇に潜んでいた。
行き場を失った元武士や困窮した農民たちは、飢餓によって家を追われた。
あるいは最初から盗みと暴力しか知らぬ者たち……。彼らはやがて集団化していった。
9世紀後半から中央集権体制が形骸化してゆき、律令制度の崩壊が進んでいた。
時の流れとともに、中央の力は地方に届かなくなっていた。
この頃から、山村においては治安維持が困難になり、盗賊・野盗が横行。
彼らは集団を成して村を襲い、火を放ち、女や食糧を奪っては森に消えるのだった。
村と都を結ぶ街道には、荷を狙う盗賊が潜み、使者を襲うことも珍しくなかった。
荷は一人では運ばれず、数人がそれぞれに担い、慎重に街道を進んだ。
僧兵や武装した護衛が同行することもあったが、それはごく限られた場合にすぎなかった。
道の途中には、旅人が一夜を明かすための仮の宿が設けられていた。
そこには、商人のような格好をした男がぽつんと座っていた。だが、荷物らしきものは見当たらない。
荷物はすべて盗賊に奪われたらしく、男は肩を落として座り込んでいた。
国重の使者が宿に着いたとき、商人の身なりをした男が心配そうに声をかけてきた。
「……お一人ですか?」
「ああ、都へ向かう途中でな」
使者は、どこか訝しげな表情で答えた。男のそばには、荷物らしきものが見当たらなかった。
「このあたりでは、商人が襲われることが増えているようでして……」
「まこと、物騒な世となりましたな……。そなたは?」
「先日、荷をすべて奪われましてな……。もう帰るしかあるまいかと、思案しておるところです」
「……」
気の毒で、言葉も出なかった。
命が助かっただけでも、幸いなのだろう。そう思ったが、何も言えなかった。
「この辺りも、もうすぐ暗くなる。私は明朝ここを発ちます。あなたも、今夜はここで休まれたほうがいいでしょう」
野盗の一味が、このあたりに潜んでいるかもしれない──そんな考えが、ふと頭をかすめた。
「……そのようですな。今宵はここに泊まるといたしましょう。そなたの旅路が無事でありますように」
「感謝いたします。あなたも、道中お気をつけて」
翌朝には、商人の身なりをした男の姿はすでになく、一足先に発ったようだった。
荷物の紛失や盗難が後を絶たず、使者たちは常に警戒を強いられていた。
使者の男は、荷の包みをそっと開き、中身を確かめた。
荷物、そして咲から託された手紙──全て問題ない。
彼は、胸の内で静かに息を吐いた。荷も、手紙も、無事だった。
──その夜、山のふもとにある野盗の住処では、焚火の炎が闇の中で静かに揺れていた。
炎が周囲を赤く染める中、商人姿の男が、不気味な笑みを浮かべていた。
「……神の力で、命を戻す娘がいるらしい。死人さえ、目を開けるという」
咲が父に宛てて送った一通の手紙。
そこには、”光を放つ不思議な力を持つ少女”の存在が、驚きとともに記されていた。
その頃の手紙は、封筒などなく、文を折り重ねることで中身を隠していた。
文の端を細く折り重ね、あるいは結び目を作って封とする──それが、当時のやり方であった。
咲は丁寧に手紙を折り封じていたが、途中で誰かに読まれてしまっても、器用な者であれば折り目を戻すだけで復元が可能だったのである。
「神?そりゃあ、たいしたもんだ……そんな力があるなら、俺たちが奪ってやる」
「都の連中に売れば、金になりそうだな」
それまで黙っていた頭目の男が、周囲を見回し、商人姿の男に冷たく言い放った──
「……お前は、村の造りを探れ。娘の居所を突き止めろ」
商人姿の男は、不敵な笑みを浮かべると、焚火の影に紛れるように背を向け、静かにその場を後にした。
焚火の炎が、闇の中で妖しく揺れていた。
そして翌朝、村の外れには、見慣れぬ足跡が残されていた。




