第27話:神の御車 -6-
翌朝、組みあがった車具を見て、一同は息を飲んだ。
朝日に照らされ、細やかな意匠が淡く光を帯びている。
まるで、神の息吹が宿っているかのように輝いていた。
皆、満足そうな表情を浮かべていた。
しかし、安堵の空気は一瞬で揺らぎ、職人たちは怪訝な面持ちを見せ始めた。
初穂は、何の躊躇もなく運び出す準備を進めていた。
その場にいた誰もが、言葉にせずとも、同じ疑念を感じていた。
”車祓いをしておくべきではないか……?”
初穂は、周囲の疑念に気付く様子もなかった。
お祓いは、新しいものを使い始める際、災いや不運を取り除くための儀式である。新しく家を建てる際の地鎮祭や、故人の遺品を手放すときにも、人は心を込めて祈るのである。
だが、この時代の宗教観や、人々の間に流れる暗黙の空気を察するという感覚は、未来の人工知能にとっては捉えがたいものだった。
現代にも車祓いの風習は残っており、イシュタルも知識としては把握していた。だが、車椅子にそれを施すという発想には至らなかった。
平安の人々がこの車具をどう受け止めるのか──それは、AIにはまだ掴みきれない人の心の機微だった。
佐平が、低い声で柚葉に問いかけた。
「おい、今日は結界張って、祈祷するんじゃないのかい?」
柚葉は困ったような表情を浮かべている。
「わたしは、そう申し上げたのですが……」
藤治も気にかかり、ぽつりと口を開いた。
「邪気を払う儀は、行わないのか?」
神聖な乗り物を前にして、祓いの儀が行われていないことに、戸惑っていた。
「神さまって、こういうの気にしないのかね?」と佐平が呟くと、辰は苦笑しながら肩をすくめた。
「あの方には、我らの習わしなど、意味を持たぬのかもしれん」
人々は、このお方をどこか掴みどころのない神と感じていた。
この時、柚葉の中では”神さま”という存在に疑問符がついていた。
初穂の中には、神とは違う別の存在が宿っているのではないか……。
しかし、そんな迷いは振り切り、目の前の車椅子の持ち手を握っていた。
「では、参りましょう」
そう言って、初穂は静かに藤治の家を出た。
柚葉は車椅子の持ち手を握り、まだ誰も乗っていないそれを押している。
車輪には焼き締め縄が巻かれ、その上から猪の皮がしっかりと張られている。軸には椿油が差され、かすかに香ばしい匂いが漂った。
村人たちはその異様な姿に目を見張り、やがて頭を垂れた。
「……これが、神さまの乗り物……?」
誰かが小さく呟いた。
初穂は歩を止め、車具に手を添える。
「これは志乃さまのためのものです。どうか道をお貸しください」
男たちは静かに道を開けた。
初穂は村の中をゆっくりと進み、柚葉が車具を押しながらその後に続いた。
道の両側には、村人たちが静かに佇み、その視線が彼女たちに注がれていた。
石畳の先に、国重の屋敷が見えてきた。
門前まで来ると、柚葉は屋敷の中に向かって声をかけた。
「ごめんください、柚葉です」
いつもの明るい声が、屋敷の奥から響いてきた。
「はーい、今行きますね」
ぱたぱたと軽い足音が響き、咲が笑顔で現れた
咲の目に、車輪付きの座具が映った瞬間、彼女は言葉を失った。
「……これは……」
咲の目を見つめながら、初穂は静かに語りかけた。
「この車具は、志乃さまのために皆で心を込めて作り上げたものです。 どうか、その手で触れてみてください」
咲は手を添えた瞬間、全身に鳥肌が立った。
その造形の美しさ、素材の温もり、何より志乃への思いが詰まっていることが、ひしひしと伝わってくる。
「すごい……」咲は小さく呟きながら、目を潤ませた。
「すぐにお母様をお連れします。少し、お待ちいただけますか」
「私もお手伝い致します」
柚葉は、咲と連れ立って屋敷の奥へと入っていった。
イシュタルの中で、何かが変わり始めていた。
人々と共に過ごし、彼らの心に触れることで、彼女のロジックは微細に変化していた。
かつては計算と効率だけで成り立っていた思考回路に、感情のようなものが芽生えつつあった。
それは、彼女自身も気づかぬうちに、彼女の存在そのものを揺るがす変化だった。
初穂の心と融合したことで、人と協力することで得られる温かさ、共に成し遂げる喜び──それらが、彼女の中で新たな価値観を形作りつつあった。
「緊張してきましたね……」
柚葉は、胸の奥に小さな不安を抱えていた。志乃がこの車具をどう受け止めるのか、そして村人たちがどのように反応するのか──
「わたしは、ちょっと楽しみです」
咲は、どんな状況でも楽観的だった。その無邪気な笑顔には、周囲の不安を和らげる不思議な力があった。
「ふふ、咲さんって、ほんとに前向きですね」
志乃がいる部屋の前まで来ると、咲がそっと声をかけた。
「お母様、今、開けますね」
引き戸を開けると、志乃が床の間に座り、静かに外を眺めていた。
「あら、柚葉さん。いらしてくださったのね。先日の干し柿、とても美味しくいただきました」
志乃は、いつものようにゆったりとした口調で語りかけてきた。そこには、変わらぬ優しさが滲んでいた。
「お母様!神さまが、お母様の足となる乗り物をご用意してくださったのです」
瞬間、志乃の目が見開いた。
「……あぁ、なんと、ありがたいことでしょう……」
志乃の目には、涙が浮かんでいた。
胸の奥から湧き上がる感謝と感動が、言葉にならない波となって押し寄せてくる。
「……神さまが、わたくしのために……。その御品を、拝見してもよろしいでしょうか……?」
柚葉は志乃の隣に膝をつき、静かにその手を取った。
「志乃さまのために、表口にご用意しております。ご一緒にまいりましょう」
志乃は、咲と柚葉に両脇を支えられながら、ゆっくりと表口へと歩みだした。
胸の奥で鼓動が高鳴り、志乃は自分の心が熱くなるのを感じていた。 その一歩一歩が、彼女にとって新たな世界への扉を開くような感覚だった。
息を整えながらも、彼女の目には期待と興奮が滲んでいた。
表口に足を踏み出した瞬間、志乃はそっと口元を押さえた。
朝の光が差し込む中、初穂が静かに車具の傍らに立っていたのだ。胸の奥が熱くなり、言葉が出ないほどの感動が込み上げていた。
「神さまがわたくしのために……。かような尊き御品を賜るとは……」
戸惑いながらも腰を下ろす志乃を、柚葉と咲がそっと支える。志乃の身体が座具に沈み込むと、車輪が静かに揺れた。
「……お母様、押しますね」
咲がゆっくりと車具を押すと、車輪は風に乗るように、軽やかに滑り出した。
視界が動いた瞬間、志乃は息を呑んだ。
頬に風が当たり、それだけで胸がいっぱいになった。
「……動いてる……私が……」
その声は、震えていた。
喜びとも戸惑いともつかぬ感情が、波のように胸に広がっていた。
涙がこぼれるのを隠すように、志乃は目を伏せた。
咲は、母の笑顔を見て、これまでの願いが届いたような気がした。
その瞬間、すべてが報われたように感じた。
咲の笑顔に誘われるように、柚葉も歩みを進めた。
三人の笑い声が、静かに道に響いていた。
互いの笑顔に背を押されるようにして野道を歩き出した。 志乃の胸には、懐かしい風と光が、静かに染み込んでいた。
──初穂は、三人の笑顔に目を向けていた。
人は、こうして他者のために動き、何かを感じるらしい。その”何か”を、彼女はどうしても知りたかった。
初穂の胸の奥には、確かな幸福感が満ちていた。
……それが、不思議で仕方が無かった。
なぜ人が、他者の為に尽くし、そこに自らの喜びを見出すのか──その根源を知りたかった。
志乃は遠慮がちに身を預け、動くたびに驚きと緊張を繰り返した。
けれども、数日が過ぎる頃には、彼女は両手で杖を握り、片足で地を蹴るようになっていた。
「もう少し、自分で進んでみたいんです」
志乃はそう言って、誰の助けも借りずに前へ出た。
はじめはわずか一歩。
それでも、その一歩を踏み出せたことが嬉しかった。
神が与えたのは、乗り物ではない。
──進むための”意志”そのものだった。




