第25話:神の御車 -4-
煙の匂いが鼻をつく。
朝日が地を照らし始め、作業場には緊張感が漂っていた。
古い桶や車輪の部材が壁際に積まれた、村人たちが道具を直すための場所だった。
けれど今朝、その中心に据えられているのは、まだ誰も見たことのない車輪だった。
「このくらいの火なら、焦がさずいける……」と佐平が呟く。
「兄貴、熱のまわり方、ちょっと早い気がするぞ」
隣でしゃがみ込んでいた弟の庄作が、赤くなりはじめた炭にじっと目を向けていた。
焚き火の脇には、桶に浸された麻縄が数本、黒く濡れて静かに時を待っていた。
車輪の外周に巻かれた一本が、炭の熱にあぶられながら、じりじりと締まっていく。
「くさび、もっと強く打っとけ。緩んだら台なしだ」
佐平が手元の楔を確かめる。
彼の目が、炎の揺らぎと共に細められる。
耳を澄まし、鼻で煙の質を嗅ぐ──その全てが、火を読む術だった。
「……今だ。炭、寄せろ」
庄作が火ばさみで炭を寄せ、赤くなった熱が縄の外周をなめるように包む。
パチ……と音を立てて縄がわずかに縮む。
それはまるで、車輪が息を吸い込むような瞬間だった。
焼き締めの作業には、力と経験、そして慎重さが必要になる。
かつて焼き杭や炭窯の管理もしていた佐平は、火の強さを“目と音と匂い”で見極めることができる数少ない人物だった。
初穂は、作業場の隅の陰に立ち、様子を見守っていた。
佐平がふと顔を上げると、初穂と目が合った。
初穂が軽くお辞儀をすると、佐平は火から目を離さず、そっとうなずいた。
二人のあいだに、言葉は交わされなかった──必要なかった。
初穂は佐平に作業を託すと、静かにその場を後にした。
「兄貴、あのお方って、神さま……なんだよな?」
「あぁ、そうだ。……で?」
「あの神さま……兄貴とは、どういう関係なんだ?」
「……」
佐平が無言で庄作を見返した。
「変な勘繰りじゃねえよ。ただな……ついこの前まで、あの方のことを得体が知れねえって言う人も多かったろ?」
「あぁ、最初は俺もそうだった」
佐平の脳裏に、初穂の言葉で畑を移したあの日の情景がよぎった。
「だがな、あのお方が言うことに間違いはねぇ。長老殿も信頼してる。俺たちは、それを信じて動けばいい」
「そんな神さまに頼られるなんてな……兄貴、たいしたもんだ」
佐平は気恥ずかしさを振り払うように、声を張った。
「おい、集中してやれ。失敗は許されねえぞ」
──その頃、初穂は、最後の協力者を訪ねていた。
その場所に着いた時、柚葉は驚きを隠せなかった。
「えっ、こちらでよろしいんですか?ここは、御方さまの……」
「ええ、ここです。……私が、もともと暮らしていた家です」
忠吉は、日の当たる庭先で干した獣の皮をひっくり返していた。
ふいに気配を感じ、手が止まり、視線が上がる。
その先に──初穂がいた。
(っ……初穂!?)
「……神さま。柚葉さんも……。どういったご用でしょう?」
忠吉は平静を装ったが、柚葉にはその動揺が痛いほど伝わった。
対する初穂の面持ちには、微塵の揺らぎもなかった──その静けさが、忠吉の動揺をなおさら際立たせていた。
「厚く丈夫な獣の皮が必要なのです。……父上様、どうかお力添えいただけませんか」
「ちと待っていてくだされ。今、取り出します」
忠吉は納屋の奥から厚く乾いた皮を何枚か引っ張り出し、その中でも最もしっかりした一枚を両手で持ち上げた。
「これがいい。猪の皮だ。冬に獲ったやつで、厚みもあるし筋も締まっており、申し分ありません」
皮の表を親指で押すと、弾力のある感触が返ってきた。
忠吉はそれを初穂に向けて掲げながら、少し首をかしげる。
「……して、これを何にお使いになるのですか」
初穂は手を差し伸べ、皮の端にそっと触れた。
「車輪の外周に巻いた縄の上から、この皮を張ります。締めた縄が雨で緩まないように──そして衝撃を和らげるために」
初穂は、忠吉に設計図を見せた。
「……これは、志乃さまのための、車輪のついた座具です」
忠吉は設計図をじっと見つめ、胸の奥に秘められた職人魂に熱が灯るのを感じていた。
「承知しました。すぐに取り掛かれるよう、こちらで支度しておきます」
「ありがとうございます、父上様。明日、佐平殿がこちらへ車輪をお届けにあがります」
こんな日が来るとは思わなかった。
かつて幼かった娘が、いまや神として人を導き、自分に役目を託してくる。
だがこの瞬間、父としてではなく、職人として応えるべきだと決意した──託された誇りを、技で返すために。
──帰り道、柚葉は心が浮き立つのを止められず、笑みがこぼれてしまう。
神の車具がいよいよ完成へと近づくなか、心を躍らせていた。
だが、イシュタルには、柚葉の心がなぜそこまで弾むのか、いまひとつ理解できないでいた。
「柚葉さん、今日も付き添ってくださりありがとうございました。ですが、これは私の役目ですので、お気遣いなくて大丈夫です」
「いえ、私も少しでもお力になりたいと思います。それに──」
柚葉は思わず声を強めた。
「御方さまに何かあっては、いけませんから!」
「……」
分析するまでもなく、明らかにいつもの柚葉とは違う。
見届けたい──その思いが、言葉の端々にあふれ出ていた。
「お務めもおありでしょうし、どうか無理はなさらないでください」
「ご安心ください。今朝は早く起きて、神域のお清めもすべて済ませております。夕餉の仕込みも、終えてございます」
「……そうですか」
人間の心とは、どうしてこうも熱くなるのだろうか……。
イシュタルには、それが不思議でならなかった。




