第22話:神の御車
国重が倒れてから二日が経過していた。
今、彼の寝所には、日の陽光が暖かく差し込んでいた。
「国重さま、おはようございます」
声は柔らかく、澄んでいた。柚葉が静かに戸を開ける。
初穂が静かに部屋に入り、柚葉がそのあとに続く。
「おじいさま、今日も初穂さまが具合を見に来てくださいましたよ」
咲が国重に声を掛けると、国重はゆっくりと体を起こした。
初穂は国重の傍らに静かに歩み寄り、両手をついて畳に膝をつく。
そのまま姿勢を整え、慎ましく正座し、わずかに体を傾けて顔を覗き込むようにすると、柔らかく声をかけた。
「国重殿、お変わりありませんか?」
「……きょうも、来てくださったのですか……御方さま……感謝に堪えませぬ」
本当は、問うまでもない。
咲の衣に染み込んだミスト・ベールによって、国重の脳波・血流・神経反応は正確に把握している。
(意識レベル:正常範囲内。言語野の神経伝達にも異常なし)
(発語能力:実用域に回復済み)
(脳波計測:脳波に乱れなし。前頭葉・言語中枢ともに正常稼働)
咲と共に寄り添い続けたミスト・ベールは、今日、発動限界を迎える。
国重の回復が確かなものと見えた瞬間、柚葉の表情に安堵がにじんだ。
……だが、初穂の視線は、すでに咲の方を見ていた。
「ずいぶんと良くなられましたね。……咲さん、もう大丈夫です。きょうからは、夜は安心してお休みになってくださいね」
咲は一瞬、胸の奥を見透かされた気がして、目を見開いた。
明るく元気に振舞ってはいたが、咲の目の下には、かすかな疲れの影が落ちていた。
初穂には、彼女がどれほど祈り、気を張り続けてきたかがわかっていた。
初穂の一言は、咲の中で張りつめていた不安と緊張を、音もなくほどいた。
「……初穂さま、本当に……ありがとうございました」
初穂は何も言わず、ただ咲の肩にそっと手を添えた……。
咲の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
人の身体は、薬や術だけで癒えるものではない。
痛みを抱えたとき、人がそばにいるということ──それだけで、命は歩みを止めずにいられる。
見守る心がある限り、希望は絶えず灯り続けるのだ。
「私はいつでも見守っております。咲さんの祈りは、国重殿に必ず届きます」
初穂の声はやさしかったが、その奥にはそっと寄り添うような熱があった。
「だから、咲さんもお体を大切に。お元気にお過ごしくださいね」
咲は小さく目を見開いた。
言葉のひとつひとつが、自分というひとりの人間を想ってくれている──そう思うと、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
(ああ……この人が、“神さま”なんだ──)
「咲や、ありがとう。そろそろ、志乃さんの朝食の支度をしておあげなさい」
志乃──咲の母で、いまは片足を失い、屋敷の奥の一室で静かに療養している。
「柚葉さん、初穂さま……。本当にありがとうございました。私はこれで、失礼いたしますね」
そう言い、咲は母の食事の支度に向かった。
「……御方さまに、ひとつお願いがございます。都におります私の息子へ、手紙を一通。どうか、代筆していただけませぬか」
国重は言った直後、自分の過ちに気づき、思わず息をのんだ。
かつて、初穂は字を書くことができなかった。
あの日以来、神が宿っている。だが、文字を書くということが、そんなに容易にできるようになるものなのか。
都にいる父への手紙は、今も国重が、咲と志乃の代わりに書いていた。
神の顔に泥を塗るような──自分は、なんと無礼なことを口にしてしまったのだろうか。
国重のそんな心配をよそに、初穂はかすかに微笑み、迷いなく答えた。
「はい、構いません。筆はどこにございますか」
(神が宿れば、文字を書く力も得られるのか……これが、神通力というものか)
後ろに控えていた柚葉も、驚きを隠せない表情を浮かべていた。
手紙を書く──たったそれだけのことが、周囲の人々にどれほどの衝撃を与えるのか。イシュタルには、理解が及んでいなかったのだ。
動揺する国重と柚葉をよそに、初穂は何のためらいもなく筆の用意を始めた。
その時、すっと戸が開き、咲が静かに現れた。
彼女の隣には、凛とした気配を纏った女性の姿があった。
咲の肩を借りて、ゆっくりと立っている。
──その脚は、片方がなかった。
柚葉が慌てて支えに入る。
「……柚葉ちゃん、ごめんね」
その女性は、咲の母・志乃だった。
「御方さま、此度は義父をお助けくださり、ありがとうございました」
志乃は、痛む体を気遣いながらも、静かに姿勢を正そうとした。
「どうかお構いなく、楽になさってください。私も国重殿には助けられてまいりました。ご恩返しができて嬉しく思っております」
志乃は、目を逸らさず、初穂の顔をじっと見つめ続けた。
声も姿も確かに初穂──だが、以前の彼女とは明らかに異なっていた。
「咲から、御方さまのお話をいろいろと聞いております。あの日の……儀式のことも」
「……」
初穂は、志乃の目を静かに見つめながら、何かを計るように黙したままだった。
志乃もまた、言葉の続きを口にすることなく、その瞳で初穂の内奥を探るように静かに見つめていた。
志乃は、初穂の手元にある筆に目を留めた。──どうやら、義父の代わりに手紙を書こうとしていたらしい。
(……字が、書ける?いや、この子は書けなかったはず)
そして、彼女の姿や所作のひとつひとつを見て、志乃は静かに確信した。
皆が“神さま”と呼ぶことは、決して誇張ではなく、事実なのだと。
その瞬間、志乃の胸の内に湧き上がった衝動が抑えきれず、言葉が口をついて出た。
「……神さま。私は、もう一度歩けるようになるでしょうか。この足で……外に出られる日が来るのでしょうか!」
咲は驚きに目を見開き、思わず母を見つめた。
「お母さま……そんな急に仰られても……私が、ちゃんとそばにおりますから」
咲は困惑と戸惑いの入り混じった表情で、そっと母の顔を見つめた。
国重は志乃に、鋭い視線を向けた。
神に初めて相まみえておきながら……慎みというものを、忘れてしまったのか。
国重がそう言いかけたその刹那、初穂の確信に満ちた声が、静けさを破って部屋に響いた。
「志乃さま、必ずご自身で外に出ることができるようになります」
初穂は、志乃をまっすぐに見つめ、迷いのない声で言い切った。
「大切なのは、負けない心です。それこそが信仰の本質──祈りを、ただの願いで終わらせず、日々の行いへと成してゆくのです」
咲には、初穂の言葉のすべてが理解できたわけではなかった。
けれど、母を励まそうとするその姿に、強く胸を打たれていた。
国重は、初穂の言葉に打たれたように沈黙した。
──志乃を咎めようとした己の短慮が、恥ずかしかった。
柚葉は、初穂の確信に満ちた言葉に、驚きを隠せなかった。
それは、彼女の知るどの信仰とも異なる──聞いたこともない、新たな信のかたちだった。
そして初穂は、彼女のための新たな“助け”の形を静かに思い描いていた。
その構想は、すでに彼女の内に明確なかたちを持ちはじめていた。




