第19話:奇跡の治療 -3-
その朝、国重の屋敷では──
咲は、まだ朝餉の支度の途中だった。
湯の沸く音を背に、行ったり来たりと小走りに台所を動き回っていた。
彼女は国重の孫娘で、この屋敷で生まれ育った。
素直で、少しおっちょこちょい。けれど、人の心の動きにはとても敏感だった。
彼女の母は数年前、山で猪に襲われた。片足を失ったが、なんとか命は取りとめた。
けれどそれ以来、外へ出ることはできず、ずっと屋敷の中で過ごしている。
父は、国重の名代として都へ出向き、郡奉行や代官所への報告、取次ぎを務めていた。
定められた務めゆえ、屋敷を離れて久しいが、折に触れて手紙を寄こし、咲や母のことを気にかけていた。
咲は祖父のもとで家事を引き受け、母の手助けをしながら、ひたむきにこの家を守っていた。
小さな世界の中で、咲は咲なりに、誰かの役に立ちたいと願っていた。
この屋敷には、祖父と母と咲の三人だけ。
使用人こそいないが、困ったときは村の誰かが手を貸してくれる。
それがこの土地のやり方だった。
湯気の立ちのぼる鍋を見て、小さく息を吐きながら、ふっとひとりごとのように笑った。
「今日は晴れそうですね。畑の草、きれいに抜けるといいなあ」
祖父の湯呑みに手を伸ばしつつ、咲は縁側に目をやった。
だが、いつもそこにいるはずの人影は見えない。
「あれ……おじいさま?」
咲の声にかすかな不安が揺れた。
湯を持ったまま戸口を出て、庭の方をそっとのぞく。
縁側の先に、背を丸めて腰を下ろす国重の姿が見えた。
咲は胸を撫でおろしながら、湯呑みを手にそっと近づいた。
「もう、そんなところで風を引いたらどうするんですか」
咲の声に、国重は肩をすくめて笑った。
「この時間の風はな、胸がすうっと楽になるんじゃ」
咲は苦笑しながら、湯呑みを差し出した。
「……私のほうは、息が止まりそうでしたけどー」
軽口を交わしながら、咲は祖父のそばに腰を下ろした。
「咲や、すまんな。心配をかけて」
「いいえ。……ずっと元気でいてもらわなきゃ、わたしが困りますから」
咲はそう言うと、無邪気に微笑んだ。
屋敷の正面──まだ朝露の残る石敷きの向こうから、澄んだ声が聞こえてきた。
「ごめんください。柚葉です」
咲ははっとして顔を上げると、すぐに立ち上がった。
「はーい、今、開けますね!」
手ぬぐいを腰に差したまま、ぱたぱたと玄関口に駆けていく。
戸を開けると、そこには穏やかな笑みを浮かべた柚葉が立っていた。
「おはようございます、咲さん。朝のお加減はいかがですか?」
「うちは元気すぎるくらいです。おじいさまは、まあ、ぼちぼちですけど」
咲は照れたように笑いながら、軽く頭をかいた。
柚葉もふっと目元をほころばせる。
ふと、柚葉のすぐ後ろにもう一人の姿があることに気づいた。
朝の光をまとうように、初穂が静かに立っていた。
言葉も動きもないのに、そこにいるだけで空気が変わった気がした。
咲の胸が一瞬きゅっと縮まる。
(……神さまだ)
村の誰もがそう呼ぶ存在。けれど咲にとっては、それだけではなかった。
いつか少しでも近づけたら──そんな思いを、誰にも言えずに抱いている。
目が合うわけでもないのに、咲は姿勢を正し、息をひそめた。
目の前にいるのは、憧れにも似た、遠い光のような存在だった。
「咲さん、今朝はお早いのですね。もう朝餉の支度も終わって?」
柚葉の声は、いつもの柔らかさを含んでいた。
咲はぎこちなく笑いながら、手ぬぐいを握り直した。
「はい、まあ、なんとか。ちょっと焦げましたけど……ごまかしました」
自分でも言いながら照れ笑いがこぼれる。
初穂は二人のやりとりを黙って見つめていた。
視線は咲の動きに向いていたが、瞳の奥には微細な反応の計測情報が絶え間なく流れている。
(脈拍上昇、頬部温度変化。発話時、声帯にわずかな震え──軽度の緊張反応)
イシュタルはただ記録しながら、観察を続けていた。
人は、神を前にすると“どう振る舞うべきか”を探し始める。
それが、彼女には興味深かった。
初穂がなぜ黙っているのかは分からない。けれど柚葉は、その意図を汲み取るようにして国重の様子へと意識を向けた。
「国重殿は、お元気ですか?」
「はい。今朝も、いつも通りお茶を飲んでました。しかも”ちょうどいい湯加減だ”って、えらそうに言ってましたよ」
咲はうなずきながら、ちらりと縁側の方へ目をやった。
「ふふ、それなら安心ですね。湯加減にも厳しいとは、さすが国重殿です」
柚葉は微笑み、ほんのわずかに肩の力を抜いたように見えた。
咲は再び初穂へと視線をそっと向ける。
光の中に立つその姿に、また胸が高鳴る。
柚葉と会話しながらも、どうしても視線がもう一人のほうへと引き寄せられてしまう。
初穂──御方さま、と呼ばれているその少女は、咲にとってもなじみのある存在だった。
かつてはよく笑い、畑仕事の手伝いに首を突っ込んでは、年寄りに叱られていた。
けれど今、目の前に立っているのは、その“初穂”ではなかった。
姿かたちは変わらぬはずなのに、声ひとつ立てずとも空気を張りつめさせるような気配がある。
(……話しかけるなんて、できない)
咲はそう思いながら、胸のあたりが少しだけきゅっとなるのを感じていた。
柚葉はふと懐から、小さな布包みを取り出した。
「これ、昨日干したばかりの柿なんです。ほんの少しですが、皆様でご一緒に召し上がってください」
「えっ、ありがとうございます!わたし、甘いの好きなんです」
咲は目を丸くして受け取り、少し照れたように笑った。
「よろしければ、お茶の時間にでも」
「うれしいです。お母さまも、きっと喜びます」
咲は手の中の布包みを見つめ、ほっとしたように笑った。
干し柿の甘い香りが、朝の空気にやさしく溶け込んでいく気がした。
「では、これで。お邪魔いたしました」
柚葉が静かに頭を下げると、初穂もまた、無言のまま一礼した。
咲は戸口の前で立ち止まり、慌てて手を合わせた。
「ありがとうございました。あの……、どうか、お気をつけて」
言葉を口にしたあとの沈黙が、いつもより長く感じられた。
見送る背に、もうひとこと添えたくなるような気持ちが喉元まで来て、けれど結局、何も言えなかった。
帰りの道すがら、柚葉の胸にはひとつの問いが残っていた。
(あの応対で、御方さまに何かが伝わったのだろうか)
迷いながらも、どうしても尋ねずにはいられなかった。
「あの......あれで、よかったのでしょうか」
柚葉は、初穂の沈黙の意図を測りかねながらも、自分の振る舞いを確かめるような言葉を選んだ。
「ええ、とてもよかったです。ありがとうございました」
初穂の反応は、まるで何かに満足しているようにも見えた。
だが柚葉には、それが何に対してなのかがわからなかった......。
初穂は、思考の奥で国重の生命反応を確認していた。
(国重──体温:36.1。脈拍:65。血圧:安定。発語確認済。異常検出なし)
霞之面紗(Mist Veil)──
咲の手が祖父の肩に添えられるたび──その優しさと共に、神の視線が届く。
粒子状にカスタマイズされたナノユニットは、咲の衣に、まるでベールのようにやさしく広がっていた。
それは、遠くからでも生体反応を捉えるために施された、イシュタルの観測スキルでだった。
初穂は、ミスト・ベールの起動を悟られないよう、朝の陽光に紛れていたのだ。
(起動時の光反応──抑制はされているが、かすかな光が漏れてしまう)
あの時、朝日が差し込み初穂を照らした瞬間──
極小のナノユニットが霧のように拡散し、かすかに光りを放っていた。
咲の衣へと、やさしい光の粒子がすっと吸い込まれていった。
衣の繊維に溶け込んだ粒子は、咲の日常に紛れ込んだ。
生体へは干渉しない設計のため、その稼働は二日ほどで終息する。
──村にとって、初穂という少女はあまりに異質だった。
今では、誰もが初穂の事を”神”と呼んでいる。
しかし、イシュタルは感じていた。
蘇った初穂に対して気味悪がり、不安や拒絶の感情が人々にあることを。
それでも村の決定には逆らわず、とくに宗教的な風習には決して異を唱えることなど許されぬという空気を。
そして、イシュタルは理解していた。
いま、国重という軸を失えば、村の秩序も、自身の静けさも保てはしないことを。
村社会において、中心となる者の影響力がどれほど大きいかを──




