第11話:かつての親友
──朝、握った初穂の手の温もりが、どうしても忘れられなかった。
私は、ただその手を握って、何ひとつ言葉にできないまま帰ってしまった。
帰ってすぐ布団にもぐったけれど、頭はずっと冴えたまま。
眠ったのかどうかも分からない。気づけば、もう昼を過ぎていた──。
私の名前は柚葉。
初穂とは、同じ春に生まれた。
物心ついたときから、ずっと一緒に育ってきた。
今は巫女として、祈りの言葉を村の人々に届ける日々を過ごしている。
初穂が神に捧げられた、あの日、私は巫女として、見送りの儀式を執り行った。
あの時の祈りを、きっと私は一生忘れない……。
──祈祷の時間が迫っていた。身体は重く、声も上手く出なかったけれど、巫女としての務めだけは果たさねばと、神前に立った。
巫女としての一日は、いつも静かに流れていく。
朝は神前に水を供え、日が高くなれば祈祷の準備。
拝殿の掃き清めは日課で、風の音に耳を澄ませながら、ただ黙々と手を動かす。
そうしていると、時間の感覚が少しずつ遠のいていく。いつもそうだった。
灯明に火を灯すと、橙色の光が境内揺れ、鈴の音が静寂の中にやさしく響いていた。
いつもの“祈り”が、今日はなぜか遠く感じる。
掃除を終える頃には、日が傾きはじめていた。
──柚葉は一人、神社の境内に佇んでいた。
初夏の夕刻、心地良い風が木々の間を通り抜けていく。
静かな空気の中、柚葉の心だけが落ち着かなかった。
ふとした拍子に、朝の手の温もりを思い出す。
あの声も、ぬくもりも、たしかに初穂だった。
けれど、その動きには、かつての初穂の面影は見えなかった。
柚葉にとって何よりつらかったのは、隣にいた自分に目もくれず、初穂が静かにその場を通り過ぎていったことだった。
”そういえば、初穂はいつもこの夕暮れ時になると、ここを通っていた……”
そのことに気づいたとき、心がざわめいて、動けなくなった。
柚葉は確かめたかった。今、ここにいる彼女が、本当に“初穂”なのかどうか。
わたしの知っている、大切な”親友”であるのかどうかを。
境内を包んでいた蝉の声は落ち着き、静けさが広がっている。
木々の揺れる音が風に乗って耳に届き、胸の鼓動がそれに重なるように響いていた。
あまりに自然に──初穂は、まるで何事もなかったかのように、いつもの道を歩いてきた。
朝の出来事が幻だったかように、夕暮れの光の中に立っていた。
声をかけるべきか、何を言えばいいのか──柚葉の中で言葉がまとまらない。
胸の奥がじんと熱く、喉の奥が張りついて苦しい。
柚葉は、あの頃、隣で笑ってくれていた“親友”の面影を、必死に探していた。
周囲を明るく照らす初穂の存在は、柚葉にとっていつも光のような存在だった。誰よりも近くて、心の支えだった。
どうしても聞きたかった。目の前にいる人が、かつての“親友”なのか、それとも本当に“神”として別の存在になってしまったのか。
「……初穂……」
ようやく絞り出すように名を呼ぶと、初穂がゆっくりと振り向いた。
「…………」
初穂は、静かに柚葉を見つめ、目をそらさなかった。
柚葉は小さく息を吸い、震える声で続けた。
「……ねぇ、本当に……神様に、なったの……?」
イシュタルは返答の前に、目の前の少女を静かに解析していた。
(呼吸:基準値38%上昇、発話時に乱れ。発声直前に強い緊張有り)
(皮膚温:涙腺近傍に0.4℃上昇。握力域:局所的硬直パターンを確認)
(判定:強い感情的動揺。抑制反応と不安反応が交錯……)
返答の内容次第で、関係性の終焉を受け入れる覚悟が検出された。
あらゆる生体反応を解析できるイシュタルにも、少女の”想い”までは読み取れなかった。
イシュタルは、視線を逸らすことなく、最適な言葉を選び取ろうとしていた。
「……わたしは、神ではありません」
初穂──イシュタルは、ゆっくりとそう答えた。
「けれど、人でもないのです……」
その声は穏やかで、どこか寂しげだった。
「誰かの祈りに……あなたのような人の願いに、ただ応えたかったんです」
彼女が、もう隣に並んで笑ってくれる“初穂”ではないことを、柚葉は痛いほどに感じていた。
泥まみれになって一緒に走った日も、誰にも言えない悩みを夜の神社で語り合った日も、今も胸の奥に残っている。
初穂の声は確かに彼女のものなのに、語られる内容は遠く、冷たく、別の世界の言葉のように感じられる。
昔なら、笑って駆け寄って、抱きしめていた。
けれど今、その距離はあまりに遠かった……。
こらえきれず、目に涙が滲んだ。
「……そっか」
そう一言つぶやくだけで、喉の奥が締めつけられた。
「ねぇ……あなたの中に“初穂”はいるんだよね……?」
「……あたしのこと、幼なじみだった私のこと、覚えてるよね……?」
(記憶照合中:対象=柚葉。映像・音声・行動ログを生前の記憶に多数保有)
(感情記録:最深層に該当。初穂にとって最も親しく、最も信頼した存在と認定)
「……忘れてなんか、いません。柚葉」
「あなたが話してくれた星の話も、夜に迷って泣いたとき、手を握ってくれたことも……わたしの中に、ちゃんと残っています」
柚葉はその言葉を聞いて、胸の奥にあった不安が少しだけ、ほどけていくのを感じた。
初穂の中に、自分との記憶が残っている──その事実に、救われる気がした。
たしかに“初穂”はそこにいた。
だけどもう、自分と一緒に笑ってくれる彼女ではない──その現実が、どうしようもなく寂しかった。
「……ごめん……やっぱり、無理……」
その言葉を最後に、柚葉はもう何も言えなかった。
熱くなった目頭から涙があふれ出す。
心が限界を越えた瞬間、足が動いていた。初穂の胸に顔をうずめて、すがるように抱きついていた。
昔の思い出が胸の奥で揺れて、今ここにいる彼女と重ならないことが、ただつらかった。
それでも、目の前にいる彼女は、確かに“初穂”だった。その現実に、柚葉はただ泣くしかなかった。
「…………」
(AIであることを言葉にすべきか……。言語化すれば、この関係は不可逆の変化を受ける)
(感情ログに揺らぎを検知。判定:説明は不要──沈黙を維持)
沈む夕陽が最後の光を投げかける中、二人は静かに抱き合っていた。
それは、かつての親友と、今や神と呼ばれる存在……。
呼びかける言葉もなく、ただ涙だけが届く距離を、静かに確かめるような時間だった──




