第9話:村の病
田畑を吹き抜ける風は、やさしいあたたかさを含んでいた。
──季節は初夏を迎えていた。
陽はやわらかく、田の土もようやくぬくもりを帯びてきた。
昨年のような冷え込みに備え、イシュタルはあらかじめ水を抜き、堆肥を混ぜる手順を村人に伝えていた。
そのおかげで地温は保たれ、苗の根腐れも防がれていたのだ。
「去年とはえらい違いじゃ。あの子の言う通りにしたら、土の冷えが違ったわい」
「おかげで、今年は苗がしっかり根を張っとる。ありがたいことよ……」
田畑を見つめる男たちの顔は、晴れやかな色を帯びていた。
「……あの子は、本当に神の使いなのかもしれん」
「そうじゃな。あの子には、なんか……神さまの力が宿っとる気がするわい」
村では今、確実に食糧事情が改善に向かっていた。
春先に仕込んだ田畑は順調に育ち、収穫への期待も高まりつつある。
過酷だった冬を思えば、目の前の若い苗たちは、まさに希望の象徴だった。
その要因が、あの少女にあることを誰もが感じていた。
神の使いなのか、それとも神そのものなのか──村人たちの間で、その議論に明確な答えはなかった。
だが一つだけ確かなのは、あの子には人にはない何かが宿っている、という共通の感覚だった。
それは恐れと共に、感謝と畏敬をもって受け止められていた。
「今年は、顔をしかめる日が減ってきたね」
女性たちが炊事や洗濯に精を出していた。
かまどの火は穏やかに燃え、蒸気がゆるやかに立ちのぼっていた。
「ねえ、こうして湯気が立ってるのを見ると、ちょっと安心するよね」
井戸端で桶を並べて談笑する者、打ち水ついでに足元の子どもに声をかける者。囲炉裏の火を見ながら歌を口ずさむ者もいる。
こんな風に、村に笑い声が広がるのは、どれほどぶりだっただろうか。
そのすぐそばでは、子どもたちが無邪気に走り回っていた。
細い水路に手を突っ込んで魚を追いかける者、ぬかるみに足を取られて転びながら笑う者。
泥だらけの手で顔をぬぐい、また駆け出していく。
賑わいの広がる村の中──、初穂はただ一人、静かに歩いていた。
村の端を流れる小川沿いには、彼女の足音だけが続いていた。
その足取りは一定のリズムを保ち、重心のブレもない。
呼吸の乱れもなく、視線は規則的に左右の環境を走査していた。
彼女の目に感情の色はなく、ただ情報を収集し、処理するだけの光が宿っていた。
まるで、外界の情報を逐次処理しながら移動する、ひとつの精密な装置のようだった。
(水質異常:川の濁度上昇。表面に小さな草のようなものが増えている)
(衛生状態:井戸のまわりの生活器具に、カビ繁殖の兆候を検出)
(感染リスク:気温・湿度の上昇により、細菌繁殖の傾向。流行の可能性あり)
彼女の視界には、肉眼では捉えきれない粒子の変化や、藻類・細菌の異常な繁殖傾向が数値として浮かび上がる。
彼女の体内に組み込まれたナノユニットの一部が、視神経と結合し、視覚を補助するインターフェースとして機能しているためである。
可視光外の波長を含む視覚情報は、ナノユニットによって補足され、彼女の知覚は人間の限界を超えて拡張されていた。
初夏の入り口。陽気の移ろいとともに、水辺には微細な泡や濁りが増えていたのだ。
さらに視線は、周囲にいる野良犬や家畜、野鳥にも向けられていた。
異常な行動、衰弱、死骸の存在──それらは、流行病の前兆を察知する重要な指標となりうる。
現時点では異常なし。だが、季節の変わり目には、油断はできない。
「あの子、また静かに見て歩いてる……ほんと、不思議な子じゃ」
「神のご意志を受けてるのかもしれんのう。あの子には、まだ見ぬ先のことが見えとるようじゃ」
「あんなふうに歩き回って、何が見えてるんだろ。俺にはさっぱりわかんねえよ」
先を見ている──
けれど彼らには、その“先”がどれほど深く、どれほど遠くまで続いているのか、想像もできなかった。
──静かだった村の空気が、一気に変わった。
賑やかだった村の一角で、突然声が上がる。
「たいへんだ!辰さんの息子が倒れた!熱でうなされてる!」
村のあちこちに、張り詰めたような緊張が走った。
季節の変わり目には、いつも決まって流行り病が子どもたちを襲う。
そして熱を出した子どもが、そのまま息を引き取ってしまう──そんなことも、珍しくなかったのだ。
「えっ……また? 今度は辰さんのところ?」
「あの子、ついこの前まで元気だったのに……どうして急に……」
誰もが、かつて同じように倒れた幼子の姿を思い出していた。
心の奥にしまい込んだ恐れが、再び顔をのぞかせる。
初穂は足を止め、声の方を向いた。
(急性高熱反応。季節因子により病原性上昇中)
(推定進行速度=高。処置までの遅延が致命率に直結)
(対象の年齢および家庭内環境から、感染連鎖リスクあり。即時介入を選択)
村人たちの心を支配していたのは、抗うすべのない死への恐怖だった。誰一人、近づくことはできなかった。
だが彼女には、”今なら助けられる”との確信があった。そこに、恐怖という感情は存在しなかった。
不思議な歩みを見せていたその少女は、やがて人々の目に、希望をもたらす存在として映っていた──




