第46回:閹人劉備,為我所用
まず神の視点から劉備を論じます。
劉備は子供ができない人だったのでしょう。
備は年少の時に劉徳然に師事して盧植に入りました。
勉強もせずに家に逃げました。
第一の可能性:チンピラとけんかしてけがをして、蛋蛋も蹴られて破裂しました。
第二の可能性:乗馬を学んで、卵を踏みました。
怪我のため学校をやめて家に帰って休養します。
四十歳くらいまで子供の名前が記録されていないというのは非常識です。
後に荊州に入り、猶子の劉封をもらいました。
さらに劉禅、蜀漢の継子である劉永、劉理に至ります。
劉禅は、琦と糜夫人との間に生れて、玄徳に預けられたものではないでしょうか。
荊州の旧家の支持を得たい玄徳には、荊州旧家を二分して、半分を曹操に、半分を劉備に帰属させるしかありません。
劉表は自殺して、息子と孫を守りました。
次男劉琮は、曹操に仕えました。
長子の琦は病死し、荊南四郡を得ました。
孫の劉禅は劉備に引き取られ、仲父孔明(伯父)に補佐されて世話になりました。
劉備が一代皇帝に、劉禅が二代皇帝になります。
私も似たようなものです。
曹丕が初代皇帝になりました。
袁紹の孫の曹叡が二代目の皇帝になります。
このような政治行為は、多くの人が理解していませんが、そうしてこそ、河北系、兗州系がルールを守って、無事でいられるのです。
呂布の始末は、むずかしいことではありません。
先に戦って謀略を謀り,城を包囲して心を攻めます。
呂布は怖れて、降書をさし出しました。
私は、一度張繡にだまされたことがあります、降参を受け入れません、公明正大に彼を打ち負かし、また、何人かを殺して、私の心の憂いを除きます。
戦功は多ければ多いほどよいのに、将士がよろこんでついてくるのにも理由があります。
呂布は、迎え撃つしかありませんでした。
私は許禇、関羽、张飞城下戦を呼んで、ある呂迎敵、双方斗山は。
三人の武功は、呂布にも負けません。
気になりました。
許禇力大の力、羽引きずって刀奇技、张飞とどちらをつついて、どちらがミスだった。
数戦のあと、呂布は、城を出て敵を迎え撃つことはありませんでした。
私は強攻して,無攻で引き返しました。
そこで私は人に地形を見させてみましたが、泗沂の水を引いて下邳を水没させることができました。
ついに郭嘉や荀攸と密議して、行軍の議の折には、水淹の計を献じさせました。
二人は命令を受けても、逆らうことができず、翌日、水淹下邳の計を献上しました。
行軍といえば、郭嘉も荀攸も、私ほど悪気はありません。
私には策士を使う手段があります。
献策ではない、献策では使わない、もし君が屁理屈をこねて君の計を使ったとすれば、将を配置して下らない算段をしてやる。
あなたの名誉は失墜し、笑いの種になるだけです。
何かいい策がありますか、まず内密に私に相談して、私の瞭解を得て、行軍議のときにその策を提出してください。
従軍する軍師には、必ず功を立てさせ、自分の考えた策でも、その功を帰します。
きょうは郭嘉に手柄を立てさせ、あすは荀攸に手柄を立てさせます。
彼らは献策を争うことができなくて、私の規則を悪くして、私の規則を乱す人、私は彼らに良い果実を食べることはでき(ありえ)ません。
袁紹にはそれがわかりませんから、会議のたびごとに、謀士たちはうるさく騒いでいました。
私は淹城を破り、魏続、侯成、宋憲は陳宮と高順を縛って、私を降しに来ました。
呂布は、これを見て、城門をひらいて降伏しました。
陳宮には恥じます。
数年、ひそかに呂布のそばで働き、その功は荀彧にも負けませんでした。
「公台は降られますか?」
陳宮は、「我が母はよろしゅうございます」と、いった。
私は、「尚よし、実の母のように」と言いました。
陳宮は、「願わくは十分です。」
言畢宮は石柱にぶつかって死にました。
高順に至っては、私が直接殺してしまいますから、そんな者は残しておけません。
高順は、呂布の忠臣であり、わしの諸将に怨みがあります。
張遼は関羽に守られました。
呂布は、私を見て、「将軍、早く縄を解きましょう、降参します。」
私は、「誰か、先に奉君の縄を解いてくれませんか」と言った。
劉備は、「曹公は、丁原や董卓にお目にかかりませんか?」
そこで、呂布を殺しました。
呂布が飼い慣れていない白目の狼だということは知っていましたが、呂布が降参を願えば、殺すわけにはいきませんが、玄徳の勧めがあれば違います。
呂布を殺して、後顧の憂いを免れました。
私は泰山の豪傑臧覇、孫観らを招降して登用し、青、徐の二州を臧覇ら泰山の諸将に委ねました。
武将のほかにも、幾人かの寒士がありましたが、中でも陳群、陳紀には才能がありました。
陳群を司空西曹の掾属といたします。
陳群はまた、私に広陵の陳矯、丹陽の戴幹をすすめました。
まず曹掾に任ぜられ、県令の空席があると、令に降格されました。