第34回:王朗敗北,收復會稽
現在の袁術には、九江と廬江の二郡、それに丹陽の一郡の兵糧徴収権があります。
孫策は呉の郡の半分しか持っておらず、残りの半分は朱治のものです。
丹陽にも孫策の半分がいて、丹陽十余県の県尉には、孫策が腹心を置くことができます。
次の任務は会稽郡の奪還です。
大勢に押されて、会稽郡の太守である王朗も、守りきれないことは自覚していましたが、守りきれないわけにはいきません、孫策の攻撃を何度か撃破すれば、交渉の元手はあります。
王朗は楊賜という名臣に師事していて、楊彪の父、楊修の祖父にあたります。
後に徐州刺史陶謙の治中従事となり、天子への貢納を進言して会稽太守の職を得、陶謙も刺史から州牧に転じました。
王朗は三年間会稽の太守を務め、その在任中、民を大切にして安楽に暮らし、諸侯の戦争のために大量の軍事物資を提供しました。
王朗に行く道は三つしかありません。
一つは、劉表への移籍です。
もう一つは、江東系の代表として朝廷に出仕することです。
其の三、暫く交州を避けて、朝廷の徴集を待ちます。
忠臣は二主に侍らず、陶謙は王朗に知遇の恩があり、ついに一主となりました。
朝廷が共主なら、一主になります。
劉表は、王朗という二人の主でありますが、これは選びません。
私はすでに奉天の息子を許都に迎えて、中朝の情勢が定まらず、まだ様子を見ています。
しばらく交州を避けて、朝廷の徴集を待つしかありません。
国策政治とは何でしょうか。
この十年、対河北戦略を実行するには、荀彧、荀攸、郭嘉を使います。
この十年、私が江東に対する策略を展開すれば、会稽の太守だった王朗と予章の太守だった華歆が歴史の中に押し出されるでしょう。
荀彧、荀攸、郭嘉は死にます。
この十年、私は蜀漢と外交を展開しますが、司馬徽の甥の司馬懿が重用されます。
孫策が王朗を攻撃して挫折すると、策を講じました。
叔父の孫静は、自ら進んで王朗を説きました。
両軍は交戦しても、使いを斬らないのです。
王朗は薄酒でもてなしましたが、孫静は飲まず、ため息ばかりついていました。
王朗は、「幼台、何事を嘆きますか?」
孫静は、「遠からずです」と、いった。
王朗は、「どういうことですか?」
孫静は、「昨日、程普将軍の甥が、勇を奮って城を攻めたと、自ら告げましたが、矢にまかれて、まだ死線が見えません。程老将軍は、太守を殺して、甥の仇を討ちます。私は、いつのことですか、冤罪をすすめたが、死んだのは、君の甥ではないのだから、痛まないといった。
王朗は息を呑んで、「程老将軍の甥ですか?」
孫静はいって、「矢に眼はありません、汝を欺いたのは甚だしいことです、明日には程老将軍が出陣するでしょう。」
王朗は言った:「汝はどう思いますか?」
孫静は、「これが朝廷に伝われば、百官は公をどう思いますか」と、いった。
王朗は溜め息をつきました。
孫静は、「いま、大勢に追われているのですから、天意に従って、順風満帆になろう」と、いった。
王朗は、「私のような部下は、承知しないでしょう。」
孫静はいって、「また戦っても、敵の傷をかさねて、不敵な怨みを結んで、両全其美の計があります。」
王朗は言いました:「急いで来ます。」
孫静はいって、「私には苦肉の策があります、当可一用、このように<s:1>」
王朗は、「妙計です。」
孫静は、「太守の美名を全うしても、江東の子の命は保てます。他日、朝廷から召還されれば、公は必ず重用されます。
王朗は、「では、そのことはあなたにまかせます、汝は孫伯符に、明日の夜、城を襲撃するように、城門をひらかせましょう、むやみに人を殺さないように。」
孫静は、「自省します」といった。
そこで計略に従いましたが、城が破れた後、王朗は腹心を連れて逃亡し、孫策に追われて、策士となりました。
王朗が従いませんので、張昭がすすめても、王朗は従いません。
孫策はやむをえず、王朗を曲阿に置いて、銭糧を与えました。
王朗は避難してきた親族を引き取って援助するようになりました。
この時、王朗の名声はますます高まった。
孫策は会稽郡を下りると、孫静を許都に遣わして朝廷に貢納させました。
孫静が許都に来ると、王朗の美名を宣揚し、まもなく王朗は朝廷に召還され、諫議大夫に任命され、司空軍事に参空しました。
王朗とはどなたですか。
『三国志演義』で諸葛亮に血を吐いて落馬した王司徒です。
孫策は、会稽郡をもうけて朝廷に貢納しようとしたので、天子もよろこび、私もこれでよいと、会稽の太守に任じられました。
孫策はこうして立錐の余地を得ました。