9話 虚無僧には御用心
テーマ:短いお化け
「おじいちゃん、見つけたー。また黙って出て来ちゃったの? みんな心配してるよ」
上弦の月が照らす中、地面に膝をつき、畦道に座り込んだ老人の顔を覗き込む。縞模様のパジャマを着たその体は、まるで赤ん坊のように小さい。
お腹には『小波』と書かれた前かけ。背中には真新しい蓑。それを作ってくれた人のことも覚えていないかと思うと、胸が痛む。
老人は二の辻の老人ホームに入居している小波さん。世間では子泣き爺と呼ばれている。子泣き爺は顔が老人、体が赤ん坊の妖怪で、背負うと徐々に重くなって動けなくなってしまう。
でも、今の小波さんには、もうそんな力はないだろう。自分の名前を含めた全てを忘れてしまったから。人外とて、老いには逆らえないのだ。
怪我がないことを確認してベストの無線機を取り、矢田先輩に繋ぐ。
「こちら風見。小波さんを保護しました。現場は三辻付近の田んぼの畦道。パトカー侵入不可のため、小波さんを背負って徒歩で戻ります。矢田巡査部長は職員の方と共にホームにて待機ください。どうぞ」
『こちら矢田。状況了解。夜道は暗いから気をつけろよ』
こちらを気遣う言葉と共に無線が切れる。神社で泣いてしまった日から、矢田先輩は少しだけ優しくなった。
保護対象を失認して落ち込んでいると思っているらしい。間違いではないが、正しくもない。脳裏によぎるのはあの写真だ。矢田先輩と誰かの結婚式の写真。
だけど、今考えるのはそれじゃない。目の前の小波さんの安全を優先しなければ。
「おじいちゃん、帰ろ。私の背中に乗れる?」
背中を向けると、小波さんは素直に体を預けてきた。全てを忘れても、長年染みついた習性は残るのかもしれない。
「月が綺麗だねえ」
小波さんの体温を背中に感じながら、畦道をてくてくと歩く。
田舎の夜は結構賑やかだ。虫の声や獣の声、そして、闇に潜む人外たちの声が聞こえてくる。人間がまだ石槍を握っていた頃から、この世界にはたくさんの命が息づいているのだ。
「あれ、陽治さん」
「こんばんは」
道の脇にしゃがんでいた陽治さんが立ち上がって会釈をした。足元には男女ペアの石像がある。道祖神を観察していたようだ。仕事熱心なのはいいが、かなめさんを放っておいて大丈夫なのだろうか。
「かなめは百目鬼の奥さんと女子会です。今頃、盛り上がっていると思いますよ」
私が聞くよりも先に教えてくれた。さすが大学の先生。察しがいい。
「そういえば、私も誘ってもらっていました。お休みだったら行きたかったんですけどねえ」
「平日はお忙しいですもんね。――今もお仕事中ですか?」
陽治さんが私の背中をちらりと見る。
「子泣き爺の小波さんです。普段は二の辻の老人ホームに入居されてるんですが、職員さんに黙って外に出ちゃって。よくあるんですよ。体が小さいから気づかれにくいんですよね。――ねえ、おじいちゃん。お散歩したかったんだよねえ?」
小波さんは何も答えてくれなかった。眠いのかもしれない。両肩に置かれた手が温かくなっている。
「元々は平坂山にお住みでしたが、自分が誰なのかも覚えていないみたいで。人間も歳を取ると何もかも忘れちゃうことがありますけど、人外もそうなんですね」
「力の弱い人外はそうですけど、子泣き爺の場合は……」
そこで言葉を切り、陽治さんは顎に手を当てて地面に視線を落とした。しばし、そのまま沈黙が続く。
「陽治さん?」
「――あ、すみません。つい考え込んでしまって。かなめにもよく言われるんです。また石になってるよって」
青い頬を赤く染め、恥ずかしそうに笑う。夫婦仲が良さそうで何よりである。
「あれから研究進みました? 東尋坊さんの文献、見せてもらってましたよね」
「はい、おかげさまで。これを見てください」
陽治さんが鋭い爪先で足元の道祖神を指差す。
道祖神は別名塞の神。村境や道の分岐点、峠などにある石像で、外から来る悪いものを防いでくれる神様だ。ここは三辻と二の辻の境目なので置いてあるのだろう。
誰が生けたのか、石像前の竹筒には鮮やかな彼岸花が咲き誇っていた。
「よく見ると、男性の額にツノがある。これは鬼のツノです。隣の女性には鱗がありますので、おそらく蛇の化身ですね。つまりこれは、道祖神を模していながら神じゃない。つかぬことをお伺いしますが、この村には神社仏閣がいくつありますか?」
村の地図を思い浮かべる。言われてみれば、神社は駐在所の隣の平坂神社だけだ。妖怪が多い割に寺は無い。祠やお社もだ。神棚も無いかもしれない。
駐在所には所長の祠があるが、あれは例外だろう。挨拶する人はいても、私と矢田先輩以外に拝んでいる人は見たことがない。平坂山の山頂にある祠はわからないけど。
そう答えると、陽治さんは「さすが警察官ですね」と褒めてくれた。
「そう。この村には神も仏もいない。オガグズ様と、平坂神社の御祭神を除いては。御祭神のお名前はまだ不明ですが、オガグズ様は平坂山に祀られているはずです」
「えっ、なんでそんなことがわかるんですか?」
「神社の鳥居、平坂山を向いて立っていますよね。あれは拝殿と平坂山を同時に参拝できるようにするためだと思います。天狗火さんたちにお伺いしましたが、山頂は禁域なんですよね? そして、何かが祀られた祠がある。今は土砂崩れで無いようですが」
確かにそうだ。思わず「へええ」と感嘆の声が漏れた。民俗学の先生って凄い。ずっと隣にいて、なんなら毎日掃除しているのに、そんなこと気づきもしなかった。矢田先輩に注意が足りないって怒られてしまう。
矢田先輩……。写真を思い出すと、また胸がズキンと痛んだ。駄目だ。しっかりしないと。
気持ちを切り替えるために周りに誰もいないことを確認して、希天法師の日記について話す。もちろん写真のことは言わない。
陽治さんは最後まで静かに聞いていたが、一度だけ「希天……?」と呟くとそのまま黙り込んでしまった。心なしか、青い肌が一層青くなった気がする。
「あの……。何か参考になりますか?」
返事がない。もう一度呼びかけると、陽治さんははっと我に返った。
ぽつりと雫が頬に当たる。いつの間にか上弦の月に雲がかかっていた。これから本降りになるかもしれない。冷たかったみたいで、背中で小波さんがぐずる。
「ああ、ごめんね。みんな心配しているもんね。風邪引かないうちに早く帰ろうね」
「すみません。お仕事中にお引き止めして。よければ、また家に遊びに来てください。かなめも喜びます」
「ありがとうございます。近々お伺いさせていただきます。白い幽霊も気になるし」
陽治さんは七辻なので逆方向だ。笑顔で別れて足を踏み出した瞬間――全身にぞわりと鳥肌がたった。
ライトに照らし出された畦道の上。手のひらよりも小さな人外の群れが進路を塞いでいた。頭には逆さまのお猪口。体には黒い僧衣とボロボロの袈裟。みんな揃って同じ姿をしている。
手に持っているのは尺八だろうか。腰には刀らしきものもある。一見すると、お猪口を被った虚無僧だ。見覚えがないので、おそらく村人じゃない。
どこかに向かう途中なのかもしれないが、このままでは老人ホームに帰れない。まさか跨いで行くわけにはいかないし。
「こんばんは。すみません、道を空けていただけますか?」
小波さんを落とさないように気をつけながら、体をかがめてお願いする。小さな虚無僧たちは尺八を地面に放り投げ、一斉に爪楊枝みたいな刀を抜いた。
「っ! はとりさん、下がって!」
咄嗟に、陽治さんの声がする方に跳ぶ。日頃の訓練の成果が出た。
さっきまで私がいた場所に刀がいくつも突き刺さり、虚無僧たちがゆらりとこちらにお猪口を向ける。嫌な気配だ。絶対にまた攻撃してくる。
刺されても致命傷にはならないだろうが、相手はざっと数えても十人以上はいる。取り囲まれて一斉に攻撃されたら軽傷では済まない。
「すみません、陽治さん。小波さんをよろしくお願いします。私が警棒を抜いたら後ろに走ってください。決して振り返らないで」
陽治さんが「わかりました」と応え、背中から小波さんの重みが消える。
人外とはいえ、陽治さんと小波さんは一般人。守るのが私の仕事だ。前を見据えたまま無線機のスイッチを入れ、声を張り上げる。
「こちら風見! 三辻と二の辻の境の道祖神前にて凶器を所持した複数の小さな人外と交戦中! 応援を要請する! どうぞ!」
『こちら矢田! すぐに向かう! いいか、絶対に無茶はするなよ!』
無線が切れ、警棒を抜いたと同時に虚無僧たちが飛び掛かってきた。陽治さんが地面を蹴る音を背中で聞きながら、警棒で攻撃を防ぐ。
二の辻の老人ホームからここまでは走ったとしても十分はかかる。もしかしたら無理やりパトカーに乗ってくるかもしれないが、それまでなんとか凌がなくては。
「大人しく武器を捨てて投降しなさい! 銃刀法違反と公務執行妨害で逮捕するわよ!」
虚無僧たちは何も答えない。ただ無言で刀を繰り出してくる。それがまた不気味で背筋がゾッとした。
それから、どれくらい格闘していただろうか。
そろそろ息が切れ出した頃、畦道の向こうから暴走族みたいな音を響かせて、一台のバイクがこちらに向かってきた。乗っているのは矢田先輩だ。老人ホームで借りたらしい。後ろには自警団の人外たちもいる。
「風見! 無事か!」
「矢田先輩!」
ほっと息をついた一瞬の隙を見逃さず、虚無僧の一人が高く跳躍した。刀の切先が、まるでスローモーションのように私の顔面に近づいてくる。
あ、まずい。目に刺さっちゃう。
覚悟して瞼を閉じた瞬間、耳をつんざく赤ちゃんの泣き声と共に、大きく地面が揺れた。
とても立っていられず、その場にしゃがみ込む。矢田先輩は根性で踏み止まると、バイクを捨てて全速力でこちらに駆け寄り、動きを止めた虚無僧たちを両手でまとめて押さえ込んだ。
「二十一時四十二分! 銃刀法違反と公務執行妨害で逮捕! 風見! バイクのカゴから小人用の補体袋出せ!」
「りょ、了解です!」
ようやく揺れがおさまり、遅れて駆けつけてきた自警団と共に、手分けして小人用の補体袋に虚無僧たちを放り込んでいく。
人外たちによると、虚無僧たちは猪口暮露という妖怪で、集団で仇討ちをした逸話もあるぐらい血の気の多い妖怪なのだそうだ。
「風見、大丈夫か。怪我は?」
「ありません。小波さんは偶然お会いした陽治さんに預けました。凄い泣き声と揺れでしたけど、あれは……?」
「小波さんですよ」
小波さんを背負った陽治さんがこちらに駆け寄ってきた。二人とも怪我はないようだ。良かった。
「小波さんが? どうやって?」
「子泣き爺が泣くと地震が起きるんです。はとりさんを助けようとしたんだと思いますよ」
「おじいちゃん……」
胸がいっぱいになって、涙腺が緩む。
小波さんは相変わらず何も言わなかったが、その口元は微かに綻んでいた。
「こいつら、たぶん市内を荒らしていた強盗団だな。今朝方、手配書が回ってきただろ」
「そういえば……。本署の同期が愚痴ってました。ここ数日家に帰れなくて、ご自慢の毛並みがゴワゴワになってきたって」
「帳場が立つと寝る暇もなくなるからな。すぐに連絡してやれ。それこそ尻尾振って駆けつけてくるぜ」
頷き、みんなから少し離れてスマホを取り出す。壊れたかと思ったが、神社を出たら元に戻った。勝手に入ったバチが当たったのかもしれない。
「あ、もしもし。犬上くん? うん。平坂村駐在所の風見です。あのね、手配書が回ってた猪口暮露の強盗団を捕まえたんだけど……」
驚く同期の声を聞きながら、前方に目を向ける。
鬱蒼とした林の中。微かに揺らめく白い着物が見えた気がした。