7話 塗り壁の密室
テーマ:四角いお化け
平坂山は三つある山の中で一番標高が高い。
十合目まで登ろうと思ったら本気の登山となる。ただ山頂は禁域で、加奈子さんの許可がないと入れない。
噂によると山頂には古びた祠があるらしいが、何を祀っているのかは誰も知らない。加奈子さんも何ちゃら法師に頼まれただけで、詳しいことは何も聞いていないらしい。
あれは、もう一ヶ月以上前になるだろうか。
かなめさんたちが引っ越して来るより前に起きた土砂崩れで、五合目から上は進行不能になっている。道が険しくて重機が入れないため、人外たちが少しずつ手作業で復旧作業をしているところだ。
私も臨場したはずなのだが、足を滑らせて頭を打ったようで何も覚えていない。
気づいたら駐在所の自室で寝かされていて、周りには誰もいなかった。一階に下りて「すみません! 現場は?」と声を上げた時の矢田先輩の表情は今も目に焼き付いている。
もう二度とヘマはするまい。
そう誓ったはずなのに、なんでこんなことになっているのか。
「せんぱぁい、いつになったら出られるんです?」
「俺に聞くな」
大きな切り株の上に並んで腰を下ろし、矢田先輩が報告書を書いている。こんな状況なのに仕事熱心なことだ。その真面目さがたまに憎らしくなる。
「まさか塗り壁の密室に閉じ込められるなんて……」
そう。私たちは今、絶対に這い上れない高さの塗り壁たちに取り囲まれていた。押しても引いても話しかけてもびくともしない。手が届かないけど、たぶん天井にもいる。
この村の人外たちは意思疎通できるものが多いが、昨日の白い幽霊と同じく、人間にはとても理解できないものもいる。
加奈子さんの家は四合目。ここはまだ三合目。山道を上り疲れて少し休憩している隙に、いつの間にか囲まれていたのだ。透明だからちっとも気づかなかった。
「どうしましょう。本署に応援を頼みますか?」
「やめとけ。朝から晩まで術科訓練させられたいか?」
それは嫌だ。首を横に振る私に矢田先輩が話を続ける。
「待っていればそのうち退くだろ。約束の時間を過ぎれば加奈子さんが様子を見に来てくれるはずだ」
「決めておいてよかったですねえ。まあ、休憩時間が延びたと思えばいいか……。今のところ着電もないし……」
考えてみれば着任してからずっと忙しかったし、休日も何やかんや呼び出しがかかるから、こうしてのんびりするのも久しぶりだ。
背伸びして天を仰ぐ。見事なうろこ雲が空を埋め尽くしている。鳥か怪異かわからない鳴き声もする。
「……のどかだなあ。ずっとこうだといいのに」
「俺たちの仕事が無くなっちまうな。まあ、本来はその方がいいんだろうが」
肩を揺らす矢田先輩に視線を向ける。半年間ずっと一緒にいるものの、こんなに間近で顔を見ることもない。
いつも鋭い目尻には小さな皺が寄っていた。
「矢田先輩はどうして警察官になろうと思ったんですか?」
「なんだ、突然。無理に話題振らなくていいぞ。暇ならスマホでもいじっとけ。電波入りづれぇけど」
「いや、今までそういう話をしたことなかったなと思って。いい機会なんで教えてくださいよ」
矢田先輩はボールペンで頭を掻いて少し悩む素振りを見せ、「別に大した話じゃねぇぞ」と前置きした上で続けた。
***
俺は昔、悪ガキだった。
中二ぐらいだったかな。俺の親は仲が悪くて、顔を合わせれば喧嘩ばかりしてた。そんな家にいたくなくて、よく一人で夜の街をうろついてたんだ。
万引きや薬には手を出さなかったが、タバコは吸ってたな。似たような境遇の奴らと殴り合いもしたし。
もちろん何度も補導されたよ。でも、ちっとも言うことを聞かなかった。
解放されても次の日にはまた補導される。その繰り返しだ。親身になろうとする警察官にも噛み付くような、そんなクソガキだった。
……あ? その時の警察官に憧れて警察官になったのかって?
オチを先に言うな。質問したなら最後まで黙って聞け。お前、それでも警察官か。先走って結論づけんなって何度も言ってんだろ。
話を戻すぞ。
ある晩、俺はいつものように夜の街を徘徊していた。するとな、路地裏から悲鳴が聞こえたんだ。
恐る恐る覗いてみたら、ガタイのいい狼男たちに囲まれて殴られている男がいた。
暴行事件の真っ只中だ。すぐに逃げようと思った。でも、目が合っちまったんだ。男は俺に助けを求めてた。
気づいたら、俺は近くに転がっていたバットを拾って狼男たちに殴りかかっていた。
いくら剣道やってたっつっても、その頃はサボってたし、当然敵うわけがねぇ。バットなんてすぐに取り上げられて、地面に転がされて、腹や顔を容赦なく蹴られてな。ああ、死んじまうかもって思った。
その時、「警察だ! その子から離れろ!」っていう勇ましい声と共に、ライトが俺を照らしたんだ。視線の先には警棒を手にした警察官がいた。
そうだよ。俺をよく補導してた警察官だった。捻りがなくて悪かったな。
ん? いや、ボッコボコにやられてたよ。考えてもみろ。相手は複数の狼男だぞ。いくら警察官でも単独で勝てるわけねぇだろ。今の俺でも無理だわ。
……でもな、その警察官は絶対にその場から逃げなかった。顔中血まみれになっても、俺たちを守ろうとしてくれた。今思うと、狼男たちに立ち向かった時も足が震えてたよ。
そのうちに応援が駆けつけて、俺たちは救急車に乗せられて病院に運ばれた。助けてくれた警察官も一緒にな。
病室で散々説教されたよ。危険なことはするな。何かあったらどうする。自分をもっと大切にしろ。
そして最後に、褒められたことじゃないけどって前置きした上でこう言ったんだ。
「あの時、助けを求める人を見捨てずに向かって行った君を尊敬する。君はいい警察官になれるよ」
誰かに認めてもらえたのは初めてだった。同時に、俺もこの人みたいに誰かを守りてぇと思った。
だから俺は警察官になったんだ。
***
矢田先輩は話し終えると、水筒のお茶を飲んで一息ついた。照れ臭いのか、私から顔を逸らしている。
初めて触れた矢田先輩の過去に、こちらもむず痒い気持ちになる。まるで特別なお菓子を与えられた時のような……。
「立派な志望動機じゃないですか。恥ずかしがらないでくださいよ」
満面の笑みを浮かべる私に、矢田先輩はむすっとした顔で、「そう言うお前はどうなんだよ」と言った。
「私? 私は正直、公務員になれればそれでよかったんですけど……」
採用試験に受かってからの日々を思い出す。
甘い考えを早々に打ち砕いてきた警察学校の教官たち。卒業式で泣きながら固い握手を交わし、各地に散って行った同期たち。この村に着任して次々に襲いかかる事件の数々。厳しくも温かく指導してくれる矢田先輩。
そして、「はとりちゃん、はとりちゃん」と笑顔を向けてくれる村人たち。
辛いことが多い仕事だ。朝は早いし、定時なんて飾りだし、休みだって無いに等しい。どれだけ手を尽くしても徒労に終わることもあれば、自分の力不足を嘆いて過ごす夜もある。
それでも、このかけがえのない日常を失くしたくはなかった。
「今は、先輩と一緒にこの村の人たちを守りたいって思います。たとえ報われなくても、私はみんなが好きだから」
矢田先輩は黙って私の顔を見つめていたが、やがてふっと息を漏らして口角を上げた。
今まで見たことがないぐらい優しい顔だった。
「ヒヨッコが一丁前のことを言いやがって。これからもビシバシ鍛えてやるから覚悟しろよ」
髪の毛をくしゃりとかき混ぜられて、思わず「ひえっ」と声が出る。
矢田先輩は、はっと何かに気づいて素早く手を引っ込めると、バツが悪そうに頭を掻いた。
「やべぇ。これセクハラだよな。晩飯のおかず一個やるから揉み消してくれ」
「ええ……。警察官が不正していいんですか?」
矢田先輩が声を上げて笑う。何故かその顔を直視できなくて、体ごと視線を逸らした。
あれ? なんか頬が熱い。
「あなたたち、何やってるの! 私の縄張りで悪さをするのは許さないわよ! さっさと退きなさい!」
木々の向こうから響く怒声に、塗り壁たちがびくりと体を震わせた気配がした。少し間を置いて、激しく地面が揺れる。
慌ただしい足音が遠ざかったあとに残ったのは、襷をかけて山袴を穿いた加奈子さんと、切り株に座る私たちだけだった。
「ありがとうございます、加奈子さん。助かりました」
立ち上がった矢田先輩が頭を下げる。それに倣って私も深々と頭を下げた。
「管理が行き届いていなくて、ごめんねえ。あの子達、まだ子供で人間が珍しいのよ。悪戯しないように叱っとくから」
「大丈夫ですよ。子供の悪戯に対処するのも警察官の仕事ですから。望むところだって伝えておいてください」
「相変わらず矢田くんは頼りになるわねえ。こんな先輩がいてはとりちゃんも……」
そこで言葉を切った加奈子さんが私の顔をまじまじと見つめた。
「どうしたの、はとりちゃん。顔が赤いわよ。風邪?」
山袴は作業着で、もんぺとも言います。