5話 白い幽霊
テーマ:白いお化け
「ごめんくださーい」
玄関のブザーを鳴らし、日頃の職務で鍛えた腹筋で声を上げる。
都会ではAIが手取り足取りサポートしてくれるが、時代に取り残されたこの村では訪問のお作法も旧時代式だ。
手にはお土産の秋刀魚の一夜干し。矢田先輩の力作だ。本当は女子受けしそうなお菓子を持って来たかったのが、そんな洒落たものはこの村にはない。
「いらっしゃい。お休みなのにお呼びだてしてすみません」
丁寧に頭を下げたかなめさんが、楚々と中に通してくれる。薄桃色のエプロンドレスを着たかなめさんは、今日も相変わらず綺麗だった。なんだかいい匂いもするし。
玄関脇の下駄箱の上には、かなめさんと陽治さんの結婚式の写真や、小さな花が飾られていた。引越しの際にリフォームしたのだろう。外観は伝統的な日本家屋だが、中は和洋折衷のレトロモダンな様相だった。
案内された部屋は長い廊下の一番奥。畳の上に四人掛けのテーブルと椅子が置かれている。右手には床の間、真正面には大きな窓と日当たりの良さそうな濡れ縁がある。
窓の外に広がる庭は、ついこの間まで空き家だったとは思えないほど綺麗に整えられていた。背の高い生垣を挟んだ向こうは村道だ。ここから少し西に行けば、かなめさんが夜な夜な泣いていた十字路がある。
平坂村は辻が多い。一の辻から七辻まであり、そのまま地名になっている。
ここは七辻。田んぼばかりで特に目印もないので、初めて訪れる人間は少し迷うかもしれない。
「ごめんなさい。陽治さん、まだ戻らなくて。わざわざお休みの日に来てもらったのに……。駐在所は大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。私も約束の時間より早く来ちゃいましたし、駐在所には矢田先輩がいるので問題ないです。それに、かなめさんともゆっくり話してみたかったから」
かなめさんは二十二歳。私と二歳しか変わらない。敬語はやめてフランクに話してほしいとお願いすると、かなめさんは照れくさそうに微笑んだ。
「嬉しい。この村には大妖怪の方が多いから気が引けていたの。はとりさんも気楽に話してよ」
「そうしたいんですけどね。矢田先輩に『村の皆さんには丁寧に接しろ』って言われているんです。……でも、ふたりの時はいいか」
私も歳の近い友達が欲しかったので、矢田先輩の声はあえて無視する。
かなめさんは秋刀魚の一夜干しを喜んで受け取ると、美味しそうなスイートポテトを出してくれた。手作りだそうだ。
「うわあ、嬉しい。洋菓子なんていつぶりかなあ」
「お口に合うかどうかはわからないけど……」
「そんなことないよお。見た目だけで美味しいってわかるって。では、早速……」
リュックから取り出して机の上に置いたものに、かなめさんが首を傾げる。
「それ、なあに? 小さなお地蔵様?」
「ミニ所長なの。何か食べる時は所長にお供えしてから食べるのがうちの駐在所の決まりなんだって。変わってるよねえ」
ミニ所長はこの村に来た時に矢田先輩がわざわざ用意してくれたものだ。ご丁寧に小さな前掛けまでついている。常に持ち歩くのは面倒だが、深夜の臨場も所長がついていると思えば心強いので、案外役には立っている。
お供えの方法は簡単。所長に手を合わせて「いただきます」と言うだけ。手早くお供えを済ませ、銀色のフォークを握る。
久しぶりの洋菓子はほっぺたが落ちそうなほど美味しかった。
それから女子トークにしばし花が咲く。かなめさんは大学時代に陽治さんと出会い、卒業と同時に結婚したそうだ。
教え子と教師の恋。ロマンである。
「はとりさんはどうなの? 今まで好きになった人はいる?」
「いやあ、それが恋愛には縁遠くて。警察学校は地獄みたいだったし、ここに来たら来たで若い男性はいないし」
「矢田さんがいるじゃない。一昨日は悩んでたけど、やっぱりお似合いだと思うな」
「えー、そうかなあ」
その時、外で物音がした。陽治さんが帰ってきたのだろうか。窓に視線を向け――そして息が止まった。
生垣の向こう。薄汚れた白無垢を着た誰かが、虚ろに空いた眼窩をこちらに向けている。
角隠しから覗く髪は長い。ひどくボサボサだが、腰ぐらいまでありそうだ。
しかし、鼻も耳もなく、本来なら肌があるところには羽虫みたいな黒点が集まっていて、顔の判別がつかない。まるで闇が白無垢をまとって動いている――そんな印象だった。
背も見上げるほど高い。明らかに人外だ。それも、とびきりタチが悪そうな。向かいのかなめさんも、顔を凍り付かせて人外を凝視している。
ここでかなめさんを守らなくては警察官ではない。
そっと席を立ち、人外を刺激しないように庭に出る。さっきまで晴れていたはずの空はどんよりと曇り、霧みたいな雨が庭の草木を濡らしていた。
「はとりさん……」
「かなめさんは家から出ないで。もしもの時は矢田先輩に連絡してくれる?」
震えるかなめさんの声を背に、人外に一歩ずつ近づく。
警棒を置いてきたのが悔やまれる。柔道の術科訓練は受けたが、私の成績は芳しくない。素手でなんとかなるだろうか。
「失礼ですが、どちら様でしょうか。この村の方ですか?」
人外が口元あたりの闇をモゾモゾさせた。
「……タ……ヨ……」
金属を擦り合わせたような声だ。聞いているだけで頭が痛い。顔をしかめる私に、人外がさらに続ける。
「……アナ……ハ……ヨ……」
ますます頭痛がひどくなる。もう立っているのも辛い。それでも気力を振り絞って、再度口を開こうとした時、大きな破裂音がした。
陽治さんだ。玄関の前に立ち、いつもより青ざめた顔で両手を合わせている。柏手を打ったらしい。
「どちら様か存じ上げませんが、ここは僕の家です。お引き取りください。あなたは招いていない」
人外が緩慢な仕草で陽治さんを見る。そして、次の瞬間ふっと姿が消えた。
同時に雨が止み、空に晴れ間が覗く。重苦しい空気も消えていた。まるで夢を見ていたようだが、うるさく鳴る鼓動が現実の出来事だと伝えていた。
「ありがとうございます。助かりました。あの人外は一体、何者なんでしょう? 村で見た覚えがなくて……」
「七尋女房……。いや、違うな。おそらく元は人……。幽霊の類でしょう。あの手のは意思の疎通ができません。近寄らないのが正解です」
そうしたいのは山々だが、警察官である以上そうはいかない。苦笑する私に、陽治さんも眉を下げて微笑んだ。
「かなめを守ってくださってありがとうございました。中に戻ってお茶でも飲みましょう。――ひどい顔色ですよ」