4話 河童だって川を流れる
テーマ:緑のお化け
「お出かけって、駐在所前の海じゃないですか!」
「休みだからって、いつ誰が相談に来るかわかんねぇんだから、遠出するわけねぇだろ。警察官舐めんなよ」
確かにそうだが、それなら最初から言ってほしい。
堤防の上から釣り竿を投げる矢田先輩に頬を膨らませつつ、釣り針に餌のゴカイをつけて海に投げ入れる。
「なんで膨れてんだお前。ひょっとして街で買い物したかったか?」
「別にぃ。今時ネットでなんでも買えますしぃ。届くのに時間かかっちゃいますけど」
矢田先輩は肩をすくめると、海に視線を戻した。
もしかしてデート? なんて、ちょっぴり期待したのは、きっとかなめさんに恋バナを振られたからだ。
決して矢田先輩に恋をしているわけではないが、私はまだピチピチの二十歳。近くにいる異性をつい意識してしまっても仕方がない。
でも、職場恋愛は茨の道だ。仕事に差し障りがあってはいけないし、私が浮ついていたら矢田先輩も気分は良くないだろう。自重しよう。
「ところで、なんで釣りなんですか? 晩御飯なら自分で釣らなくても河童淵の次郎さんから買えるじゃないですか」
河童淵の次郎さんは平坂山で魚屋さんを営んでいる。店先に並ぶ魚は全て次郎さんが獲ったものだ。私もよく巡回のついでに利用する。
「天狗火さんたちへのお礼だよ。眷属を貸して下さったんだから、東尋坊さんにもご挨拶しないとな。加奈子さんと違って東尋坊さんは滅多に山を下りないから、川魚よりも海の魚の方が喜んでくれるんだ」
なるほど。この仁来海は潮の流れが早くて遊泳には向かないが、釣れた魚はほどよく脂がのっていて美味しい。今の季節なら秋刀魚だろうか。多く釣れたら、私もご相伴に与かれるかもしれない。
俄然やる気が湧いてきた。シャツの袖をまくり、引き上げた釣り竿を大きく振りかぶる。
その時、少し離れた海上に何かが浮かんでいるのに気づいた。矢田先輩も気づいたらしい。地面に釣り竿を置いて目を眇めている。
「なんだろ……?」
日差しを反射してキラキラと光る波間に揺蕩う緑色。海藻だろうか?
額に手をかざして堤防ギリギリまで身を乗り出す。苔むした六角形の甲羅がちらりと見えた。頭には丸い皿がある。
河童だ。河童がうつ伏せで浮いている。
声を上げるよりも早く、服を脱ぎ捨てた矢田先輩が海に飛び込んだ。
***
「ご迷惑をおかけしてすみません……」
「いえいえ。怪我がなくて本当に良かったです」
駐在所前のくつろぎスペースでしおしおと頭を下げる河童さんに笑みを向ける。
人間と違って人外は丈夫だが、不死身ではないのだ。もしもの時は、ドクターヘリを呼ぶか空を飛べる人外に運んでもらうしかない。矢田先輩も海に飛び込んだ甲斐があっただろう。
先輩は今、駐在所でシャワーを浴びている。
この駐在所は古い一軒家を改装して作られていて、一階の手前に受付と相談スペース、その奥にキッチンや浴室が備え付けられている。そして二階には和室が三部屋と仏間がある。
もちろん、私と矢田先輩の部屋は分かれているし、簡易的な鍵も付いている。もし一緒の部屋だったら着任一日目で逃げ出していたと思う。
「大変でしたね。川に流されて海まで出ちゃうなんて」
「まさしく河童の川流れ。お恥ずかしい限りです」
「事故は誰にでも起きるものですから、あまり気に病まないでくださいね。――では、お疲れのところ申し訳ないですけど、お名前と、どこで流されちゃったのか教えていただけますか?」
調書を挟んだバインダーを手に河童さんを促す。身元確認は基本だし、もし村の中に危険な場所があるのなら、事故が続かないように何らかの処置をしないといけない。
「これは失礼。私は隣町の渡瀬川に住む喜三郎と申します。妻と二匹の息子がいます」
喜三郎さんはこの村に住む友人に会うために平坂山に登り、途中で足を滑らせて川に落ちたと語った。
とはいえ、河童なので慌てず岸に上がろうとしたのだが、突然の鉄砲水に押し流されてしまったのだそうだ。
「鉄砲水? 放流の予定はなかったはずなんだけどな……。サイレンも鳴らなかったし」
平坂山にはダムの水門を管理する赤舌さんという妖怪がいて、水量が増えると川に放流する役目を担っている。
ただ、放流時には必ず事前連絡をもらう約束になっているのだ。
赤舌さんはダムが完成した当時から働いているベテラン。連絡が漏れたとは考えにくい。最近、急に雨が降ることが多いから、一気に増水したのだろうか。
「意識を失う前に何かの影を見た気がするんですが、どうも思い出せなくて。気づいたら、こうして海にまで出ていた次第です」
「ええ……。なんだろう。不良人外の仕業かなあ。すみません、怖い思いをさせてしまって。安心して村に来てもらえるように、巡回を強化しますね」
調書に書き込みながら喜三郎さんに頭を下げる。平坂山は加奈子さんが目を光らせているので、悪さをする人外は少ないものの、絶対ではない。今度、相談を兼ねて矢田先輩と訪問してみよう。
「おう、風見。調書書けたか」
駐在所から出てきた矢田先輩が私の手からバインダーを取り上げた。
制服ではなく、昨日洗濯したばかりの白いシャツとジャージに着替えている。洗い立ての髪からはシャンプーのいい匂いがした。
矢田先輩はしばし無言でバインダーに目を落としていたが、不意に「おい、お茶ぐらい出せよ。気が利かねぇな」と言った。
確かにそうだ。調書を取ることに夢中ですっかり忘れていた。慌てて椅子から立ち上がる。
「すみません! すぐに持ってきます!」
「あ、お気遣いなく」
喜三郎さんの声を背にダッシュでキッチンに向かい、お茶を淹れようとして茶葉が切れていることに気づいた。戸棚を探すがコーヒーもない。
あるのは、昨日平五郎さんがくれたドクダミ茶だけだ。ドクダミ茶は好き嫌いが分かれる。喜三郎さんは飲めるだろうか。
「一応、確認した方がいいよね」
矢田先輩に呆れられることを承知で玄関にとって返す。さすがに飲めないものをお出しするわけにはいかない。
しかし、引き戸に手をかけたところで、矢田先輩の真剣な声が聞こえてきて思わず動きを止めた。
「……川……影……長い髪……女性……でしたか?」
「うーん……平坂山……加奈子様の管轄……お探しなのは……様……それとも……」
一体何を話しているのだろう。わからないが、何故かこれ以上は聞いてはいけない気がした。
***
「おお、よう来たなあ! 人間にしては律儀なやつじゃ!」
駐在所よりも遥かに広い和室の中で、山盛りの秋刀魚を前に豪快に笑う男性と対峙する。
酒に酔ったみたいな赤ら顔に、天に伸びる長い鼻。白い山伏装束を身にまとった姿は、ザ・天狗と言って相違なかった。
調書を取って河童の喜三郎さんと別れたあと、彼が海で獲ってくれた秋刀魚を手に東尋坊さんの庵を訪れたのだ。
私の足は早くも痺れ始めているが、隣の矢田先輩はピシッと背筋を伸ばして平然な顔をしている。子供の頃から剣道をやっているそうなので、正座には慣れているのかもしれない。
「この度はご助力をいただきましてありがとうございました。天狗火さんたちにもよろしくお伝えください」
「加奈子殿のお頼みなら聞かぬわけにはいくまいよ。だからまあ、うん、今度会った時にでもワシのことをそれとなく話してくれたら……」
東尋坊さんは加奈子さんが好きなので、私たち人間にも友好的だし、よく手助けをしてくれる。
人間だろうと人外だろうと、笑って泣いて恋もするのだ。村人たちと交流するたびに、それを実感して胸が温かくなる。
そのまま和気藹々と話していると、襖の外から「東尋坊様」と天狗火さんの声がした。誰かを連れているらしい。床が軋む音がする。
「首藤様がお暇のご挨拶をと」
「すまん。少しよろしいか?」
「もちろんです。どうぞ」
矢田先輩が頷き、東尋坊さんが天狗火さんに応じる。すぐに音もなく襖が開き、かしこまった陽治さんが粛々と頭を下げた。
「貴重な文献を拝見いたしましてありがとうございました。おかげさまで研究が捗ります」
「おう、またいつでも来るといい。物持ちの良さは他の者には負けんでな」
東尋坊さんが肩を揺らして笑う。
どうやら民俗学の調査で村の中をあちこち回っているらしい。東尋坊さんは加奈子さんと同じぐらい長くこの村に住んでいるので、頼るにはうってつけだろう。
陽治さんはもう一度深々と頭を下げると、今度は私たちに向かって「どうも」とはにかんだ笑みを向けた。
「先日はお世話になりました。あれから、かなめとの絆がより深まった気がします。新参者ですが、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。早速、かなめさんに神社のお掃除を手伝ってもらっちゃって、ありがとうございました。何かあれば、いつでも相談してくださいね」
そう言った途端、陽治さんは大きな体をもじもじさせた。明らかに何かある。
「どうされました? 遠慮せずにどうぞ。そのために俺たち警察官がいるんですし」
矢田先輩が優しく促すと、陽治さんは少し逡巡して辿々しく続けた。
「実は……納戸で変わったものが見つかったんです」