32話 神殺し
テーマ:恐いお化け
血のように赤い夕焼けが私を照らす。
逢魔時――昼と夜の境目で、私は大きく息を吸った。
視界の先には崩れた祠。山頂の冷たい空気が肺を満たしていく。しかし、この熱が奪われることはない。私の中にいるマガツコさんも、まもなく訪れる結末に緊張しているみたいだった。
「やあ、準備は万端?」
木々を掻き分けて現れたのは、私と同じ大きさの土竜だった。
退化したつぶらな瞳に、愛嬌のある顔。コウさんだ。その隣にはもふもふの毛に包まれた大蜘蛛のライさんもいる。
ふたりの姿を見た途端、胸の中のマガツコさんが震えた気がした。500年前に死に別れた子供達を前に、喜びが隠せないのだろう。
「マガツコ様、完全に力が戻ったみたいだな。良かったぜ」
「洞窟を抜ける時も、だいぶ戻ってたもんね。僕たちのことはまだわからないみたいだったけど。この日は近いと思ってたよ」
「ふたりとも、あの時はありがとうございました。役場の人は連れて来られなかったけど……」
約束を違えたことを謝ると、コウさんとライさんは顔を見合わせて笑った。
「いいよ。僕たち、今日で山からいなくなっちゃうし」
「マガツコ様をひとりにはできねぇからな。俺たちも一緒に行こうと思ってんだ」
「そんな……」
コウさんが首を横に振る。ライさんの赤い8つ目も、まっすぐに私を見る。
ふたりの意思は固い。一度会っただけの私の願いなど聞き届けてはくれないだろう。私はただ、涙を飲んで口を噤むしかなかった。
「あの、これ……。駐在所の仏間で見つけたんですけど」
ズボンのポケットから、4つに折り畳まれた和紙を取り出す。500年経っているはずなのに不思議と色褪せていない。
一連の騒動ですっかり忘れていたが、駐在所には村で唯一の仏間があったのだ。
記憶を失うまでは私と矢田先輩が交代で管理していたらしい。固く閉ざされた黒塗りの扉の中には、この紙とふたつの位牌だけが残されていた。
明らかに手作りの位牌には、『光』『雷』とただ一文字ずつ書かれていた。
「やあ、懐かしいね。まだ残ってたんだ」
「なんか恥ずかしいな。今、見たらヘッタクソだしよ」
開いた紙には、辿々しい筆文字で『真月子』と書かれている。500年前にふたりがマガツコさんにあげたものだ。
こうして残っているのは、何らかの力が働いているのだろう。残したい、という想いの力が。
「それは君が持っててよ。どうか凶子様を真月子様に戻してあげて。頼んだよ」
「……はい」
鼻を啜ったのは気づかないふりをしてくれた。
「待たせたな、はとり」
真っ白な狩衣を着た尾白さんが、片手を挙げてゆったりと歩いてくる。
その後ろには巫女服を着て金棒を持った加奈子さんと、アリスちゃんを持った山伏姿の東尋坊さん。そして、希天さんが宿った刀と鏡子ちゃんを持った矢田先輩がいる。
結局立ち会いだけではなく、参加することになった。「嫁と娘が頑張ってんのにボケッと見てらんねぇからな」と言って。
「希天さんを渡すぞ。重いから、しっかり持てよ」
「はい……って! 本当に重い! 日本刀ってこんなに重いんですか? 腕もげますよ」
気を抜くと、うっかり落としそうになる。昔の人はこんなの振り回していたのか。すごい。
「希天は小柄な鬼とはいえ、マガツコより遥かに大きかったからね。――抜いてごらん」
尾白さんに促され、矢田先輩に支えてもらいながら、ゆっくりと鞘を払う。
鬼灯色の刀身が、月の光を孕んだように淡く発光している。まるで、それ自体が夕焼けみたいに。
禍々しい。けれど目が離せない。妖艶な輝きに、ごくりと喉が鳴った。
「おい、やけに熱い視線だな。俺は浮気を許した覚えはねぇぞ」
「は? な、何を言ってるんですか! こんな時に!」
口の端を吊り上げた矢田先輩と目が合って頬が熱くなる。同時に、ふっと肩の力が抜けた。
気を張っていても仕方ない。ここまできたら、やることをやるまでだ。
「何度も聞くけど、その格好でいいのかい? 古来より神に対峙する時は白装束と決まってるんだけどね」
「いいんです。これが私の正装ですから」
制服の旭日章を見せつけるように胸を張る。有給中だが、矢田先輩も同じ格好だ。図らずともペアルックな私たちを、尾白さんがくすくすと笑う。
「そうかい。じゃあ、始めるよ。神殺しの時間だ!」
大きく吠えた尾白さんが、狩衣の袂から取り出した角隠しを空に掲げ、青い狐火で火をつけた。
秋の風に煽られ、黒い煙が私の鼻に届く。途端に込み上げる嘔吐感を必死に我慢する。辺りに漂うそれは、腐敗した獣の匂いだった。
「おいで、マガツコ。このままだと燃え尽きてしまうよ?」
尾白さんが狐火の火力を高めた――その刹那。
激しい雷鳴が響き渡り、分厚く、黒い雲が夕陽を覆い隠した。
周囲が一足早い夜の帷に包まれ、冷たい雫がぱらぱらと頬に落ちてきた。これはきっと、マガツコさんが流す涙なのだ。
「来るよ。まっすぐライの糸を伝ってる」
コウさんが言い終わるや否や、その場に圧迫感が満ちた。
陸に打ち上げられた魚みたいに息が苦しくなる。陽治さんの家で初めて対峙した時とは比べ物にならない重さだ。
私の中のマガツコさんが力を取り戻すと共に、マガツコさんの荒御魂も力を取り戻したのだろう。だって、元はひとりなのだから。
ずるり、ずるり。
白無垢を引きずる音が近づいてくる。夜よりも濃い闇の中、落ち窪んだ眼窩から赤い涙を流した荒御魂が現れた。
角隠しを失った額からは、鹿のツノのようなものが天に向かって伸びている。
その下の顔も、袖から覗く両手も、やはり羽虫みたいな闇に覆われていた。
「ゴハン、ヨ……キテン……ゴハン……」
ずるり。長い黒髪を揺らし、荒御魂はその場に足を止めた。それ以上前に進めず、不思議そうに首を傾げている。
荒御魂と私たちの間には、あらかじめライさんの糸をびっしりと張り巡らせている。そのために先行して山頂に来ていたのだ。黄泉路ではなく、普通の洞窟を通って。
「マガツコ様、ご飯はあとでゆっくり食べよう!」
コウさんが地面に手を置くと同時に、荒御魂の足元が陥没した。その隙を見逃さず、ライさんが糸を解き、矢田先輩と東尋坊さんが荒御魂を挟み込むように鏡を掲げる。
合わせ鏡は金縛りを呼ぶ。荒御魂はそのまま凍りついたように動かなくなった。
「正臣、照魔鏡をマガツコの正面に」
尾白さんの指示通り、矢田先輩が荒御魂の正面に回る。そして、闇に包まれた顔の前に鏡子ちゃんを掲げた。
照魔鏡は正体を暴く鏡。鏡に映った自分の姿を見て、荒御魂は髪を振り乱して絶叫した。ものすごい声だ。
荒御魂の激しい抵抗に、金縛りも徐々に解けつつあるようだ。東尋坊さんの手の中で、アリスちゃんが苦しそうな顔をする。相対する鏡子ちゃんのひとつ目も険しく細められていた。
「アア! アアア! アアアア!」
「目を逸らさないで、マガツコ! これが、今のあなたなのよ! 一緒に過ごしていた頃のあなたを思い出して……。思い出してよお!」
金棒を放り出した加奈子さんが荒御魂を抱きしめる。じゅっと嫌な音がして、加奈子さんの両手が焼け爛れていく。黒い闇が加奈子さんを食っているのだ。
それでも加奈子さんは離さない。荒御魂はしばらく叫んでいたが、やがて糸が切れたように静かになった。
「はとり、今だ! とどめを……」
尾白さんに促され、荒御魂の前に立つ。項垂れた荒御魂は、酷く憔悴しているように見えた。
すう、と息を吸い、刀を振り上げる。存在しないはずの心臓がドキドキと跳ねる。
これを振り下ろせば全ては終わる。私の記憶は戻り、村には平和が戻る。
みんな救われるんだ。でも――マガツコさんは?
じわり、と手の中に汗が滲んだ。刀身が瘧にかかったように震える。
「どうした、はとり。早くマガツコを眠らせてやってくれ!」
悲痛な声で叫ぶ尾白さん。泣きじゃくる加奈子さん。強く唇を噛む東尋坊さん。不安げな子供達。眉を寄せる矢田先輩。みんな私を見つめている。
できない。
この人を殺せない。
殺すなと、刀がそう言っている。
はっと息を飲んだ矢田先輩が私に手を伸ばした瞬間――荒御魂がゆっくりと顔を上げた。
「キテン」
夜から昼へ。闇から光へ。地面を揺るがす轟音と共に、周囲が真っ白になった。
そのまま何度も何度も轟音が響く。とても立っていられない。誰のものとも知れない声が周囲で上がる。
ようやくおさまった頃には、地面にはクレーターのような穴がいくつも空き、体から煙を立ち上らせたみんなが散り散りに倒れていた。
「矢田先輩! みんな!」
悲鳴を上げ、矢田先輩に縋り付く。
よく見ると、みんなところどころ服や髪が焦げているが、全身黒焦げではない。息もある。鏡姉妹もヒビひとつ入っていないようだ。その事実にほっとする。
「ごめんなさい、私、私……」
殺せなかった。そのせいでみんなを傷つけてしまった。押し寄せる後悔に涙をこぼす私の隣で、ゆらり、と荒御魂が立ち上がった。
その眼窩は私を――いや、手の中の刀をまっすぐ見据えている。
「キテン……。ワタシノ、キテン……」
空っぽな眼窩が、愛しげに細められた気がした。
ああ、そうか。彼女は最初からわかっていたんだ。自分が神に変貌したことも、希天さんが遺した想いも。
わかっていて、止められなかったんだ。
「……希天さんに会いたい?」
矢田先輩の手から鏡子ちゃんを取り、ゆっくりとその場に立ち上がる。
激しく降り注ぐ雨の中、立っているのは私とマガツコさんの片割れだけ。
片割れは私を見つめ、こくりと頷いた。
「そっか。じゃあ、会わせてあげる。この子を持っててくれる? あっ、落とさないでよ。私の大事な娘なんだから」
片割れは素直に鏡子ちゃんを受け取った。その手の中で鏡子ちゃんがぶるぶると震えている。私が何をしようとしているのか悟ったのだろう。アリスちゃんが「ママ……」と私に手を伸ばす。
「おい、はとり……。お前……」
「ごめんなさい、矢田先輩。私は警察官だから、この人も救わなきゃ。――そうでしょう、希天さん」
刀を目の前に掲げる。私は法師ではないから正しい手順は知らない。けれど、どうすればいいのかはわかる。人を招くには扉を開かなくては。
「私はあなたをお招きします」
鋭く光る切先を自分に向ける。「やめろ!」と矢田先輩が叫ぶ。
そして、私は赤く燃える刀身で自分の胸を貫いた。




