23話 マガツコノミコト
テーマ:廃墟のお化け
「結婚してたなら言ってくださいよ。彼女はいないって言うから、てっきり独身かと思ってましたよ」
「してたんじゃない。今もしてる。だから彼女がいないんだ。警察官が不貞なんて笑えねぇだろ」
刺すような痛みが胸を貫いた。同時に、頭を撫でる大きな手のひらの感触が蘇る。何で? 何でこんな時に思い出すの。
「み、水臭いなあ。もっと早く教えてくれれば良かったのに。離婚してないなら、どうして別々に暮らしてるんですか? ……あ、わかった! 矢田先輩が怒らせちゃったんでしょう。ダメですよ。早く仲直りしないと」
私は今、上手く笑えているだろうか。心の中を見透かされていないだろうか。震える声で言葉を紡ぎ続ける私を、矢田先輩は観察するように見つめている。
「どうして? もうわかってんだろ? 陽治さんに聞いたんだよな。オガグズ様は記憶を食うって」
――ああ、予想は合っていたのだ。けれど、嬉しくも何ともない。むしろ違っていてほしかった。頭がズキリと痛む。
「小波さんみてぇに妖怪だったら違ったかもしれねぇけどな……。俺の嫁はオガグズ様に記憶を食われて、ここにいられなくなった。今は市内の病院で眠ってる。平坂山で土砂崩れが起きた日から、ずっとな」
やめて。
「嫁とは職場結婚でな。村人たちからも愛されて、俺には過ぎた嫁だった。子供はいねぇけど、嫁はまだ26歳だからな。これからだよね、なんて笑ってた。名前の候補だって決めてたんだぜ」
やめて! それ以上聞きたくない!
そう叫べればどんなに良かっただろう。惚気ご馳走様です、なんて戯けて全てを終わらせたかった。けれど、私の口から出たのは全く違う言葉だった。
「……矢田先輩こそ、嘘をつかないでくださいよ。私が着任したのは半年前です。土砂崩れが起きた日まで村にいらっしゃったなら、私は奥さんにお会いしているはずです。結婚しているのは本当でも、時期が……」
その続きは言えなかった。矢田先輩が一瞬、泣きそうに唇を噛み締めたから。
「その記憶は本当に正しいか?」
「――え?」
ドクンと心臓が大きく高鳴り、額から汗が噴き出した。息が苦しい。この先は聞いてはいけない気がする。
立ち上がりかけた私の両肩を、素早く近寄ってきた矢田先輩が押さえる。その両手のひらは、焼け付くように熱かった。
「俺から逃げるな、風見。思い出せないなら犬上に確認してみろ。警察学校をいつ卒業したのか」
カワウソの子供たちを捜索していた時の、犬上くんの言葉が耳に蘇る。確か『俺が新人の時から……』と言っていた。すぐに『まだ新人だったな』と否定していたけど、あれが本当だったら?
……いや、ちょっと待てよ。
「あ、あの時の犬上くんはオガグズ様に操られていました。話した内容に信憑性はありません」
「なら警察学校に確認しろ。電話番号は残してあるだろ?」
矢田先輩は私の目を見据えたまま、私のズボンのポケットからスマホを取り出した。セクハラですよ、なんてとても口に出せない。蛇に睨まれた蛙のように身動きできなかった。
「どうした? 早くしろよ」
スマホを差し出され、両手が震える。怖い。やめて。まだ目を覚ましたくない。そう思った瞬間、頭痛が急に消えた。
最初から何もなかったみたいに。
「気づいたか? 自分が人間じゃないってことに」
「な、何言ってるんですか。私は人間ですよ。冗談はやめてください」
「ただの人間が山頂から落ちて生きてるわけねぇだろ。次郎先輩の事件の時も、バットで殴られたけど痛くなかったって言ってたよな?」
「それは……。でも、鏡の中の世界で悪魔に大外刈りをされた時は痛かったですよ。鏡を叩く手にもちゃんと痛みを感じました」
必死に言い募る。矢田先輩はそんな私をまっすぐに見つめている。顔は驚くほど平静だった。それが逆に怖い。
「お前、今まで崖から落ちたりバットで殴られた経験あるか? ないだろ? 記憶にないものは再現できない。鏡の中で痛みを感じたのは、お前が知っている痛みだからだ。柔道は散々訓練したもんな?」
「待って、待ってください! なら食事は? 息は? こうして両手だって震えてるんです。人間じゃないなら、私は一体何なんですか。みんなも私をはとりって呼ぶじゃないですか。先輩だって……風見って……」
グス、と鼻が鳴る。目に涙が滲む。確かに感じる鼓動も、胸の痛みも、ただの想像だと思いたくはなかった。だって、そうじゃなきゃ……。
矢田先輩に頭を撫でてもらった感触も、全て嘘だってことになるじゃないか。
「……オガグズ様は荒御魂。つまり、どこかに和御魂もいるってことだ。知ってるか? 平坂神社の御祭神もマガツコノミコトって言うんだぜ」
「それが何……」
まさか。
「私が……マガツコノミコトだって言いたいんですか。オガグズ様の半身だって」
「言いたいんじゃない。そう言ってる。何のためにお前にミニ所長を持たせたと思う? 忙しくて飯を食えねぇことも多い仕事なのに、いちいちお供えする伝統なんてあるわけねぇだろ。そうさせたのは、神は供物を食うからだ。鏡の中にいた時の光もミニ所長じゃない。お前の力だよ」
アリスちゃんは言っていた。『おねえちゃんは、わたしとあいしょうがいいから』と。
拝殿の中を思い浮かべる。本殿には鏡が置かれていたらしき台座があった。つまりマガツコノミコトノの御神体――依代は鏡なのだ。だから相性が良かった? 初めて拝殿に入った時に感じた懐かしさも、気のせいじゃなくて昔そこにいたから?
……なら、この風見はとりって?
「神は依代がないと顕現できない。土砂崩れが起きた日、お前の依代は割れちまった。だから、たまたまそばにいた人間を新しい依代にしたんだ。ここまで言えばわかるよな? 今のお前の依代は平坂村の警察官。俺の後輩の風見はとりなんだよ」
喉から声にならない悲鳴が出た。とても信じたくなかった。矢田先輩の言うことが本当なら、村人たちが私に向けてくれる好意も、私がみんなを守りたいという気持ちも、矢田先輩に感じた想いも――全部、風見はとりのもの?
「嘘。嘘。矢田先輩は嘘ばかり。いきなりそんなことを言われても素直に飲み込めるわけないじゃないですか。オガグズ様のことも知ってて何も教えてくれなかったですよね。村境の十字路で陽治さんがオガグズ様の名前を口にした時も、陽治さんの家に白い幽霊が出たって報告した時も、初めて聞いたみたいな素振りでした。この山で対峙した時だって全く動揺してなかったじゃないですか」
「お前も甘いな。俺は知らないとは一度も口にしてないぜ。それに、動揺なんてするわけねぇだろ。オガグズ様の目的はお前だとわかってるんだから」
「何でそんなことが言えるんですか。襲われたのは私だけじゃ……」
「言っただろ? オガグズ様は荒御魂。半身のお前とひとつになりたがってる。陽治さんの家に現れたのも、お前に惹かれたからだ。小波さんや喜三郎さんが遭遇したのはただの不運。俺の嫁もな。猪口襤褸や犬上を操ったのは、向こうも知恵をつけてきたからだ」
絶句する私を尻目に、矢田先輩がさらに話を続ける。出来の悪い後輩に言い聞かせるように。
「嫁を目覚めさせるには、奪われた記憶を取り戻さなきゃいけねぇ。だから、俺はずっと探してたんだ。あの白い幽霊を――村を彷徨うオガグズ様をな。あいつは普段は異界にいて、お前を探す時だけ現世に現れるんだよ。雨を降らしながら」
淡々とした矢田先輩の声を聞きながら、河童の喜三郎さんを海から救助した時の会話を思い出す。矢田先輩は喜三郎さんに「影は長い髪の女性だったか」と聞いていた。あれはオガグズ様を探していたから?
「……なんで? なんで今なんですか? 話す機会なんて、今までいくらでもあったじゃないですか。ずっと黙ってて、なんで急に……」
「お前の力が戻りつつあるからだ。神の力は信仰の力。あの土砂崩れの日から、何度も事件を解決してきたじゃねぇか。村人たちの風見はとりへの感謝の気持ちが、お前の糧になってる。――髪、伸びたって言ってよな。俺には最初から今のお前の姿が見えてたぜ」
矢田先輩はボストンバッグから鏡子ちゃんを取り出すと、鏡カバーを外して鏡面を私に向けた。
ぽろぽろと涙をこぼすひとつ目の下に映っていたのは、髪の長い女性だった。まるで矢田先輩の奥さんや――オガグズ様みたいな。
姿もとても20歳には見えなかった。それもそうだ。犬上くんの同期なら、少なくとも20代後半のはずだ。なんで今まで気づかなかったんだろう?
私……いや、風見はとりが着任した日、人魚の桜ちゃんはまだ小学生だった。矢田先輩も今より若かった。私の認識は歪んでいる。きっと現実を見たくなかったから。
「土砂崩れのあと、駐在所の2階から下りてきたお前は自分を新人だと思い込んでた。当然、話したさ。お前が着任したのは6年前だってな。でも、お前は理解しようとしなかった。それどころか、不都合な事実には目を瞑って整合性を取ろうとしてた。お前の着任時、俺は26歳だったよな。でも、32歳と聞いても違和感を覚えなかっただろ? 嫁の存在も綺麗に忘れてた。それで気づいたんだ。お前は依代にされたんだって。倒れたお前のそばには割れた御神体があったからな」
「……今まで口裏を合わせてたってことですか? 村のみんなも? おかしいってわかってたのに?」
「無理に思い出させて、風見の人格にどう影響するのかわからなかったからな。ある程度力が戻って、自分から違和感に気づくまでは黙って見守ると決めたんだ。陽治さんたちも話が噛み合わねぇなと思ってただろうが……。引っ越してきたばっかりで、突っ込んで聞けるわけねぇだろ? 人間社会で暮らしてるとはいえ、鬼だしな。人間の実年齢なんてわからねぇもんさ」
眩暈がして思わず頭を抱えた。長く伸びた髪がさらりと胸をくすぐる。ほんの1ヶ月前は、顎ぐらいまでしかなかったのに。
「じゃあ、じゃあ……。私を『日本人形みたいだな』って笑ったのも、私が自分の髪を短いと思ってたから……?」
矢田先輩は何も言わなかった。沈黙は肯定だ。
絶望感に身を包んだ時、屋根を叩く雨音が聞こえた。同時に、屋敷の中に禍々しい気配が充満する。何度も邂逅した、あの気配が。
ずるり、ずるり、と何かを引きずるような音が聞こえる。少しずつこちらに近づいてくる。あの白い幽霊が、オガグズ様が、私を食おうと――いや、ひとつになろうとやってくる。
この屋敷は妖怪だ。そう易々と侵入者を許すわけがない。通報なんて嘘。最初から、私をここに連れて来るための仕込みだったのだ。
「もしかして、私……今、餌にされてます?」
沈黙。
気づけば、私は矢田先輩の手を振り払ってその場から駆け出していた。どこへ向かおうとしているのかはわからない。逃げ場なんてないのに。
さっきまで穏やかに灯っていた明かりは消え、必死に空気を取り込もうとする肺に腐臭が忍び込む。どろりと濃い闇の中にかろうじて浮かぶ畳も、襖も、ひどく破れて腐っていた。
壁の穴から覗く目は一体誰の目だろう?
いつの間にか、マヨヒガさんは廃墟に変貌していた。
「矢田先輩……」
冷たい唇で、何度も何度も先輩の名前を呼ぶ。今まで助けてくれたのは、心配してくれたのは、依代の後輩を案じていたから? それとも、餌を失いたくなかったから?
ああ、逃げちゃダメなのに。私は警察官なのに。でも、もうひとりの私が囁いている。あいつに捕まってはいけない。もし、捕まってしまったら――。
「ミツケタ」
力任せに開いた襖の向こう。白無垢から伸びた闇が、私の頬に触れた。




