2話 夫婦喧嘩は鬼も逃げ出す
テーマ:青いお化け
「いやあ、いい夜だねえ。今日は新月だし、照らし甲斐があるよ」
「電灯が発明されてから肩身狭かったもんなあ。その点ここは夜が深くて安心するね。元号が万花に変わったとは思えないほどの寂れっぷり」
並んで歩く私と矢田先輩を囲むように浮いているのは、山からお手伝いに来てくれた天狗火さんたちだ。赤みがかった火に触れても特に熱くはない。うっかり火傷しないように気を遣ってくれているのかもしれない。
天狗火さんはその名の通り、天狗が起こした火。つまり怪異なのだが、この村に住む彼らは自由意志を持ち、主人の東尋坊さんから離れても好きに動ける。
理屈はよくわからない。だって、私、陰陽師でもお坊さんでもないし。
人間がこの火に遭遇すると病気になると言うが、今のところその兆候はない。彼らは良き天狗火さんたちなのである。
「ご足労頂きましてありがとうございます。東尋坊殿にもよろしくお伝えください」
律儀に頭を下げる矢田先輩に、天狗火さんたちが火を揺らして笑う。
「なんのなんの。他ならぬ加奈子様の頼みに主殿が逆らえるはずもなし」
「そうそう。警察官に協力するのも村人の務めだしね。はとりちゃんとこうして夜の散歩をするのはいつぶりかなあ。十年は経っていないよね。人間の時間感覚は未だによくわからなくて」
懐かしそうに言われても、心当たりは全くない。そもそも私は配属されたばかりの新人だ。十年前なら、まだランドセルを背負っていた頃である。
首を傾げる私に、矢田先輩が「怪異の言うことを真に受けんな」と忠告してくれる。ありがたいが耳元で囁くのはやめてほしい。なんかゾワゾワする。
「お、あれじゃないか。加奈子様の言っていた赤鬼」
人間が指をさすように細く伸ばされた火の先には、十字路の真ん中でうずくまって泣く赤鬼がいた。
体格は矢田先輩よりも大きいが、スカートを穿いているので女性だとわかる。私と違って胸も大きそうだ。ご近所に配慮しているのか、声を殺してしゃくり上げる姿は、なかなか心にくるものがある。
「風見、職質」
「はあい。すみませーん、少しよろしいですか?」
警戒心を抱かせぬように、努めて声と表情を明るくして赤鬼に近づく。それにつれて闇の中に溶けていた容姿が徐々に明らかになった。
側頭部から天に向かって生える立派な二本のツノ。男鬼にありがちなパンチパーマではなく、肩まで伸ばした茶髪をゆるくハーフアップにしている。よく見ると服も都会にしかないブランドものだった。
そして、ゆっくりと上げた顔はフランス人形みたいに整っていた。
涙で潤んだ金色の瞳に、鋭い牙が覗く艶やかな唇。丹を塗った陶磁器のように滑らかな肌。
事前に村人たちから聞いていた評判通り。間違いない。七辻の空き家に越してきたばかりの若奥さんだ。
「首藤かなめさん、ですよね? こんな夜中にどうされました?」
「あ……。すみません。大丈夫です。……もしかして、通報がありました?」
「通報じゃなくて、相談です。みなさん心配しているんですよ。いくら鬼とはいえ、夜中に女性が一人で出歩いていたら危ないですからね」
かなめさんは聡い鬼のようだ。涙を拭って立ち上がるのを介助しながら正直に話す。天狗火さんたちを連れている以上、誤魔化しても無駄だからだ。
「ごめんなさい。家だと泣けないからつい……」
「差し支えなければお話を聞かせてもらえませんか? 村でお困りのことがあれば助けになれるかもしれないし」
「いえ、この村に不満はないんです。新参者の私にも、みなさん優しくしてくれて……。ただ……」
「かなめ!」
夜のしじまを破って響いた声に、かなめさんの肩がビクッと震えた。矢田先輩の向こう。明かりもなしに走ってくるのは立派な青鬼の男性だ。
歳の頃は二十代に見えるが、人外の実年齢はよくわからない。鬼なので体格こそいいものの、図書館が住処の文学青年という感じだった。お洒落な銀縁のメガネもかけているし。
その姿を見た途端、かなめさんが脱兎のごとく田んぼの畦道を駆け出した。さすが鬼。めちゃくちゃ足が速い。呆気に取られているうちに、大きな背中がみるみる遠ざかっていく。
「ぼやっとしてんな! あの向こうは整備されていない山だ。いくら鬼でも遭難しちまうぞ!」
横をすり抜けて走っていく矢田先輩のあとに続く。私の後ろには「かなめ! 待ってくれよ!」と叫ぶ青鬼。たぶん旦那さんなのだろうが、話しかける余裕はない。
天狗火さんたちがサポートしてくれるものの、月のない夜道は走りづらい。転ばないようにするのが精一杯だ。
「もっと気合い入れて走れ風見ぃ! お前が追いつかなきゃ挟み撃ちにできねぇだろうが!」
「そんなこと言ったってえ。相手は鬼ですよお」
か弱い人の身で人外に敵うわけがない。つくづく警察官とは割に合わない仕事である。
矢田先輩は私を見限ったのか、小さく舌打ちすると走る速度を上げた。しかし、それに合わせてかなめさんも足を早めるので、いつまで経ってもイタチごっこだ。
そのうちに、電灯に照らされた赤い鳥居が見えてきた。あの山には加奈子さんみたいな管理者がおらず、タチの悪い人外が大勢住んでいる。矢田先輩の言った通り、入ればどうなるかわからない。
その時、不意に闇が重くなり、前方に影が現れた。一目見て禍々しいとわかる赤い影が。
影は両手らしきものを広げると、向かってくるかなめさんを迎え入れるように一歩足を踏み出した。
「かなめさん、危な……」
最後まで言う前に風が巻き起こった。煽られた天狗火さんたちが悲鳴を上げながら、消えないよう必死に揺らめく。
気づけば、かなめさんは荒い息をつく青鬼に抱き抱えられて、その逞しい腕の中で目を白黒させていた。
「あらあ、お熱いこと。新婚さんっていいわねえ」
「加奈子さん!」
腰まで伸ばした黒髪に赤い瞳。遊女のように衣紋を大きく抜いた艶やかな着物。
赤い影は加奈子さんお得意の幻術だったらしい。追いついた私たちに、加奈子さんは「夜中に走らせてごめんねえ」と申し訳なさそうに言った。
「助かりましたけど、どうしたんですか。この辺りは加奈子さんの管轄じゃないですよね」
「そうなんだけどねえ。村人として任せっきりなのもどうかと思ってえ」
「あ、あなたは平坂山の山鬼様……。申し訳ありません。わざわざご足労いただきまして」
今にも跪きそうな青鬼――首藤陽治さんに加奈子さんが目を細める。暴れ回っていた時代を思い出すから、傅かれるのは嫌なのだそうだ。
「そういうのやめてくれるう? 怖い鬼みたいでしょお。それより、奥さんびっくりしてるわよ。他に話し合うことあるんじゃないの?」
陽治さんがはっと息を飲み、腕の中のかなめさんに目を落とした。
「ごめん、かなめ。百目鬼の奥さんから、君が夜な夜な家を抜け出して泣いているって聞いて初めて気づいたんだ。僕が仕事の都合で無理やり連れて来たから……」
「違うの。私、別に東京が恋しいとかじゃないの。ただ……」
かなめさんは唇を噛むと、陽治さんから顔を逸らして蚊の鳴くような声で続けた。
「寂しくて。陽治さんはお仕事で忙しいし、仲良くしていたお友達もいないし……。前の家よりも広くて静かな分、がらんとしてるように感じるの」
気持ちはよく分かる。かろうじてネットは繋がるものの、テレビは一局しかつかないし、家の外から聞こえるのは自然音ばかり。
私も初めて来た時は人恋しくて仕方なかった。よく用もないのに矢田先輩に話しかけてうざがられたものだ。
陽治さんは頬を打たれたように目を見開き、かなめさんを強く抱きしめた。まるでドラマのワンシーンみたいな光景に頬が熱くなる。
「……僕は君の優しさに甘えていたんだね。これからはできるだけ一緒にいるよ」
「ううん。私もいけなかったの。寂しいなら自分から声をかければ良かったんだわ。これからはお外にも出るようにする。こんなに素敵なところに来たのに、引きこもってばかりじゃもったいないもの。それに……お仕事に夢中になっている陽治さんが好きだから」
「かなめ……!」
うーん。ラブラブ。ハートが飛んでいる気がする。
熱く愛を確かめ合う二人に、加奈子さんがくすりと笑みを漏らす。
「そうよお。寂しくなったら私や村人もいるし、駐在所に行けば、いつもはとりちゃんがいる。話し相手には困らないわよ。ねえ?」
「そうですよ! いつでもお気軽にお越しください」
ない胸を張る私に、かなめさんはようやく笑った。月が出ていたら雲に隠れそうなほど綺麗な笑顔だった。
「本当にお世話になりました。来たばかりで問題を起こして申し訳ありません」
「いえいえ、これが仕事ですからお気になさらず。ところで、陽治さんって何のお仕事をされているんですか?」
矢田先輩が「引き継ぎしたろうが!」と私の頭をはたく。我ながらいい音がした。痛い。
「すみません。こいつまだ新人で」
「いえ。はとりさんには、まだご挨拶できていませんでしたね。僕は東京の大学で民俗学を研究しているものです。この村に伝わるヤマビト信仰について調査をしに来ました」
「ヤマビト信仰?」
半年いるが聞いたことがない。矢田先輩を見上げるとさりげなく視線を逸らされた。きっと先輩も知らないのだろう。後輩には素直に知らないと言えないのだ。
「古来、この地にはヤマビトと言われる人間がいて、神通力で村を守っていたとされています。おそらく人外との混血でしょうが、いつしか神として崇められるようになった。資料が散逸しているので神名は不明ですが、俗称は判明しています。――オガグズ様という名はご存知ですか?」
「オガグズ?」
こちらも聞いたことがない。神様としては変な名前だ。オガクズと言い間違えそうになる。
「オガグズ様は山の秩序を守り、日照りの際は雨を降らせる。その反面、怒らせると相手を食ってしまう。ヤマビトがオガグズと呼ばれるようになった所以はわかりませんが、お陀仏が訛ったもの、もしくは食われた箇所がオガクズのように――」
「陽治さん」
凛とした声がその場に響いた。加奈子さんだ。天狗火さんの明かりに照らされて、赤い瞳が煌々と光っている。
その雰囲気に飲まれたのか、陽治さんがごくりと唾を飲み込んだ。彼の腕の中にいるかなめさんも顔を青く――いや、赤鬼なので顔色はわからない。怯えているようだ。
隣の矢田先輩には変わりはない。若干眉が寄っている気がするが。
「深夜にする話じゃないわよお。はとりちゃんと矢田くんは人間なの。私たちと違って、ちゃんと睡眠とらなきゃダメなんだから。ね?」
加奈子さんは静かになった二人に笑みを向けると、背後から私の両肩に手を置いた。
その時初めて、自分の体が震えていることに気がついた。