18話 鏡の国のはとり(前編)
テーマ:学校のお化け
「はーい、みんな。村で知らない人に声を掛けられたらどうするー?」
『ついていかなーい』
「そうだねー。もし追いかけて来たらー?」
『おおきなこえをだしてにげるー』
「偉いねえ。じゃあ、これで最後! 困った時はー?」
『おとなのひとにいうー』
素直に返ってくる言葉に満面の笑みを浮かべつつ、全力で拍手をする。
「よく出来ました! 今言ったこと、忘れないようにしてね。お巡りさんとの約束だよ!」
『はーい』
元気いっぱいな声が耳に刺さる。さっきから表情筋が痛い。今日一日治らないかもしれない。
目の前に等間隔に並べられた椅子には、様々な年代の様々な姿形をした子供たちが座っている。
都会だと年代ごとにクラス分けされているのだろうが、ここは村で唯一の小学校だ。生徒の数が少なすぎて、常に廃校の危機に晒されている。故にクラスも一つしかない。
それでも、通っている子供たちの顔はお日様みたいに明るい。
今もキラキラした目を私に向けてくれている。教室の後ろに立っている先生方も満足げだ。どうやら今日の防犯教室も無事に終了したらしい。
「最後まで聞いてくれてありがとう! みんな気をつけて帰ってね!」
頑張って作った啓発のチラシを渡し、最後まで笑顔を張り付かせたまま生徒達を見送った。
***
「はとりちゃん、お疲れ様。忙しいのにいつもありがとうね」
教室に残って後片付けをしている私に、楚々と近寄ってきた校長先生が丁寧に頭を下げた。
彼女はこの道百五十年のベテラン。学校の主とも名高い、旧鼠という鼠の妖怪だ。
旧鼠は親を亡くした五匹の子猫を立派に育て上げたというが、彼女は何百人もの生徒を社会に送り出している。
「いえ、これもお仕事ですから。私が話すことで子供たちの安全に繋がるなら、それが一番です」
「まだ若いのに立派ねえ。こんな後輩が来てくれて、矢田くんも鼻が高いでしょうね」
教卓に置いていたミニ所長を胸ポケットにしまいつつ、ニヤニヤする口元を必死に引き締める。褒めてもらうのはいくつになっても嬉しい。駐在所に戻ったら矢田先輩にも報告しよう。
「先生方はどうです? 何か困ったことはないですか?」
「困ったこと……」
言い淀む校長先生に警察官としての勘が働く。これは間違いなく何かあるやつだ。それも一筋縄ではいかないやつ。
「何ですか? 遠慮せずに言ってください」
校長先生は少し迷ったあと、「実はね」と続けた。
「最近、二階の踊り場に変なものが落ちているのよ。チェスの駒とか、トランプとか……。懐中時計なんかも落ちていたわねえ」
「生徒の悪戯じゃないんですか?」
「そう思うでしょ? でも、誰もそんなことしていないって言うのよ。嘘をついているようにも見えないし」
数多の嘘を見破ってきた校長先生が言うならそうなんだろう。
世間話がてら現場に案内してもらう。
踊り場は生徒が二、三人いられるぐらいの広さしかなく、壁には古びた姿見が掛かっていた。
公共の施設によくある、長方形のシンプルな鏡ではない。ファンタジー映画に出てきそうな真鍮の枠がついた鏡だ。鏡子ちゃんが見たらどんな反応をするだろう。
「落とし物が見つかるのは日中でしたっけ。共通点はありますか? 不審者が入り込んだ形跡は?」
「それがねえ、決まった時間じゃなく、気づいたら置かれているみたいなのよ。校外は二宮先生が巡回しているし、校内は花子先生が巡回しているから、不審者の可能性は低いと思うの」
二宮先生は二宮金次郎像の付喪神、花子先生はトイレの花子さんだ。この学校の先生は全員が人外。確かに侵入者がいればすぐに察知されるだろう。
床に膝をつき、何か痕跡がないか目を皿にして探す。普段から綺麗に掃除されているそこは、靴跡どころか埃ひとつ残っていなかった。実に鑑識泣かせである。
ここに来る前に落とし物ボックスの中も確認させてもらったが、特に変わった物はなかった。盗難届も出ていた覚えはない。現状、被害は気味が悪いことだけだ。
「となると、原因は鏡かな……。隣町の骨董品屋でご購入されたんですよね。付喪神になっている可能性はないですか?」
「私もそう思ったんだけど、妖気を感じないのよねえ。他の先生方も同じだって」
その場に立ち上がり、鏡を覗き込む。警察官にしては迫力のない顔がこちらを向いている。
また髪が伸びた気がするが、勘違いだろうか。自撮りをするという習性を持ち合わせていないので比較が出来ない。
「あれ? 下の方にヒビがありますよ」
「あらやだ、気づかなかった。生徒が何かぶつけちゃったのかしら」
もっとよく見ようと近づいた時、鏡の中の私がニヤッと笑った。
「え?」
身構える暇はなかった。鏡の中から伸びてきた手に襟元を掴まれ、そのまま中に引きずり込まれる。背後で「はとりちゃん!」と叫ぶ校長先生の声がやけに遠く聞こえた。
必死に抵抗しても梨の礫だ。カツン、と革靴の音を響かせて薄暗い廊下に着地する。同時に、私を引きずり込んだ何かが鏡から外に出ようとしたので、咄嗟にタックルをかける。
何かは私そっくりな顔を歪ませると、私を振り払おうと大きく身を捩らせた。自分と格闘するなんて警察学校でも経験していない。
内心の焦りが出たのか、踏ん張っていた足が滑った。その隙を突かれ、勢いよく大外刈りを食らわされる。
背中を床に叩きつけられて息が出来ない。痛みに呻く私の横を何かが走り抜けて行く。
「待ちなさい!」
自分とは思えないぐらい速い。あっという間に鏡の向こうに姿が消えていく。
あとに続こうとしたが、顔を思いっきり打ち付けてしまった。何度叩いても、自分の手が痛くなるだけで通り抜けられない。
鏡面には必死な顔をした自分が映り込んでいる。鏡の向こうの景色は見えない。踊り場にいる校長先生は無事だろうか。
「こちら風見! 矢田巡査部長聞こえますか? 矢田先輩!」
無線機からはノイズひとつ聞こえなかった。スマホも圏外になっている。
なんたる失態。不審者を取り逃がした挙句、鏡の中に閉じ込められてしまったのだ。矢田先輩に合わせる顔がない。
「どうしよう。あいつが、みんなに危害を加えたら……」
頭を抱えて嘆く私の耳に、廊下を歩く小さな足音が聞こえた。
さっきの奴の仲間だろうか。怒りを隠さずに振り向いた私に、近くまで来ていた何かが肩をびくりと震わせる。
「あれ、あなたは……」