17話 迷子のグレムリン(後編)
「もー! 矢田先輩は子育ての苦労をわかってないんですよ!」
空になったコップを机の上に置いて叫ぶ。
多少のハプニングはあったものの、私は約束通りに首藤家を訪れていた。空には眩ゆい満月が昇り、胸には抱っこ紐の中で充電器を齧るグレムリンがいる。
電子機器に損害を与えないよう、庭で晩餐会をしているのだ。キャンプ用の折り畳みテーブルの上には、かなめさんの手料理が所狭しと並べられている。
脇に置いた丸椅子の上では、お洒落着の鏡カバーに包まれた鏡子ちゃんがしきりに木箱を揺らしていた。グレムリンをあやしているつもりなのだ。最初はむくれていたが、共に過ごすうちにお姉ちゃん心がついたらしい。
「お疲れ様。大変だったね。お札が効いたとはいえ、一日中目が離せなくて」
隣に座ったかなめさんがコップにお代わりを注いでくれる。子守継続中なので、ノンアルコールビールだ。
向かいの陽治さんは難しい顔でグレムリンについての文献を読んでいる。比較的新しい人外のため、まだ生態が詳しくわかっていないそうだ。
人外たちや県下の警察官が捜索しているものの、保護者の手掛かり一つ見つからない状況だった。捜索届も出されていないらしい。このままでは、グレムリンが巣立つまで子守する羽目になってしまう。
「一反木綿の時よりマシだろって言うんですけど、育児は数じゃないんですよ。何人だろうが大変なんです! 体力に任せて暴れ回るわ、鏡子ちゃんはやきもち焼くわ、常に見ていないと何をするかわからないから、ご、ご飯だってゆっくり食べられなくて……」
「うん、うん。辛かったよね。明日は私も一緒にお世話するよ。だから泣かないで」
「ありがとう、かなめさん。陽治さんもすみません。わざわざお時間いただいたのに愚痴ってしまって」
陽治さんは優しく微笑むと、手にしていた文献を閉じてテーブルの上に置いた。
「気にしないでください。一人で背負い込むのは良くないですからね。料理もまだ残っていますので、どんどん食べてください。それに、はとりさんが話してくれた山頂の様子、とても参考になりましたよ」
鬼らしく焼酎のカップを一息に煽り、胸ポケットから取り出した手帳を広げる。
少し黄色みがかった紙面には、私が話した内容が綺麗に書き留められていた。特に反応が良かったのは、祠の周りに落ちていた木切れと、中に入っていた白い布切れ。そして、四肢をもがれた幽霊たちだった。
「マガツコ……ミコト。おそらくマガツコノミコトでしょう。希天法師の日記にも記されていましたよね。荒御魂という記述から、マガツコノミコトは神――つまりオガグズ様であり、あの白い幽霊だと推測されます」
「えっ、どうしてですか? 神様にしては不気味というか……。怖いと感じましたけど」
矢田先輩を知っていたし、とは言わないでおく。
あの雷鳴と豪雨の中、白い幽霊の呟きを聞き取れたのは私だけだ。下手なことを言って、矢田先輩に迷惑をかけたくはない。
「人が二面性を持ち合わせているように、神も二面性を持ち合わせています。荒御魂というのは、文字通り荒ぶる魂。神の荒々しい側面を指します。対して穏やかな側面を指すのが和御霊。オガグズ様が荒御魂であるならば、あの恐ろしさも納得できます」
身近で例えると、怒っている矢田先輩が荒御魂で、頭を撫でてくれる矢田先輩が和御魂ということか。なんだかわかる気がする。
「鬼や妖怪は肉体を持つので人間と同じように生活できますが、神は精神体です。依代無しではこの次元に顕現できません。祠の中に残されていた白い布が白無垢の切れ端だとすると、オガグズ様の依代はおそらく白無垢――つまり、あの白い幽霊がオガグズ様と同一だとする証左です。四肢をもがれた幽霊はオガグズ様に食われた人間の成れの果てでしょうね」
一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれない。ゾッと背筋が凍る。
「怒らせると人を食う。それには記憶も含まれる。記憶はその人を形作るものですからね。操られた人から記憶が抜け落ちているのは、それが原因かもしれません。もしかしたら、子泣き爺の小波さんも……」
小波さんは平坂山に住んでいた。オガグズ様と遭遇した可能性はある。河童の喜三郎さんも、川に落ちる前に何かの影を見たと言っていた。記憶が曖昧だとも。
もしかしたら、矢田先輩の奥さんも記憶を食べられたのかもしれない。だから、村を出ちゃったとか……。
絶句する私に、陽治さんがさらに言葉を続ける。
「あの祠はオガグズ様を封じていた。平坂神社の御祭神の力も借りていたかもしれません。ですが、祠は壊れてしまった。きっと、土砂崩れで壊れたのではなく、雷が落ちて壊れたあと、解放されたオガグズ様によって土砂崩れが起きたのでしょうね。オガグズ様は雨を降らせるので」
「オガグズ様を鎮めない限り、被害者が増えるということですか?」
「それは何とも言えません。何を目的に村を彷徨っているのかわからないので。村人の皆さんも、あの白い幽霊がオガグズ様と承知の上で、手を出しあぐねている気がします。これだけ人外が多い村なのに、どれだけフィールドワークを重ねても、一切ヤマビトやオガグズの名が出ないのは不自然です」
腕を組んだ陽治さんが、首を傾げて唸る。
「実は加奈子様から山頂と神社の調査許可がまだ下りていないんですよ。相手を深く知ることは、同時に向こうからも捕捉されることになりますから、オガグズ様を呼び寄せると危惧してらっしゃるのかもしれません。現に、この家を訪れましたからね。あの時は、私に惹かれてやってきたのでしょうが……」
「次に遭遇したのは、私が神社の拝殿の中に入ったから……ってことですか?」
しん、と沈黙がその場に降りる。かなめさんは赤い肌を青ざめている。それもそうだ。夫の身に危険が迫っているかもしれないのに平静でいられるわけもない。
「私は鬼ですし、それなりに対処は心得ていますので、さほど心配は要りません。ですが、はとりさんは……」
陽治さんは言いにくそうに唇を噛んだ。
「……大丈夫です! こう見えても私は警察官ですからね。崖から落ちても生きている豪運の持ち主ですし、悪さをするなら神様だろうと捕まえてみせますよ!」
ことさら明るく言う私に、陽治さんは眉を下げて微笑んだ。かなめさんはまだ不安そうだったが、あえて弾んだ声で、「じゃあ、体力つけないとね」と空っぽの皿に料理をよそってくれた。
「ありがとうございます。かなめさんのお料理、本当に美味しいです!」
改めて乾杯しようと、ノンアルコールビールで満たされたカップを月に掲げる。
不意に、胸の中のグレムリンが大きくみじろぎして猫みたいな鳴き声を上げた。それに引き寄せられるように、掲げたカップの向こうから徐々に人影が近づいて来て、咄嗟にその場に立ち上がる。
「くーちゃん!」
三千世界の果てまで響き渡りそうな声がして、気づけば柔らかい両腕にグレムリンごと抱きしめられていた。
艶やかな長い黒髪に、雅な十二単から覗く白い両手。女性だ。それも絶世の美女。
「はとりさん!」
「その方から離れてください! どなたですか、あなたは!」
「ああ、待って待って。連絡もせずにお邪魔してごめんなさいね。気が急いていたものだから」
私から離れた女性が、椅子から立ち上がる鬼夫婦を手で制し、粛々と頭を下げる。その仕草はとても優雅で、地位の高い人なのだと見てとれた。
「お初にお目にかかります。わたくし、なよ竹のかぐやと申します。月の住人で、くーちゃん……このグレムリンの飼い主です」
「か、かぐやって、あの『竹取物語』の?」
「あら、ご存知ですか? 嬉しいわ、万花の今まで伝わっているなんて」
私の不躾な叫び声に、かぐや姫は鈴みたいな声でコロコロと笑った。
「私が仕事をしている隙に家を抜け出してしまって……。地上に落ちたとすぐに気づいたのですけど、迎えに行く許可がなかなか下りなくて。連絡しようにも、こちらの知り合いはすでに亡くなっておりますし」
単なるペットの脱走事件だったわけだ。今までの疲れが一気に押し寄せてきて、ガックリと肩を落とす。
「ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。また後日、改めてお詫びに参ります。――くーちゃん、待たせてごめんね。お家に帰ろうねえ」
嬉しそうに鳴くグレムリン……いや、くーちゃんを私の胸から抱き上げ、かぐや姫が踵を返す。鏡子ちゃんには可哀想だけど、これで一件落着……。
ん?
「ちょっと待ってください!」
必死に呼び止める私に、かぐや姫は「なあに?」と首を傾げて振り向いた。
「このままお帰ししたら先輩に叱られます! 調書を作成いたしますので、駐在所までご同行ください」
「あら、刑事ドラマみたい。地上って千年経っても面白いわあ。手錠かけるの? カツ丼出てくるかしら?」
その場にいた全員が同時に噴き出す。
月にまで届きそうな笑い声が庭に響いた。