15話 大土竜と土蜘蛛
テーマ:地中のお化け
ぴちょん、という音がして頬に何かが落ちる。
ゆっくりと目を開けると、そこは暗闇の中だった。右を向いても、左を向いても何も見えない。荒い息だけが響いている。
体の下には冷たくて硬い感触。どこかに横たわっているようだ。恐る恐る体を起こして両手足を動かしてみる。多少ぎこちないものの、思い通りに動いた。
痛みはないが、安心はできない。息をしているのは思い込みで、とっくに死んで幽霊になっている可能性もあるのだ。
「私、どうしたんだっけ……」
最後に見たのは崩れた祠と赤い夕日だ。崖下に落ちたあと、どうやってここに来たのだろう。たまたま居合わせた人外が助けてくれたのだろうか。たとえば、郵便配達中の天狗とか。
「おやあ。目が覚めた?」
のんびりとした声と共に、前方がぼんやり明るくなった。天狗火さんを一回り小さくした青白い炎――狐火だ。淡い光に照らされているのは、人間サイズの大きな土竜だった。
「ごめんね。こんなところに一人で怖かったよね。普段は明かりなしで生活しているから、知り合いの狐に借りてきたんだ」
土竜は私の目の前で歩みを止めると、狐火を分裂させて周囲に散らせた。
ゴツゴツした岩肌に、天井から垂れ下がる鍾乳石。時折聞こえる水音は鍾乳石から落ちる雫だ。それを見てようやく、ここは洞窟の中なのだと気づいた。
「運が良かったねえ。たまたま烏天狗が起こした風に巻き上げられて、速度を殺した状態で川に落ちたんだよ。そのまま流されて、下流の洞窟に入り込んだところを僕が拾った。安心して。君はまだ死んではいないよ」
優しい口調に強張っていた肩の力が抜けていく。なんたる豪運。きっと、これで運を使い果たした。あんな高いところから落ちて五体満足で生きているなんて、宝くじが当たるよりも低い確率に違いない。
「助けていただいて、ありがとうございました。でも、あの……。あなたは?」
「ああ、僕は住民登録していないから知らないだろうね。僕は大土竜のコウ。君は、はとりちゃんだよね?」
「私をご存知なんですか?」
「そりゃあね。村の大事な駐在さんだから。加奈子さんも君のことを褒めていたよ。いつも一生懸命頑張ってくれているって」
照れ隠しに頭を搔く私に、コウさんが目を細める。
「村には知り合いの狐が知らせに行ったよ。僕の友達がもうすぐ戻ってくるから、一緒に出口まで行こう。この洞窟は四合目まで繋がっているんだ。山から出られるよ」
「えっ、本当ですか?」
思わず食いついたが、ママのことを思い出して首を横に振った。腐っても警察官。あんな幽霊たちがいる山頂に一人残していけない。
そう告げると、コウさんは呆れたようにため息をついた。
「あの姑獲鳥なら、君が崖から落ちたあと、空を飛んでいるところを烏天狗に保護されたよ。今頃は君のお仲間に引き渡されているはずさ。……君はいつも人のことばっかり。本当に、変わらないね」
変わらない? コウさんと会ったことはないはずだけど……。
その時、暗闇の奥からカサカサと何か這う音が近づいてきた。さっき言っていたお友達だろうか。コウさんの顔がパッと明るくなる。
「お疲れ、ライ。糸足りた?」
「おう。ギリギリだったけどな」
悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえる。コウさんが親しげに話しているのは、私よりも大きな蜘蛛だった。
体を包むふさふさの毛に、赤く光る八つの目。そして、左右対象に伸びる八本の足はどう見ても節足動物。種類はなんだろうと現実逃避する私に、ライさんは足を一本持ち上げてみせた。
「よう。俺は土蜘蛛のライ。毒はねぇから、安心していいぜ」
「まあ、見た目通り蜘蛛の妖怪だよ。これから僕らは、ライが出口まで張った糸を辿って洞窟を出る。距離があるから、君はライの背中に乗りな。大丈夫。潰れたりしないよ」
果たして、人生の中で蜘蛛に乗る機会が何度あるだろうか。
正直言って怖い。怖いが、ここで怯むのは失礼だ。生唾を飲み込んで、私はライさんに恐る恐る近づいた。
***
「大丈夫? 辛くない?」
「大丈夫です。思ったより快適でびっくりしてます。揺れも少ないし」
「それなら良かったぜ。普段から毛の手入れをしてる甲斐があったな」
じめじめとした洞窟の中。コウさんを先頭に、私たちは曲がりくねった道を進んでいた。少し前では狐火に照らされた糸がキラキラと光っている。
蜘蛛の毛は棘みたいに鋭いと聞いていたが、ライさんの毛は見た目通りのもふもふだった。まるで猫を撫でているような手触り……。とても蜘蛛とは思えない。
「ライさんも住民登録してないんですよね。どうしてですか?」
「俺たちは生まれが特殊でね。山から離れられねぇから、役場には行けねぇんだ」
人外の中には『縛り』があるものもいる。地縛霊なんかがそうだ。間延さんも『海から出られない』という縛りがあるから、相対的に力が強いとも言える。加奈子さんみたいに、強くて自由に動ける存在もいるけど。
「なんだ。なら、ここを出たら私が役場の人を連れて来ますよ。過疎化で常に悩んでいますからね。村人が増えるのは大歓迎です」
コウさんとライさんは少し間を置いて、こらえ切れないように噴き出した。
「こ、この状況で村人に勧誘するとか……」
「駐在さんは逞しいねえ。普通なら、こんなとこ二度と戻りたくねぇだろうに」
「まあ、確かに怖い目に遭いましたけど……。矢田先輩なら、逃げないだろうなって思うから」
塗り壁に囲まれていた時に聞いた話を思い出す。矢田先輩が自分を助けてくれた警察官を指標にしているように、私も矢田先輩を指標にしているのだ。恥ずかしくて本人には言えないけど。
「……じゃあ、なおさら早く戻らないとね。矢田くんもきっと心配しているからさ」
「どちらかというと、怒っているかもなあ……。今って、どの辺りなんですか?」
「五合目から四合目に抜ける辺りだね。もうすぐ出口が見えてくるよ」
ほっと胸を撫で下ろす。狐火があるとはいえ、洞窟内は暗くて距離が読みづらい。もしコウさんたちに拾ってもらえなかったらと思うとゾッとする。
「平坂山にこんな洞窟があるって知りませんでした。地図にも載っていませんよね?」
「――黄泉比良坂って知ってる?」
予期せぬ返しに面食らったが、素直に頷く。
黄泉比良坂は現世とあの世の境目にある場所である。逸話では亡くした奥さんを黄泉の国に迎えに行った神様が、奥さんの言いつけを破って怒らせてしまい、夫婦喧嘩の果てに逃げ出した際に通ったとされ……いや、根の国で一目惚れした奥さんと駆け落ちするために通ったんだったか。
まあ、共通するのはあの世から現世に戻る時に通る場所ということだ。
「古来より山は異界への入り口。山頂にいた亡者達もそこから湧いて出たのさ。魂が穢れすぎていて、現世では長く活動できないからね。見たでしょ? あの悍ましい姿を。あれはもう、人間とは言えない化け物なんだよ」
ごくりと喉が鳴る。つまり、ここは現世とあの世の境目だと言いたいのだろうか。じゃあ、今の私って死んでないけど生きてもない状態なんじゃ――。
「揶揄うなよ、コウ。駐在さんが本気にしちまうだろ」
「え? 嘘なんですか?」
目を瞬かせる私に、コウさんは小さく体を揺らした。
「ごめん。冗談。君が真剣に聞いてくれるから楽しくて。あの亡者達は、ただの悪霊化した地縛霊だよ。この洞窟も現世に存在している。君が見たのは地形図だよね。登山地図を見れば、ちゃんと載っていると思うよ」
「もー! 悪趣味な冗談はやめてください! 信じちゃったじゃないですか!」
天井にぶつけないよう気をつけながら、ライさんの体の上で拳を振り上げる。きっと、恥ずかしさと怒りで顔が真っ赤になっているだろう。そのおかげかどうかはわからないが、冷えていた体に熱が戻った気がした。
「ごめんって。でも、山が異界の入り口だっていうのは本当だからね。登る時は気をつけて――」
コウさんがはっと後ろを振り向いた。反響してわかりにくいが、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。強張ったコウさんの顔を見る限り、応援ではなさそうだ。
「早かったな」
「それだけ強くなっているんだ。この調子だと、案外近いかもしれないね」
「もしかして、さっきの幽霊が追いかけて来たんですか?」
コウさんは頷くと、私に「糸を辿って先に外に出て」と言った。
「そんな。私は警察官です。一人で逃げるなんて出来ませんよ」
「君よりも僕らの方が強い。応援を呼ぶのも君の仕事のうちなんじゃないの?」
「でも……!」
「我が儘言うなよ駐在さん。あんたにはあんたの役割があるんだよ」
ライさんはごねる私を無理やり地面に下ろすと、問答無用で手首に糸の端を巻きつけた。ガッチガチに固められてとても解けない。
ふよふよと浮かんでいた狐火が、急かすように私の目の前を飛ぶ。近づく足音はさらに大きくなっていた。
「いいから。さあ、行って。後ろは絶対に振り返らないでね」
どん、と背中を押されて走り出す。コウさんの言いつけ通り、後ろは振り返らなかった。
こうなったからには、一刻も早く応援を連れて戻らなければ。二人を守る力がないのが口惜しい。
浮かんでくる涙を拭いながら前に進む私の背に、コウさんの穏やかな声がかかる。
「もうすぐ、君にとって辛いことが起きるかもしれない。でも、きっと大丈夫。それまでは日常を――周りのみんなを愛してあげてね。……様をよろしく」
最後の言葉はよく聞こえなかった。前方には、ぽっかりと空いた出口。伸ばした手の向こうから、明るい光が私を照らした。
黄泉の国から逃げたのはイザナギ、根の国から逃げたのはオオクニヌシですね。
ライは毛の長いハエトリグモのイメージです。