14話 姑獲鳥の子守唄
テーマ:空のお化け
「あー……。平和だねえ、鏡子ちゃん。今日は一日、このまま過ごせるといいねえ」
駐在所前のくつろぎスペースに座り、私はだらけきった姿勢で空を見上げた。
一昨日の豪雨が嘘のように、雲一つない快晴だ。海から吹く風が私の髪を揺らしていく。
机の上には木箱に入った照魔鏡。矢田先輩が渋ったので、鏡子という名前は私がつけた。鏡に性別はないけど、可愛い名前にしたかったから。
鏡子ちゃんは私が作った鏡カバーに包まれ、ご機嫌で日光を浴びている。
まだ育て始めて三日目だが、少しずつ母性が芽生えてきた。一ヶ月後には手放さなくてはいけないと思うと胸が痛む。
「休みだからってだらけやがって。そんなんで事件入ったらどうすんだよ」
神社の掃除を終えた矢田先輩が箒とちりとりを手に戻ってくる。
今日も上下ジャージだ。体格がいいのだから、小野警視監みたいにお洒落をすれば映えると思うのに。同じく上下ジャージの私が言えたことではないが。
「いいじゃないですかあ。昨日だって、お休みなのに働いたんですよ。最近、事件続きなんですから不吉なこと言わないでください。村外から来る人も急に増えましたよね。いつもは閑古鳥が鳴いているのに」
「行楽シーズンだからだろ。それより、そろそろ一時間経つぞ。カラスに持っていかれる前に照魔鏡しまっとけよ」
「鏡子ちゃんって言ってくださいよ。冷たいパパだよねえ?」
「誰がパパだ。俺は子持ちになった覚えはねぇぞ」
じゃあ、結婚した覚えは? と言いかけてやめた。あまりにもプライベートな事柄すぎる。それに、「なんでそんなこと聞くんだ」と返されたらどう答えればいいのか。黙って神社に入ったことがバレてしまう。
矢田先輩はあの白い幽霊を見ても動揺していなかった。亡くなった奥さんかもしれないというのは、ただの私の思い込みなのか。それとも巧妙に隠しているのか。
どちらにせよ、断定するには証拠が足りない。聞くならもっとさりげなく聞かなければ。うなれ、私の警官魂。
「そ、そうですよねえ。先輩、結婚もまだですもんね!」
やばい。声がひっくり返った。矢田先輩は訝しげに眉を寄せたが、小さくため息をつくと、私の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「ぎゃあ、何すんですか! セクハラですよ!」
「うるせぇな! いいから、とっととしまえ。昼飯抜きにすんぞ」
それは困る。今日の料理当番は矢田先輩だ。渋々了承して木箱の蓋を手に取った瞬間、机の上に影が落ちた。大きな鳥のような影が。
「風見!」
両肩に衝撃が走り、矢田先輩の姿がみるみる小さくなっていく。机の上では、一つ目を大きく見開いた鏡子ちゃんが叫ぶようにカタカタ揺れていた。
耳元でひゅうひゅうと鳴る音がうるさい。ジャージも風に煽られて激しく波打っている。地面は一体どこにいったのか。狭まった視界の先には、スニーカーを履いた両足しか見えない。
ひょっとして、空を飛んでる?
恐る恐る頭上を見る。そこには私二人分ぐらいの大きさの翼を広げる鳥がいた。さっきの衝撃は鉤爪に捕えられたからだ。明らかに人外だが、攫われる覚えは全くない。
「ちょっと、どちら様ですか! 離し……」
いや、離されたら地面に落ちて死んでしまう。どうすればいいか必死に考えを巡らせているうちに、空を飛ぶスピードがさらに上がり、息ができなくなってきた。
目が涙で滲み、後ろに流れていく雲が大きく揺らぐ。巨大鳥が悲鳴みたいな鳴き声を上げるのを聞きながら、私の意識はふっと途切れた。
それから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。
目覚めると、そこは見慣れぬ小屋の中だった。傾斜がついた木の屋根に、崩れた石壁。床にはゴザが敷き詰められているものの、ひどく古びていて、ところどころ腐っているようだった。
いつから放棄されているのか、天井の穴から注ぐ日差しで、空中に舞う埃がキラキラと光っている。
周囲に散らばっている羽根はおそらく巨大鳥のものだ。まさか、矢田先輩の忠告が本当になるとは。持っていかれたのは鏡子ちゃんじゃなくて私だけど。
「誘拐事件じゃん……。今頃、特捜本部立ってるかも……」
ぼんやりする頭を振りながら体を起こす。同時に、建てつけの悪そうな小屋の引き戸が開いた。冷たい風が忍び寄り、思わず体を震わせる。
どれだけの距離を飛んだのかわからないが、日が落ちていないので村からそう離れてはいないだろう。もしかしたら山にいるのかもしれない。山頂は下界に比べて十度以上気温が低いから。
「美鳥ちゃん!」
ボロボロの籠を抱えて中に駆け込んできたのは、生成色のブラウスと赤いスカートを身につけた女性だった。
充血して真っ赤な目の下には、はっきりと濃いクマが浮いている。あまり手入れをしていないのか、ショーカットの黒髪はボサボサになっていた。この状況を鑑みるに、女性は姑獲鳥なのだろう。
姑獲鳥はお産で亡くなった女性が妖怪化したもので、羽毛を脱ぐと人間の姿になる。つまり、この女性は共に亡くなった赤ちゃんと私を混同しているのだ。
人は見たいものしか見えない。彼女の目には私が赤ちゃんに見えているのかもしれない。もしくは、赤ちゃんが成長した姿を夢見ていたか。
事情はわかるが、このままではまずい。百年前ならともかく、今は人外も法律に則って裁かれる。せめて罪が軽くなるように、大人しく出頭してもらわなければ。
「お母さん、落ち着いてください。私は美鳥ちゃんではありません。はとりです。平坂村駐在所の警察官です。あなたはどちら様で、どこから来られましたか? ご家族はおられますか?」
「美鳥ちゃん! ああ、よかった! もうママのそばを離れないでね!」
駄目だ。記憶の混乱が著しい。落ち着くまでは話を聞いてもらえなさそうだ。下手に否定すると逆上する可能性がある。
丸腰の状態で興奮した人外を抑えられる自信はない。運悪くスマホもくつろぎスペースの机の上に置きっぱなしだった。二人とも無事に帰るには、機を見て助けを呼ぶしかない。
「わかったよ、ママ。黙っていなくなってごめんね」
そう応えると、女性――ママは目を細めて笑った。「ご飯にしましょうね」と優しく囁き、壊れ物を扱うような手つきで頭を撫でてくれる。
まるで本当のママみたい。
けれど、思い出したのは実家の母親ではなく、矢田先輩の大きな手のひらだった。
***
天井の穴から夕日が差し込む中、優しく響く子守唄が途切れる。
そのあとに聞こえてきたのは安らかな寝息だ。こけた頬にかかる髪の毛を払い、ママを起こさないようにゆっくりと体を起こす。
さっきまで私を抱きしめていた腕は折れそうなほど細い。どれだけの悲しみと絶望がこの人を襲ったのだろう。もし家族がいるのなら、きっと心配しているはずだ。
「……すぐに戻るからね、ママ」
息を殺し、慎重に引き戸に近づく。
薄汚れた土間には雑草が入った籠が残されていた。ママのご飯だ。必死に食べるふりをした私の姿はアカデミー賞ものだっただろう。
小屋を出ると、氷のような冷たさが肌を指した。はあ、と吐く息が白い。
周りには木々がなく、大きく抉れた地面と岩だけの光景が広がっていた。予想通り、ここは山のようだ。背後の小屋は緊急避難用の山小屋なのだろう。
右手には急勾配の坂が続いている。目を凝らすと、山頂に木造りの何かがあるのがわかった。
人外と交流できるようになったおかげで、人間がなかなか行けない場所にも手が入れられるようになり、今では至る所に緊急用の装備ボックスが備えられている。中には衛星電話や発煙筒があるはずだ。あれがそうだといいのだが。
「違っても、せめてどの山かわかれば……」
根性を入れて坂道を上る。かなり標高が高そうだが、幸いにも高山病の気配はない。途中、崩れた土砂で何度か足を滑らせそうになりつつも、なんとか山頂に辿り着く。
残念ながら、木造りの何かは焼け落ちた祠だった。
雷でも落ちたのだろうか。真っ黒に焦げた小さな三角屋根は大部分が大破し、格子状の扉は外れてしまっていた。中には何もない。ただ白い布の切れ端が落ちているだけだ。
「……もしかして、平坂山の山頂の祠かな?」
土砂崩れで無くなったと聞いていたが、一部残っていたのか。
祠の裏手は断崖絶壁。落ちないように気をつけて下を覗くと、仁来海まで続く川と見慣れた村の風景が見えた。直線上に平坂神社の鳥居らしきものがあるので、やはり平坂山で間違いなさそうだ。
「うわ……。もしママを説得できたとしても、土砂崩れで道が塞がってるから下山できないじゃん。ヘリか天狗に来てもらわないと……」
問題はどうやって知らせるかだ。光を反射させるものか、火を起こすものを探さないと。
「小屋の中に何かあるかなあ。日が落ち切る前になんとかしなきゃ……」
踵を返したと同時に、地面に落ちていた木切れで足を滑らせて尻餅をつく。危ない。危なすぎる。ここに矢田先輩がいたらめちゃくちゃ怒られているだろう。
うるさく鳴る鼓動を抑えつつ、木切れを拾う。随分と古いものだ。掠れた筆文字で『……マガツコ……ミコト……荒御魂……ここに…』と書かれている。
「マガツ……?」
どこかで見た気がする。他にもないかと地面に視線を巡らせた刹那、背後に嫌な気配を感じて体ごと振り返った。
坂の下、血のように赤い夕日が照らす地面の上に、黒い何かがいくつも蠢いている。影? いや、それにしては動きが……。
「ひっ……」
思わず喉の奥から悲鳴が漏れる。徐々に坂を上って近づいてくるそれは、四肢をもがれた人間の幽霊だった。
頭には丁髷、体には血に塗れた着物。ここからでは何を言っているのかわからないが、しきりに唇を動かしている。
今まで数々の怪異に遭遇してきたが、ここまで悍ましいものに出会ったことはない。白い幽霊に対峙した時以上の恐怖が、私の全身を満たしていた。
「美鳥ちゃん!」
私がいないと気づいたらしい。小屋から飛び出したママが一直線にこちらに向かってくる。
たとえ妖怪化したとはいえ、姑獲鳥には鬼や天狗みたいな力はないだろう。ご家族の元にお帰しする前に怪我をさせるわけにはいかない。
「来ちゃダメ! 小屋に戻っ……」
足が震えているのに勢いよく立ち上がったせいか、大きくバランスを崩し、崖下に身を踊らせる。
伸ばした手の向こうには崩れた祠と真っ赤な夕日。
耳元で吹き荒ぶ風音の中、ママの悲鳴が聞こえた。