11話 山を彷徨うもの
テーマ:山のお化け
山の救助活動には多くの人手がいる。
警察、消防、山岳救助隊、ボランティア……。他にも、車両や警察犬を駆使して遭難者の捜索に当たらなくてはならない。いつも静かな大井山の麓は、詰めかけた救助隊員たちでごった返していた。
遭難したのは山を越えた先の漁村に住む化けカワウソの子供たち。子供ならではの無謀さと好奇心で小学校を抜け出し、普段大人たちから立ち入りを禁止されている大井山に足を踏み入れたそうだ。
たまたま同級生が冒険の計画を耳にしていたから良かったものの、誰も知らないままだったらどうなっていたかと考えるだけで怖い。
何台も並んだパトカーの近くでは、子供たちの親御さんや先生たちが真っ青な顔で私たちを見守っていた。
「これから大井山にて遭難者の救助を行う! 装備に不備はないかもう一度確認しろ。二次被害は絶対に起こすなよ。そんなことになったらお前ら……覚悟しとけよ」
パワハラギリギリの救助隊長の言葉に、その場にいた全員がごくりと唾を飲んだ。
みんな所属によって色とりどりの装備を身につけている。大井山は平坂山よりも標高は低いとはいえ、急勾配で危険度は高い。私と矢田先輩も、出動服の上から鮮やかなオレンジ色のレインジャケットと白いヘルメットを被っていた。
「遭難者は人外とはいえ子供だ。日暮れまでに必ず見つけるぞ! 総員、始め!」
隊長の号令の元、私と矢田先輩は鬱蒼とした山の中に分け入った。
「歩いても歩いても似たような景色……。海の妖怪で子供。その上、地元民でもなければ、余計に方向感覚が狂うでしょうね」
「俺たちも例外じゃねぇからな。絶対に離れんなよ。万が一逸れたら、動き回らずにじっとしてろ。神隠しに遭うぞ」
洒落にならない。空では天狗、地上では犬系の人外隊員たちが目を光らせているものの、ここは管理を放棄された山だ。いつ何が起きてもおかしくはない。
元々は加奈子さんとタメを張るほど力の強い妖狐がいたのだが、平坂山で土砂崩れが起きてすぐに村を出て行ってしまったらしい。私はその時、頭を打って駐在所で眠りこけていたので、詳しいことはわからない。
「おやあ、お巡りさんたち。今日は賑やかだねえ」
ねっとりとした口調で前方の藪から現れたのは、この山に住む鎌鼬だった。
身長は私よりもやや低いぐらい。茶色の体毛の上から青いツナギを着て、可愛い丸耳にじゃらじゃらとピアスをつけている。
手には使い込まれた木の棍棒。後ろには子分を二人従え、何が楽しいのかニヤニヤと笑みを浮かべていた。
鎌鼬は三位一体の妖怪だ。一人目が対象を転ばせ、二人目が鎌で切りつけ、三人目が薬を塗って逃げていく。
薬を塗れば傷はすぐ完治するとはいえ、立派な傷害事件である。加えて彼らは薬を塗る代わりにお金を要求したり、物を掠め取っていく悪辣さも持ち合わせていた。
つまり、この山に住む不良人外の一角である。自然と肩が強張る私を庇うように、隣にいた矢田先輩が一歩前に出る。
「楽しそうだな、薊。悪いが今日は相手をする暇はねぇんだよ。お家に帰って大人しくしてな」
「つれないねぇ。何度も夜通し山の中を走り回った仲じゃねぇの。嫁を連れてるからってイキがんなよ」
嫁じゃない。でも、抗議できる雰囲気ではない。鎌鼬は手にした棍棒を私たちに向けると、低い声で笑った。
「忠告だよ、お巡りさん。雨が降る前に山から出な。食われたくなければな」
「雨……?」
空は雲ひとつない快晴だ。天気予報もずっと晴れの予報だった。雨が降るとは思えない。
鎌鼬は戸惑う私を一瞥すると、一瞬だけ悲しそうな顔をして藪の中に戻って行った。そのあとに子分たちも続く。
いきなり不穏な気配を押しつけられてしまった。周囲で子供たちを探す救助隊員の声を聞きながら首を傾げる。
「なんだったんでしょう、今の。やけに思わせぶりでしたけど」
「知らねぇ。いつもの意趣返しだろ。とはいえ、注意するに越したことはねぇからな。気を引き締めていくぞ」
いつも泰然としている声は、心なしか硬い気がした。
***
「圭太くーん。由美子ちゃーん。渚くーん」
遭難した子供たちの名前を呼ぶ。返事はない。周囲に視線を走らせながら歩を進める。
山に入ってからどれぐらい時間が経っただろう。見つかったという連絡はまだ入らない。
救助隊員たちの顔にも焦燥感が浮かんでいる。まもなく十七時。そろそろ夜の帳が降りてくる頃だ。
もし、このまま見つからなかったら……。いや、考えるのはよそう。最後まで希望を捨ててはいけない。
「おい、矢田。お前まだ体力あるよな。捜索範囲を広げるから一緒に来てくれないか」
応援で来ていた本署の警察官に呼ばれ、矢田先輩が私をちらりと見る。離れていいものか迷っているのだ。私とて警察官なのに。変なところで心配性である。
「行ってください。私なら大丈夫です。これだけ人もいるし」
「でもな……」
「俺が一緒にいますよ!」
こちらに駆けてきたのは、もふもふの毛皮の上から出動服を着た犬のお巡りさん――同期の犬上拓真だった。
全身を覆う真っ白な毛並みが、緑に慣れた目には眩しい。
犬上くんはビシッと矢田先輩に敬礼すると、「昨日はありがとうございました!」と元気よく挨拶した。
「犬上くんも来てたんだ」
「そりゃあね。俺、送り犬だからさ。この山の出身だし」
送り犬は夜に山を歩くと、後ろをぴったりとついてくる妖怪である。途中で転ぶと食い殺されるというが、そんな凶暴性は彼にはない。
犬上くんは警察学校を卒業後、交番勤務を経て本署の刑事課に配属になった。山から下りて久しいとはいえ、知識も経験も並の警察官よりはある。救助隊員として満場一致で送り出されたのだろう。
矢田先輩は犬上くんをじっと見つめていたが、やがて「頼むぞ」と一言だけ口にして本署の警察官の元へ走って行った。
「ああ、緊張した。相変わらず迫力あるなあ。さすが、この村の駐在所に長く勤めているだけあるよ」
「そんなに怖い? 確かに目つきも口も悪いけど、いい人だよ。面倒見いいし」
「そりゃ、風見はね。俺は何年経っても慣れないなあ。何しろ、俺が新人の時からの……」
そこではっと息を飲み、「まだ新人だったな」と耳を掻く。
まあ、気持ちはわかる。いくつか事件を解決すると、一端の警察官になったつもりになるものだ。
忙しすぎて日々があっという間に過ぎていくから、時間の感覚も怪しくなる。人間の私でさえ、髪の毛が伸びたのも気づかないぐらいだ。妖怪の犬上くんは余計にだろう。
「じゃあ、俺たちは違う場所を探そうか。送り犬としての勘だけど、いるのはたぶん、もっと奥だよ。尾白様が住んでいたお屋敷の近くに池があるんだ。海の妖怪なら水を恋しがるだろうし、上司にも『見てこい』って言われてて」
「わかった。足手まといにならないように頑張るね」
犬上くんを先頭にして、深い藪の中を泳ぐように進む。
彼が言う尾白とは、この山を管理していた妖狐の名前だ。いなくなった今も、ここに住む人外たちに敬われている。
「うわ……。すごい草の高さだね。私の身長ぐらいありそう」
「風見は小柄だもんなあ。俺の尻尾を目印について来たらいいよ。でも、掴まないでね。デリケートなところだから」
目の前には魅惑的にふりふりと揺れる尻尾。掴むなと言われると掴みたくなるが、セクハラで訴えられると困るので我慢する。
それから延々と歩き続けて三十分。
濃厚な草の匂いに酔いそうになった頃、犬上くんの大きな体の向こうに立派な日本家屋が見えた。あれが尾白さんのお屋敷だろう。
「池はお屋敷の裏手にあるよ。あと五分くらいだね」
「子供たちいるといいね」
お屋敷の裏手には、お寺みたいな庭園が広がっていた。尾白さんは随分と風流な人外だったらしい。
池は庭の一番奥。予想よりも大きく、腕を広げた大人が三人並べるぐらいの幅があった。ほとりには秋咲きの椿が咲き乱れている。その茂みの一つから、小さな尻尾が飛び出していた。
「そこにいるのは韮崎小学校の子たちかな? 圭太くんと由美子ちゃんと渚くん?」
驚かさないように気をつけながら茂みを覗く。そこには抱き合ってぶるぶると震えるカワウソの子供たちがいた。
子供たちは私と目が合った途端に、つぶらな黒い瞳から真珠のような大粒の涙をこぼし、わんわんと声を上げて胸の中に飛び込んできた。
「もう大丈夫だよ。すぐにお家に帰れるからね。――犬上くん、本部に連絡……」
いない。どれだけ辺りを見渡しても見つからない。人を呼びに行ったのだろうか? それなら、一言あっても良さそうなのに。
「犬上くん?」
さっきよりも大きな声で呼ぶ。返答はない。
取り出したスマホは圏外になっている。無線機もうんともすんとも言わない。外部と連絡が取れなくなった事実に、否応なく心臓が跳ねる。
スマホの黒い画面の中。困惑の表情を浮かべた私の顔の上に、ぽつり、と雫が落ちた。
雨だ。舌打ちする間もなく、バケツをひっくり返したような豪雨が池の水面を叩き始める。
轟く雷鳴に、きゃあ、と悲鳴を上げる子供たち。たとえ海の妖怪だとしても、このままだと風邪を引いてしまうだろう。何より下山できない。
「みんな、よく聞いて。少し戻ったところに大きなお家があるから、とりあえずそこで雨宿りしよう。もうちょっと頑張れるかな?」
こくこくと頷くカワウソたちを抱いて、来た道を戻ろうと足を踏み出す。しかし、次の瞬間、金縛りにあったように体が動かなくなった。
――いる。
ここにいてはいけないものが、ゆっくりと近づいてくる。
「……ヨ……アナタ……ハ……ヨ……」
金属を擦り合わせたような声。ズキズキと痛む頭。さっきの鎌鼬の言葉がひどいノイズとなって再生される。
『雨が降る前に山から出な。――食われたくなければな』
食われる。何に? 何を?
「アナ……タ……ゴハン、ヨ……ア……ナタ……」
ずるり、ずるりと何かを引きずる音。
まともに形を成していない体。
豪雨に濡れる白無垢。
落ち窪んだ眼窩。
「ゴハンヨ」
現れたのは、陽治さんの家で見たあの白い幽霊だった。
「っ!」
子供たちを地面に下ろし、背後に隠して警棒を抜く。白い幽霊は何かを探すように顔の闇を振りながら、同じ言葉を繰り返している。
アナタ……。旦那様を探しているのだろうか? 陽治さんが言うには意思の疎通ができないタイプらしいが、ダメ元で声を張り上げる。
「そこのあなた、止まりなさい! ここは私有地よ! すぐ敷地の外に……」
続きは言えなかった。
一体いつの間に近づいて来たのか。白い幽霊は今にも口づけしそうな距離で私を見つめると、顔の闇を蠢かせてニイッと笑った。
「マサ、オミサン」
――矢田先輩?
薄汚れた白無垢の袖から闇が伸びてくる。直感で手だと悟り、後ろに退こうとしたが、足元で震える子供たちを見て、すんでのところで踏み止まった。
さすがに全員抱えては走れない。咄嗟に子供たちを体の下に引き込んで地面に伏せる。
背中にヒヤリとした感触が走る。刹那、激しい旋風が巻き起こり、池の周りの椿が巻き上げられてくるくると宙に舞った。
その中心にいるのは、青いツナギを着て巧みに棍棒を振り回す鎌鼬だ。白い幽霊は鎌鼬の猛攻に押されているようだった。
「薊さん!」
「あんたは本当に無茶すんなあ。雨が降る前に山を出ろって言っただろ」
薊さんは私と白い幽霊の間に着地すると、牽制するように棍棒を前に突きつけた。
「安心しな。すぐに旦那がやってくるぜ」
薊さんが言い終わるや否や、「はとり!」と叫ぶ矢田先輩の声がして、屋敷の方から木々を掻き分けてこちらに駆けてくる足音が聞こえた。
一人じゃない。複数だ。ほっと息を漏らす。
「警察だ! その場から動くな!」
雷鳴にも負けない大声を張り上げ、銃を構えた矢田先輩が白い幽霊を見据える。周りの警察官や人外たちも同様に、各々の武器を白い幽霊に向けていた。
一触即発の空気がその場を支配する。
白い幽霊はのろのろと矢田先輩を振り返ると、顔の闇を蠢かせて囁くように言った。
「マサオミ、サン……」
蝋燭の炎を吹き消すように闇が消える。気づけば、あれだけ激しかった雨はすっかり止んでいた。
残ったのは、雨に濡れて冷え切った体だけだった。