香草、秋桜、カジキの妖精
「お嬢様、そう泣かないでくださいまし」
固い小さな手が、私の頬をそっと包みます。それでも、あふれ落ちる涙は止まりませんでした。
夏の熱気が、夜になっても厨房を包んでいます。触れてもらったところに、薄い汗が滲んでいました。
「だって……あと一週間なのよ」
すぐ前にあるはずのくりくりした青い目も、縮れた茶色の髪も、そばかすだらけの顔も、涙で霞んで見えません。
「嫌よ。嫌よ……あの方、お父様と一つしか違わないんでしょう。そんな方と夫婦になんて、ぜったいに嫌」
考えるたび、身体の奥に怖気がわきあがります。
山深い地モンターニュの領主、レイモン・バスチアン・ド・ジェルボー辺境伯――名しか知らない遠い国の、顔も知らない御方。御年は三十八、私の倍以上。
弁えています。エストゥアーリョを統べる伯爵家の娘として、家名を背負う責は。けれどいざその日が近づき、「妻としてなすべきこと」を教えられれば――震えが止まらないのです。
「何年も前から、決まっていたことじゃありませんか。アマーリアお嬢様」
もう一方の小さな手が、ぽんぽんと肩を叩きます。
「レイモン様はお優しい方だって話ですよ。臣下にも領民にも評判が良いし、前の奥方とも円満だったと聞いてます。お嬢様は大船に乗ったつもりで――」
「そんなんじゃない!」
頬の手を振り払い、叫びます。
なにもわかってない。何が嫌なのか、全然わかってない。
「もう食べられないのよ……カジキの香草焼きも、海老のフリットも」
「山の中にもおいしいものはありますよ、お嬢様」
「違うのよ!」
肩の手も払いのけ、私は目の前の娘――ルーチェの両肩を揺すりました。
「あなたのじゃなきゃ嫌なの。あなたの作るカルパッチョじゃなきゃ、あなたのスープじゃなきゃ」
「ですからお嬢様――」
私は強引に、彼女を抱き寄せました。
そうして唇を、私の唇で強引に塞ぎました。
ああ。
これまで何度、厨房での逢瀬を重ねてきたでしょう。
彼女は私が好む料理を作り、私は密かな愛を伝える。至福の時間でした。ことに彼女が焼くカジキの香草焼きは、バジルやオレガノの配合が絶妙で、かすかに青臭い芳香と魚の脂がとろけるように美味しいのです。夏から秋にかけて、彼女の焼くカジキは、まさしく天上の美味なのです……この、くちづけのように。
「わかったでしょう」
ゆっくり唇を離しつつ、私は潜めた声で言いました。
「あなたじゃない人と、こんなことしたくない」
ルーチェは、油とソースの染みたエプロンを片手で握りつつ、悲しそうに頭を振りました。
「だめですよ……お嬢様」
「何がだめなの」
「ほんとはあたしら、こんなことしちゃいけねえです。アマーリアさまはお嬢様で、あたしはただの料理人で……お嬢様もあたしも女で――」
「じゃあ、ルーチェは」
私は、うつむいた彼女をきつく抱きしめました。
「平気なの? 私が、あなたじゃない誰かと、こんなことをして」
「そ……それは」
ルーチェの声に、わずかに震えが混じります。
「そんなこと、あたしが考えちゃいけねえです」
「考えてよ」
冷たく、言い放ちます。
「考えてみて。私があなたじゃない誰かに、抱き締められたりキスされたり……それより先のこと、されてるところ。ルーチェは平気なの。嫌じゃないの」
ルーチェはしばらく黙り込みました。小さな肩が、力なくうなだれています。
何度か肩を揺すってやると、ようやく彼女は口を開きました。
「嫌じゃないはず、ねえですよ」
震える声で、ルーチェは言いました。
「でもどうしようもねえです。ずっと前から決まってたことです。いやもっと前、お嬢様とあたしが、お嬢様とあたしに生まれたときから、決まってたことです」
「決まってたことだから、どうしようもない。そう言いたいのね」
「だったら、あたしはどうすればいいってんですか!」
突然の大声に、びくりと身が震えます。
今度はルーチェが、二本の腕を私の背に回しました。固い指が、毎日私のために料理を作ってくれた掌が、薄いネグリジェ越しに感じられました。
「考えたって、なんも変わらねえです。どうしようもねえこと、考えたって……どうしようも、ねえじゃ、ねえですか!」
私の胸に顔をうずめ、わんわんと声を上げてルーチェは泣きました。
私も、泣きました。
蒸し暑い調理場の中、染みついた油と香草の匂いに包まれながら、私たちはいつまでも、泣く力が果てるまで泣いていました。
泣き疲れ、私たちは調理場の床にぐったりと屈み込んでいました。と、ルーチェがゆっくりと顔を上げました。
「アマーリアお嬢様」
涙でぐちゃぐちゃになった顔が、なぜか晴れやかに笑っていました。
「あたし、いいこと考えたですよ。一週間のうちに、用意しておくですよ」
「何を?」
「向こうでお嬢様が寂しくないように、プレゼントを考えたですよ。旅立たれるまでには用意しとくです。だから」
ルーチェは自分の袖で、私の頬を拭ってくれました。ごわごわした麻の感触が、涙を吸っていきます。
「お嬢様は笑っててくだせえ。泣いてばかりじゃ、綺麗なお顔が台無しですんで!」
いつもの青い目と縮れた茶の髪が、目の前できらきらと笑いました。
一ヶ月後。ジェルボー辺境伯の城で、私は常のように溜息をついていました。
辺境伯が統べるモンターニュの地で、婚礼は盛大に執り行われました。一面にステンドグラスが輝く豪奢な教会で、私と辺境伯は永遠の愛を誓い、キスを交わしました。
けれど、その先……ほんとうの「夫婦」には、私たちはまだなっていません。
最初の夜、白絹の天蓋がついた大きなベッドを前に、私は取り乱してしまいました。はじめは立ち尽くして涙を流すだけでしたが、辺境伯に肩を触られたとたん、泣き叫んでしまいました。うずくまり頭を振り、差し出された手を叩き――離縁されてもおかしくないほどに。
それでも、辺境伯は優しく笑いかけてくださいました。怖いなら無理強いはしない、いつまででも待っていますよと。
以後も何度か、私は辺境伯の寝所を訪れました。けれどいつも、ベッドを前にすると怖くなってしまうのです。
そのたび、辺境伯はやさしい言葉をかけてくださいました。けれど、限界は近いだろうとも思いました。
モンターニュの九月はエストゥアーリョよりずっと涼しく、夜に暑気はありません。快適なはずの気候さえ、ルーチェとのむせ返るような抱擁の記憶を奪っていくようで、寂しくなります。
目の前の化粧台に、小箱が置いてあります。私が輿入れに旅立つ前日、ルーチェが贈ってくれました。山暮らしに耐えられなくなったら、エストゥアーリョの地が恋しくなったら、開けるよう言って。
ならば、今がその時でしょう。
私は小箱を開けました。中には粉が詰まった小瓶と、一通の手紙が入っていました。
『アマーリアお嬢様へ
そちらでの暮らしはいかがですか。これを開けておられるのでしたら、きっと辛いことがおありなのでしょう。
お嬢様がもし、我慢できないくらい辛くなったら、一緒に入れた香草の瓶を開けてください。
お嬢様の大好きな、カジキの香草焼きに使う配合です。
そちらの料理にたっぷりかけてお召し上がりください。
先方の料理人には失礼にあたるでしょうから、必ずご自分お一人だけで、こっそり食べてください。――』
言葉遣いが話し言葉と違うせいで、奇妙な気持ちになります。あの子は読み書きができませんから、料理長あたりに代筆を頼んだのでしょう。
瓶を開けてみました。
バジルとオレガノが混ざった、爽やかで少し青臭い香りが立ち上りました。ルーチェの香草焼きの匂いと同じでした。香ばしい魚油の香りはありませんでしたが、それでも、白磁の皿に乗った香ばしいカジキ肉の姿は、くっきり瞼の裏に浮かんできました。いつも添えてあったルッコラとポルチーニのサラダまでもが、色鮮やかに現れてくるようです。
涙があふれてきたのは、香草の香りが沁みたからではないと思います。
(ありがとう。ルーチェ)
この香草は少しずつ使おう、エストゥアーリョを長く思い出せるように――と思いつつ、続きを読みました。
『――お召し上がりの際には、必ず一瓶を一度に使ってください。少しずつ長く使おうとは思わないでください。
そしてお召し上がりの前に、エストゥアーリョの厨房に一言お手紙を書いてください。
そうしたら、私もこのエストゥアーリョで、同じ配合の香草焼きを食べます。
お嬢様がお手紙をくださることが、ないことを祈っています。
ですが辛くなったら、どうぞ遠慮しないでくださいませ。
エストゥアーリョの厨房より』
不思議な内容でした。
瓶は小さな香水入れほどの大きさで、調味料としては結構な量があります。一度にかければ相当に濃い味になってしまいそうです。けれど、なにか意図はあるのでしょう。
明日の夕食を一皿持ち帰って、この瓶の中身を使ってみようと決めました。
懐かしいエストゥアーリョ。愛おしいルーチェ。
あの地で、ルーチェも同じ香りを口にしてくれる。
私はエストゥアーリョの伯爵家厨房へ向けて、これから瓶を開ける旨の手紙をしたためました。そして次の日の朝、都市間飛脚に託しました。
一ヶ月後、私は病を得ていました。身体が重く、頭痛と微熱がずっと続いていました。何人ものお医者様が呼ばれ、色々なお薬を処方されましたが、病状は日を追って悪くなる一方でした。
辺境伯は、はじめのうちこそ毎日のように見舞にいらしていましたが、一週間ほど経つとそれも途絶えました。今、私の寝所に出入りするのは、給仕の侍女と時折見えられるお医者様だけになっていました。
侍女が、今日も鶏肉のスープと麦粥を持ってきます。彼女が出ていくのを見届けて、私はルーチェの瓶を開け、中身を両方の皿に振りかけました。……手紙にはああ書かれていましたが、エストゥアーリョの香りを全部一度に使ってしまうなんて、どうしても私にはできませんでした。
寝てばかりの毎日、この香りだけが慰めでした。エストゥアーリョの潮の香り、海の幸、なによりルーチェの笑顔――浮かんでは消えていきます。
(ルーチェの顔、また見たかったな……)
スープと粥を食べ終えれば、エストゥアーリョの香りも口中から消えていきます。
今は十月。この地はもうすぐ雪に閉ざされるといいます。寒い中、私は凍えながら果てるのでしょうか。暗い気持ちを眠りで紛らそうと、私は横になりました。
「……さま」
枕元で誰かの声がします。
とても、なつかしい声に思えます。
「アマーリアお嬢様。まだ、おやすみですかねえ」
声がはっきり聞こえ、私は飛び起き……ようとしました。実際には身体が動かず、ただ目を開けて首を動かしただけでしたが。
それでも月明かりに浮かぶ姿は、ぼんやりと見えました。
「……ルーチェ!?」
あわてて枕元のランプを点ければ、懐かしい顔が照らし出されました。
大きな青い目、縮れた茶色の髪、そばかすだらけの顔……見間違えようもない、ルーチェ。
「あなた、どうしてここに――」
「来ちゃいました、お嬢様」
彼女は、輝くばかりの笑顔で言いました。
「お嬢様があの瓶を開けられた、って料理長から聞かされて、あたしも香草焼き食べたですよ。残りもののカジキに、お嬢様に渡した瓶と同じの、たっぷりかけて一息に」
「ルーチェ……」
不意に、ルーチェの表情が曇りました。
「でもお嬢様、あたしの言う通りにしてくださらなかったですね? 香草の瓶、まだ半分も残ってるじゃないですか」
「え?」
あわててベッドサイドを見ましたが、香草の瓶は出ていません。いつもどおり、サイドテーブルの鍵のかかる引き出しにしまったままです。
そういえば、ルーチェはどうやってここへ来たのでしょう。エストゥアーリョからモンターニュまでは、馬でも十何日もかかります。仮にモンターニュまで来られたとして、城には少なからぬ警備兵がいます。どこから入ってきたのでしょうか。
「ルーチェ。あなた――」
言いかけて、息が止まりました。
伸ばした手が、空を切ったのです。ルーチェの肩に置こうとした掌が、背まで突き出てしまいました。
「あたし、食べたですよ。お嬢様に差し上げたのと、まちがいなく同じ香草を」
ルーチェは少し悲しそうに言いました。
「あたしあのとき、一生懸命考えたですよ。お嬢様を助けてあげられる方法、何かないのかって」
薄い笑い。けれど目が笑っていません。
「でもあたしには、なんにもできねえです。お嬢様が知らない人の所へ嫁ぐのも、遠い国で辛い思いするのも、どうにもできねえです。あたしにできるのは料理を作ることだけ、お嬢様のお口に美味しいものを入れてさしあげることだけ……そこで、思ったですよ」
ルーチェは目尻を下げました。鋭かった目が少し和らぎました。
「口に入れるものなら、用意してさしあげられるんじゃねえかって」
ルーチェはちらりとサイドテーブルを見ました。引き出しの中の香草瓶を、にらみつけているようにも見えました。
「すみませんお嬢様、手紙にはひとつだけ嘘書きましたです。あれ、香草焼きのハーブとそっくり同じじゃねえです……一種類お薬が足してあるです。ちゃんと間違いなく一瓶飲めば――」
「そう……なのね。ルーチェ」
驚きはしました。背筋が寒くもなりました。
けれど私はまったく、ルーチェを責める気にはなりませんでした。
私も、心のどこかで、そうしたいと確かに思っていましたから。
「私を……楽にしてくれようとしたのね。遠い国で、辛いことから逃げられずにいる私を……そうでしょう、ルーチェ」
ルーチェは小さく頷きました。
「一緒に、逝きたかったですよ」
かぼそい、声でした。
「あたしとお嬢様、どうやったってこの世じゃ一緒になれねえです。だったらせめて、この世じゃねえところならって……思ったですけど、ね」
そこで急に、ルーチェは目を細めて笑いました。くるくるとよく変わる表情は、エストゥアーリョにいたときとすっかり同じでした。
「でも、結果よければすべてよしです! 生きてるまんまなら、ここに来ることなんて夢のまた夢だったですよ。こうしてまたお嬢様の顔を見られて、ルーチェは幸せです」
「……ルーチェ……ルーチェ!!」
私はようやく、事態を本当の意味で理解し始めました。
ルーチェはもういないのです。エストゥアーリョにも、そしてここモンターニュにも……この世のどこにも。
「なんてことをしてしまったの、ルーチェ……あなたはエストゥアーリョで、ずっとお父様やお母様に美味しいお料理を作っているのだと……思っていたのに」
「お嬢様のいねえエストゥアーリョに、未練なんてねえです」
あくまで明るく、ルーチェは笑いました。
「でもひとつだけ心残りがあるです……あたしじゃ結局、お嬢様を楽にしてさしあげられねえです。今のあたしじゃ、お嬢様を抱きしめることも、キスすることもできねえです」
「私も、すぐそちらへ行くわ」
引き出しの鍵を開け、香草の瓶を取り出しました。半分だけの中身が、ランプの光に鈍く輝きました。
「だめですよお嬢様。それじゃたぶん死にきれねえです。お身体を悪くされて、余計に苦しむだけですよ」
「ならどうすればいいの!」
叫んで、毛布の上に突っ伏しました。
「病は治らない。辺境伯様は、もう私のことを見捨ててる……あとはもう離縁されるだけ。私だって、ルーチェもいないこの世に未練なんかない!」
私は泣きました。
毛布が濡れるのにも構わず、ただ子供のように泣きじゃくりました。
泣き、ひたすらに泣き、泣き疲れた頃、ルーチェの声が囁きました。
「お身体は大丈夫です。その香草を……毒を食べるのをやめたら、すぐ治るですよ。それに――」
一瞬ためらった後、ルーチェは続けました。
「――あのひと、お嬢様のこと見捨ててねえですよ」
「嘘」
何度も首を振りました。
「あの方は、もう見舞にすら来てくださらない。お姿、もう二週間は見ていないわ」
「お嬢様」
彼女は静かに言いました。
「来てみてわかりましたです。お嬢様は、たぶんもうちょっと幸せになれるです。……あたしは、もうどうにもなんねえですけど」
ルーチェが手を差し出してきました。掌は、そのまま顔を抜けていきます。
「このとおり、涙も拭ってさしあげられねえです……でもお嬢様には、助けてくれる方がちゃんといるですよ」
「そんなことない」
私は激しく首を振りました。
「私を助けられるのはルーチェだけ。他の誰も、私はいらないの」
「お嬢様」
目の前のそばかすだらけの顔が、急に薄らぎ始めました。
えっ、と叫んで手を伸ばします。けれど半分透けた身体を、手指は無情にもすり抜けていきました。
「どうか……幸せになってくだせえ。お嬢様は笑っててくだせえ。あたしには、なんにもできねえですけど」
大きな目を細めて笑い……ルーチェは、かき消えました。
泣き疲れ、眠っていたようです。
差し込む朝日に目覚めると、ベッドサイドに見慣れない花瓶がありました。
白磁の瓶に、花が一輪活けてあります。針金のような葉と茎に、薄桃色の大きな花弁が八枚。初めて見る花です。
脇に、紙が数枚畳んであります。私宛の手紙でした。濃紺のインクで、整った字が紙面一杯に綴られていました。
『愛するアマーリア・フランチェスカ・ディ・ジョルジョ嬢、あるいは我が妻へ
直に顔を合わせて言葉を伝えられない私を、不甲斐なく思っております。だが私の顔を見れば、貴女はまた気分を悪くされるかもしれません。ゆえに手紙の形をとることを、どうかお許しください。
海の美しいエストゥアーリョから、貴女はこの山深いモンターニュの地に嫁いでこられました。貴女が陸に上がった魚のように干からびてしまうのは、致し方のないことなのでしょう。
病に伏せる貴女を見るにつけ、私は胸がふさがる思いでした。海で貴女が癒されるなら、海水を汲んだ樽をこの地まで取り寄せたい、とさえ考えたほどに。
ですが私は、貴女に疎んじられております。貴女は病の床で、私の顔を見るたび痩せ細っていきました。ならば私は顔を見せない方が良かろうと、ずっと見舞を控えておりました。
医者は原因不明と言っておりますが、私は、貴女の病は気持からくるものだと思っております。
貴女が心から笑う顔を、私は一度も見たことがありません。
憂鬱の病であれば、医者が治せぬのも当然でありましょう。
そして、憂鬱の元凶たる私は何もしない方がよい。そう思っておりました。
ですが昨夜、私の元に一人の娘が現れ、言いました。
私の想いを貴女に告げたかと。
私が貴女を愛していることを、伝えたことがあるかと。
娘はカジキの妖精と名乗りました。貴女はエストゥアーリョで、カジキの香草焼きを好んでいたそうですね。それゆえ娘は、かの地から貴女についてきたのだそうです。
カジキの妖精は言いました。
彼女には身体がない。だから、貴女に触れることさえできない。
貴女を抱きしめられるのは、口づけできるのは、私しかいないのだと。
思えば私は、病床の貴女とほとんど口もきいておりませんでした。ですので、今ここでお伝えします。
アマーリア嬢、私は貴女を愛しております。
夫として、いや一人の男として、私は貴女の健康と幸福とを願っております。
共に届けたのは秋桜という花です。数年前に新大陸から渡ってきた、新種の花です。
私は非力な男です。貴女のために山を海にすることもできず、カジキ料理をこの地で用立てることもできません。
ですがせめて、遠く嫁いでこられる貴女の慰めにと、婚儀の話が決まった三年前からこの花を育てております。
貴女が伏せっておられる間に、庭では秋桜が見頃になっております。寝室の窓からも見えますので、もし起き上がれるようでしたらご覧になってください。
調和の名を持つ花が、貴女の心身の調和に少しでも役立てばよいのですが。
この手紙と秋桜が、少しでも貴女の慰めになることを、天なる神に祈っております。
レイモン・バスチアン・ド・ジェルボー』
ふらふらと立ち上がり、寝室の窓辺へ寄りました。
外を見下ろせば、視界いっぱいに薄桃色の海が広がっていました。目を凝らせば、無数の小さな花々が風にそよいでいるのが見えます。桃色の波の間を、せわしなく庭師が行き交っています。
(お嬢様は、たぶんもうちょっと幸せになれるですよ)
ルーチェの声が、胸の中で響きました。
「そんなことない……そんなことない」
震える声でつぶやきながら、私は窓の側に崩れ落ちました。
両手で顔を覆い、ただ泣きました。泣くよりほかに、できることを知りませんでした。
泣き疲れた頃、侍女が部屋に入ってきました。私を見て、侍女は顔色を変えて駆け寄ってきました。
助け起こされながら、私は言いました。
「紙とペンを……用意して」
「紙とペン、でございますか」
ゆっくりと、けれど大きく、頷きました。
「レイモン様に手紙を書きます。書き終わった頃、取りに来てくださいな」
「は……はいっ!」
侍女は目を丸くしながら一礼し、部屋を出ていきました。
紙と羽ペンとインク壺が、すぐに届けられました。私はベッドに腰かけ、サイドテーブルを引き寄せて、紙の一枚目を真ん中に据えました。
(それでもね、カジキの妖精さん)
心の中だけで、呼びかけました。
(私はやっぱり、あなたが一番好きなんだよ。時々、会いに来てくれるかな)
答えはありません。でも返事があるとしたら、この朝の日差しの中ではないのでしょう。
まだ頭は痛くて、身体は重い。けれど書かねばなりません。
カジキの妖精の……ルーチェの想いに、応えるためにも。
私はしばらく考えた後、そっと羽ペンの先をインク壺に浸け、最初の一文を書き始めました。
ずいぶんと、長い夢を見ていたようです。
重い瞼を開くと、天蓋に掛かった絹の帳が、闇の中で仄かに白く浮かび上がっております。周りに人の気配はありません。
若い頃なら、山風に夜着をなびかせ、月夜の庭を逍遥することなどもできたでしょう。しかし齢七十を過ぎたこの身には、起き上がる力さえ既にありません。夫も子らも、今は寝静まっているでしょう。
私は再び目を閉じ、ひとつの名を呼びました。
「……ルーチェ。ルーチェ」
「はい、アマーリアお嬢様!」
六十年近くも変わらぬ元気な声が、すぐに返ってきました。けだるい頭を巡らせれば、そばかすだらけの少女は、あの日とまったく同じ姿で枕元に立っていました。
「私にもそろそろ、時が来たようです」
「おめでとうございます、お嬢様」
屈託ない笑顔で、少女――ルーチェは笑います。
「辺境伯夫人として、立派な御子息を二人も儲けられて。旦那様にも御家族にも領民にも、皆に愛されて。お嬢様の幸せを傍らで見守れて、ルーチェも幸せでした」
語る顔は、ほんとうに純真そのものです。
ああ、私は、この笑顔のために、今日まで頑張ってきた。
「そしてこれからは、神様の御許で永遠の幸せを――」
「貴女は?」
言葉を遮れば、ルーチェはきょとんとしました。
「どういう、ことです?」
「ルーチェ、貴女はどうなるの。神様の許に、私と一緒に来てくれるの」
「行けるわけ、ないじゃないですかお嬢様。ルーチェは、自分で自分を殺しました。だから天国には――」
「じゃ、私も行かない」
ルーチェが、丸い目を見開きました。
「いけませんお嬢様! お嬢様は幸せに――」
「私、ずっと幸せだったよ。……ルーチェの言う通り、幸せになったよ」
いつしか口調が、少女の頃に戻っています。
「幸せでいたら、ルーチェが喜んでくれるから。……夜中に時々枕元で、にこにこ笑いながら見守ってくれる貴女を、悲しませたくなかったから」
皺に埋もれた目尻を、熱いものが伝って落ちていきました。
「私は、たくさん……たくさん、幸せになったよ。だから、もう幸せはいいの」
ええ、確かに私は幸せでした。
愛情深い辺境伯。健康で素直な子供たち。忠実な家臣たち、領民たち。望んでも得られぬ恩恵を一身に受け、受けたものはできるかぎりお返しして――それが、貴女の望みだったから。
でも、もう、十分でしょう?
「ルーチェ、言ったよね。私たち、『どうやったってこの世じゃ一緒になれない』って……でもやっと私も、あなたのところへ行ける」
かさついた唇を引き上げ、私は精一杯の笑いを作りました。震える手を伸ばせば、あの日と同じように、指先はルーチェの胸を通り抜けていきました。
「そちらへ逝ったら、また、抱いてもらえるのかな。優しい優しい、カジキの妖精さんに」
ルーチェが、私の頬に手を伸ばします。昔通りの荒れた手は、そのまま私の顔をすり抜けていきます。
ああ、でも、きっともうすぐ。
私たちはあの日のように、抱き合える。
いまようやく、取り戻せる。あふれんばかりの幸せの中でさえ、この体に鮮烈に焼き付いていた、あの抱擁とくちづけを――
「幸せは、もうたくさんもらえたから……ね?」
声もなく、ルーチェが泣きます。
私も、泣きました。
静まり返った寝室の中、私たちはいつまでも、泣く力が果てるまで泣いていました。
【終】