約束の日
よくよく考えると、丸一日を檻本さんと過ごすのって、かなりハードなミッションじゃないだろうか? あまり馴染みのない女子と二人きりで、もちろん会話も忘れずにエスコート……。いや、前々から薄々わかっていたことだけど、凛音との相性は本当に特別で、何の気も払うことなくいくらでも時間を過ごせるのだが、それを他の女子にも適用できると勘違いしてはいけないのだ。適用できないのだ。とはいえ、凛音とやり取りをした記憶、経験があるからそれを活かすことはできるし、檻本さんがこちらに好意的なのもまだ救いっちゃ救い。せっかく凛音も応援してくれているわけだから、不安だけれど、弱音は吐かずにベストを尽くさなきゃいけない。しかし、檻本さんがこの前以上にグイグイ来たらどうしよう? ボディタッチとかもあるかもしれない。そうしたら俺は一気に檻本さんに引き込まれてしまいそうで、それもそれでそこはかとなく恐い。ただでさえ檻本さんは可愛らしくて、可愛らしいどころか、俺が最上だと思う架空のビジュアルの生き写しなのだ。あっという間に虜にされてしまいそうで、そういう心が抗えないシチュエーションってのはそら恐ろしい。けれども、そう思いながらも何かを期待している俺もいて、愚かだなと感じつつ異様な胸の高鳴りは止められない。
約束の日、俺は九時前にすべての支度を済ませて自分の部屋で待機している。十時に絲草駅で待ち合わせて二人で鷹座駅へ向かう予定になっているので、家を出るにはまだ少し早い。岡部家から絲草駅へは十分程度で到着できてしまう。早くても九時半頃を目安とするべきだろう。
ゴム。ゴムは必要かな?と不意に閃くけれど、必要なわけあるか!とすぐに結論づける。凛音と暫定恋愛をやっていると感覚がおかしくなってくる。とはいっても俺はまだ凛音ともしていなくて、恥じらいながら買った二十四枚も入っているゴムの箱は未だ開封もされずに机の引き出しに封印されている。三枚ぐらい持っていった方がいいかな?と依然思ってしまう俺はアホで全然冷静じゃない。いや、でもわからないだろ。何が起こるかなんて。
まだ出掛けるまでに時間もあるし、凛音に電話をさせてもらう。凛音と喋って落ち着きたい。それと、気持ちばかりが無駄に先走っている俺をなだめてもらいたい。アドバイスが欲しい。
で、かける。いつもより出るのが少しだけ遅かった。七コール目くらいで繋がる。凛音。「もしもし? おはよう」
「おはよ」と俺も言う。「寝てた?」
「んー? そんな感じ。どうかした?」
「いや、今日は檻本さんとの約束の日だろ? 落ち着かなくて」
「普段通りにしてれば大丈夫だよ。自信持ちな。私にしてることをあの子にするだけで充分だよ。あの子の方も博希のことは良さげに思ってるんだから、平気平気。余裕を持って頑張っておいで」
「…………」ん? あれ? 違和感。「凛音、どした? 大丈夫か?」
なんか変だ、と直感的に思う。喋っている内容も声色もなんら不審じゃないんだけど、変だ。直感的? 直感的などという運任せな気付きじゃない。俺は入学してからずっと凛音といっしょにいて、今、凛音が普通じゃないってことが確定的にわかる。
「…………」凛音がスマホの向こうで息を吸っている。「あはは。急にどうしたの? なんにもないよ」
「いや」
「そろそろ時間じゃないの? 私と駄弁ってると遅刻するよ。じゃ、いつも通り楽しく過ごしておいで」
凛音が通話を切りそうだったので、「ちょっと待って」と被せ気味に阻む。「なんかあった? ホントに大丈夫?」
「こわ。なんにもないって」
「『なんかあった?』じゃないよな。なんかあったよな? どしたんだ?」
「…………」凛音の小さな呻き声が聞こえる。「なんにもないから。気にしないでいってらっしゃい」
「ダメだ」と俺はすぐ返す。「言ってくれないと気になって檻本さんと会えない」
「なんにもないって」
「わかるんだよ」と俺。「なんにも隠せてないから」
「…………」凛音はまたしばらく間を開けてから、「やあ、すごいね」と言う。「お見逸れしました。さすが彼氏。でもたいしたことじゃないから。……ナスビが死んだだけ」
「!」
灰色のデブ猫。そんな、先日、マッサージしに寄ったときだって、元気そうかはわからないがのんびりとろとろ歩いていたのに。俺のところにも少しだけ近寄ってきた。凛音は『珍しい』と言っていたけれど、日常のナスビを俺は知らないからなんとも言えない。
「ペットなんていつかは死んじゃうし、ましてやナスビは化け猫だからね。前にも言った通り、いつ死んでもおかしくなかったんだから」
「…………」
「それでも、デート前に聞かせるような話しじゃなかったからさ。なんとなくどんよりしちゃうでしょ?」
「……うん」
「ね? 聞かなきゃよかったでしょ? だから黙ってたのに。でも大丈夫。ナスビも天に昇って、博希のこと監視してるよ、きっと。あんだけ生きれば充分!」
「…………」
「油断してるとホントに遅れるよ? もう電話切るから、元気に行ってきな。ありがと。心配してくれて」
「あっ」っていう頃には通話も終了している。そうか、と思う。ナスビが死んだか。俺は数回しか会ったことがないけれど、猫自体に馴染みがないから、猫といったらそのまんまイコールでナスビで、なんとなく存在感が大きいから、死んでしまわれるとショックだった。
俺は家を出て小走りに絲草駅へ向かい、絲草駅を通過して住宅街へ入る。毎日毎日、送り慣れた白都家の前に立つ。チャイムを鳴らすと凛音の母親が出てくる。「あ、博希くん」と名前を覚えてくれているらしい凛音お母さんが言う。「おはよう。……もしかして、ナスビのこと?」
俺は頷く。「凛音さんに会いたいんですけど、お邪魔してもいいですか?」
「いいよ」と凛音お母さんは微笑む。「自分の部屋にいるから」
「すみません」とっとっとと階段を上り、勝手知ったる凛音の部屋を訪ねる。凛音はマッサージをしたときのように、ベッドにうっ伏している。「凛音」
凛音がバッと顔を上げる。不思議そうに丸められた両目は真っ赤で、頬も、涙の痕でいっぱいだった。鼻水まで垂れていて、最初、凛音と枕が鼻水で繋がっていた。「なん、で……いんの?」
「そりゃ彼氏だからだろ」
俺が言うと、凛音は「うえーん」と子供みたいに泣いて、ベッドを降りて俺にしがみついてくる。そのわりには「来なくていいからっ」と裏腹なことを言う。「寄ってくれて嬉しい。でも十時からでしょ? 遅刻するから早く行って」
「行けるわけないじゃん」と俺は少し笑ってしまう。凛音は体中が震えていて、喉もヒクヒク鳴りっぱなしだ。俺の胸に押しつけられた顔面も熱っぽくて、低温火傷でもしそうなほどだ。
凛音はナスビのこと、ちゃんと好きだったのだ。どうでもいい置物扱いしていたのではなく、当たり前の家族として、自然に、気を置かずに接していただけだったのだ。それが今の凛音の様子からありありとわかる。
「ううん、ありがとう」凛音は俺にくっついたまま首を振る。「でもデートにはちゃんと行って」
「……もう延期にしてもらっちゃったよ」
檻本さんにはすぐに連絡を取り、ちょっと緊急事態だからと当日キャンセルをさせてもらった。たぶん檻本さんも準備万端だったろうから申し訳なかった。だけど、あんな雰囲気の凛音を放置しておける俺じゃなかった。
「は? バカじゃないの? こんなことで」
「こんなことじゃないし。彼女が泣いてるときに遊んでられるか」そんなの最低じゃんか。
「……彼女じゃないし」
「彼女だし」
「暫定じゃん」とまたこの流れになる。「もうそろそろ暫定の彼女でもなくなるし」
「そんなの決まってないだろ」
「京架が本物の彼女になるよ、今に」
「万が一があったとしても、少なくとも今は凛音が彼女だし」
「はあ……」と凛音が俺の胸に熱い息を吐きかける。
「座ろう。辛いだろ」
俺は凛音を抱きしめたままソファに腰かける。凛音は半ば力が抜けていて、ぐてっと俺の体に覆い被さってくる。
「……っていうか、なんで私のこと、そんなによくわかるの?」
「何が」
「電話だけで。私が、こんな状態だって……」
「いや、わかるよ」
「恐いんだけど」
ひどい言い草。「一応彼氏だしな」
「はあ」とまた凛音は嘆息する。「暫定なんだから、私のことなんて放っておけばいいんだよ。バカだな。これで、せっかくのチャンスが遠ざかっちゃったんだよ?」
「また次回があるだろ」
「もう愛想尽かされたかもよ」と言われる。「最初のデートを直前ですっぽかす男は、たぶんもうダメ」
「ダメか……」
でも後悔はしていない。何度も言うが、凛音をこんなままにして遊んでいられない。俺が凛音に会いに行ったところで、というのはあるけれど、だからって無視はできない。俺は凛音の彼氏だから……などと嘯いているが、友達だったとしてもたぶん対応は変わらない。
俺は凛音の方が檻本さんよりもずっと大事だったのだ。少なくとも、この状況を天秤にかけた場合においては。檻本さんは理想の権化で限りなく愛らしいし、檻本さんとの未来に少なからず期待してしまう自分も間違いなくいるんだけれど、それでも、それでも凛音の方が大切だった。凛音といっしょに過ごした時間が檻本さんの奇跡的存在を上回っており、俺は檻本さんに嫌われることがあっても凛音にだけは寄り添っていたいと思ったのだ。思ってしまったのだ。ままならない。
「ナスビは」と凛音が言う。「ここ最近、いやに活発だったから、なんとなく予感はしてたんだ」
「そっか……」
「普段はほとんど動かないんだから」
「俺視点だと、普通の猫みたいに動き回ってたけどな」
まあ『普通の猫』の予備知識が俺には不足しているが。
「よく動いてた」と凛音も同意する。「博希が来ると嬉しそうなんだ。まるで私みたい」
「好かれたかな……?」
「パワーも貰ってたしね」
「そうだったな」
俺がパワーを貰ったから弱ったんじゃないだろうな?と非科学的な考えが反射的に浮かぶが、言う必要のないくだらない冗談なので呑み込む。
「寂しいけど、仕方ない」凛音は結論づける。「ずっといっしょだったから、すごい寂しいけど……」
俺が凛音を撫でると、また凛音が泣いてしまう。ごめんごめんと思いながらも、俺にできることや言えることなんて何もなく、ただただくっついてくる凛音を受け止めるしかない。これからは俺がいる……なんてクソみたいな台詞は吐けないし。俺なんかナスビに比べたらなんでもない塵だ。「…………」
また一頻り泣いてから、「本当に行かなくていいの?デート」と凛音が確認してくる。「今ならまだ遊ぶ時間、たくさん残ってるよ?」
「行かない」一度キャンセルさせてもらっているし、今から『やっぱり行けます』はどう考えても許されない。「もしも凛音のためになるんだったら、今日はここにいるよ」
「はぁあ」と凛音はわざとらしい、あきれたような声を出す。「ありがとう。……私、博希に感謝してばっかりだ。私の方はなんにもしてあげれてないのに」
「いやいや、日々勉強です」
「ふ、うるさ」
「マジで。凛音のおかげで毎日楽しい」
「そんなの、友達といたら楽しいに決まってるじゃん?」
「…………」そんなレベルじゃないのだ。でも上手く言葉にできない。「キスもしてもらえるし」
凛音は情けない苦笑を浮かべる。「はは……そんなの私もしてもらってるし。おあいこだよ」
「いやいや……」
「お昼から葬儀があるんだ。ナスビの」と凛音が言う。「だから午後は家空ける。それまでいっしょにいてもらっていい?」
「ああ、うん。もちろん」
「いろんなこと、話したい」
と言いながら、しばらく沈黙が続く。凛音は俺の胸に顔をくっつけたままずっと動かない。寝ちゃったかな?と思い手を握ってみると、きゅっと握り返してくるので眠っているわけではなさそうだった。泣き疲れたのかもしれない。かなり怒濤の勢いで泣きじゃくっていたから、まあそりゃ疲れるだろうなとは思う。
ソファに座っている俺の上に凛音が座っているような形だ。そういう雰囲気でもないし、いやらしくならないようにしようと気をつけつつ凛音の腰辺りに手を添えると、凛音も姿勢を変えて、両手でしがみついたまま、俺の肩に顎を乗せてくる。俺の頬と凛音の頬がくっつく。
「博希は暫定的な彼氏にするにはすごくいいと思ったんだけど」凛音が囁くように言ってくる。「失敗したかもな、やめとけばよかったなって思うところが最近ひとつだけあるんだ」
急にぶち込まれて俺は面食らう。「はあ? なんだよ。俺、なんか変なことしたっけ?」
「うん。博希、私が思ってた以上に優しすぎるんだもん」
「…………」
「私のことなんて、もっと雑に扱ってくれればいいんだよ? 私が目指した暫定恋愛って、恋愛の面倒臭い部分を全部削ぎ落とした、気楽な関係だったんだもん。檻本さんと付き合ったら私が取り残されて可哀想とか、そんなの思わなくていいし、私が拗ねてても泣いててもケアなんてホントはしなくていいんだよ。博希は恋愛の美味しい部分だけ味わって、で、いずれ本命とくっつけばそれでいいんだよ」
「できるわけないだろ。そんな都合のいい……」言葉としてはありえるかもしれないけれど、不可能だ。俺には。「都合のいいときだけ仲良くして、都合の悪いときは無視なんて、できるか」
「それをやってほしかったし、私と博希ならできるかなと思ったんだけど」
「できるわけない。俺をなんだと思ってるんだよ」唖然としてしまうよ。「そんなの恋愛じゃないし。彼氏彼女じゃないし」
「暫定だから。そんな程度の関係でよかったんだよ」
「そんなんじゃ恋愛の練習にならないだろ」自分勝手な獣が生まれるだろ。ゆとり恋愛じゃないか。「……凛音は俺のこと、そういうふうに見てる? その、雑に扱っていい相手だって。仮に俺が怒ってたり悲しんでたりしても、そういうのは面倒臭いからスルーでいいって。そう思ってる?」
「思ってるよ」凛音は俺の耳元で「……なんて平然と言っちゃえる、そんなふうな関係になりたかった」とつぶやく。「でも、思えるわけないじゃん。こんなになんでも気にしてくれる人を前にしてさ、そんなこと言えないよ……」
「…………」
「だから、博希を誘ったのは申し訳ないなって今は思ってるよ。いろいろ気苦労かけてる。ごめん」
「俺は全然、誘われて嫌だったとかはないよ」はっきり言っておく。「愛し合ってはないのかもしれないけど、楽しいし。ドキドキするし。入学直後、出会ったときから見ると、だいぶ変わったよ。凛音のイメージ」
「……そう?」
「いっしょにいて楽な、ちょっとバカっぽい友達……で、それは今も変わらないけど、なんかエロいし、可愛いなとも今は思う」
「……バカ」凛音は俺の頭に軽く頭突きし「博希はちょっとトロいよね。もうちょっとガツガツしてるのかと思いきや、トロい」
「トロいってなんだよ」
「ま、そこが可愛らしいんだけど」
「……そうですか」
「私も楽しい。ドキドキする」と凛音も言ってくれる。「愛し合う恋愛じゃないんだけど、そんなのどうでもいいくらい、私はこの関係で構わない」
「うん」
「だから、ごめん。京架と付き合うまでは、いっしょにいてよ」
「付き合うことなんて確定してないし」どうしてそんなに確信が持てるんだ。「付き合ったとしても、ずっと友達」
凛音は俺の肩から顎をどかし、俺と顔を見合わせ「うん」と嬉しそうに笑う。
それから、どちらからともなくキスをする。凛音の口の中は普段よりもずっと暖かく湿っていて、舌も熱を含んでいた。俺は凛音の非日常的な不思議な口内に自分の舌をずっと納めたままにする。とろけそう。凛音が俺に舌を絡めたり、噛んだりしてくるたびに、そのまま溶けてなくなってしまいそうだった。
しばらくキスに明け暮れ、やがて、凛音が俺の口回りに付着した唾液を綺麗に舐め取ってから言う。「博希にひとつだけ嘘ついてた。ごめん。ちゃんと話すから許して」
「え、なに?」なになに。「嘘つかれても見抜けるはずなんだけどな」
「恐い恐い」と凛音は笑う。「たぶん、付き合い始めた頃の嘘だから見抜けなかったんじゃない?」
「ああ、それはあるかも」で、なに?
「言うね? あのね? 私、中二んとき彼氏いたんだ」と言われる。「博希が初めての彼氏って言ったけど、実はそうじゃないの。ごめん」
「あ、ふうん。別にいいよ、そんなの」
そんな話か。おののいて損した。……ん? でも中学生のときの恋愛っていうと……檻本さんの話が思い出される。たしか凛音と檻本さんは同じ先輩を好きになったライバル同士……。
驚かされる。「四股かけられててね、最低だった」
「マジか」やるなあ。「中学生で四股って、強すぎない?」
「私が中二んとき、その人は中三だったんだけどね。やり手だったんだよ」
「へえ……あ、ひょっとしてその四股の内の一人が檻本さんか」
「な、なんでわかるの? 勘よすぎない……?」と凛音は少し引いている。
「や……」檻本さんから聞いた話と併せて考えると、そういうことなのかなと思っただけだ。っていうかそれしかない。「その先輩、いい御身分だよな」
「ホントにね」凛音は俺を窺うようにしてから「一応正確な情報をあげとくね」と言う。「最終的に京架がその先輩と正式に付き合いだしたんだけど、なんだかんだ、けっきょく一ヶ月も持たずに別れたみたいだよ」
「ふうん……」
恋愛バトルは檻本さんに軍配が上がっていたのか。檻本さんはその辺、細かくは教えてくれなかったけれど。まあ檻本さんにとっても苦い思い出なんだろう。凛音と檻本さんの微妙な間柄に関しても、より納得ができた。
「私はそのとき京架に負けてるから、京架に対しては正直複雑な気持ちがある」
「あるだろうな」
檻本さんでさえ凛音との関係は『複雑』だと同じように言っていた。
「博希が理想の子がいるっつって京架を指差したときも、ああって、あーあって、宿命みたいなものを感じたよ。どうしても京架とは交わっちゃうんだなあって」
「…………」
「そんだけ」と凛音は区切りをつける。「私の中学んときの話。なんか質問ある?」
質疑応答の時間が設けられたので俺は尋ねる。「もしかして、初体験って済んでる?」
「ぶっ、バカ!」と言われる。「してないから。やめてよ」
「キスは?」
「してない」凛音は首を振ってうつむく。「なんか、博希に質問されると、嘘発見器にかけられてるみたいで緊張する……」
「緊張しないで」
「しないでって、するよ……」不満そうに目を細めてから「中学校時代は純粋だったから、そんな簡単にチュウなんてしないよ」と弁明する。
「そっか」俺は少し力が抜ける。この感覚は……なんだろう? 「まあ恋人らしいことは何もしてないけど付き合いはしてたってわけね。四股で」
「私の中では『付き合ってない』ことにしたいくらい黒歴史だし、トラウマだよ」と凛音。「それのせいで、なんか男の人が恐くなって……いや、恐いっていうか信じられなくなって、手放しで恋愛にのめり込めなくなってる……気がするんだ。好きになっても裏切られそうな恐怖感があって……」
「あ、だから暫定恋愛なのか」
お互いに愛情を持たなくて済む恋愛。愛情がない前提だから、その点においての裏切りはありえない。それは、凛音のトラウマに通じている感がある。
「そうかもね。っていうかそうだよ」凛音は力なく認める。「私は寂しがりだけど、誰かを好きになって、愛するのが恐いんだ」
「そうか」なるほど。俺は付き合い立ての頃に、俺と凛音のどちらが先に本命と結ばれるか競争……と言ったが、それは違うのだ。俺がしなければならないこと。本命を見つけて結ばれる努力をする傍らで、男は必ずしもクズではないんだってことを凛音に教えながら、最終的に凛音に人を愛する気持ちを取り戻させて本命とゴールインさせる。これだ。俺は凛音が巣立つまで、凛音を守り、凛音を安心させて、それから本命との本物の恋愛に導いてやらなくちゃいけないのだ。「わかったよ」
「巻き込んでごめん」凛音は俺の胸板に額をこつんとぶつける。「私のくだらないリハビリに巻き込んじゃってごめん」
「全然。友達だし」と俺は返す。「で、今は彼氏だし。凛音は何も引け目なんて感じなくていいんだよ。こっちも楽しんでる」
「…………」
「可愛い子とキスもできるし。役得」
「可愛いなんて……思ってないクセに」
「んなことないよ」可愛い。「凛音、安心して頼れな? お前のことはきちんとフォローするから」
「それだと目的が……」凛音は俺をいかにも愚かしげな瞳で見据えるけど、俺を拒否してみたところでどうせ俺のやろうとしていること、俺の意思は覆せないと悟ったんだろう。おずおず「ありがとう」と言う。「博希も遠慮せず。私になんでも言って」
「うん」今のところ、要求は特にないけども。「凛音の初彼氏は俺だよ」
「へ……?」
「言っちゃ悪いけど、四股は付き合ってる内に入らない。そんなのいちいちカウントしてたら笑われるぞ?」
「もう……」凛音はしがみついてきて「 」と何か言うが、口が俺の体に密着していて言葉として聞き取れない。「じゃ、やっぱり博希が私の初彼氏か」
「そうだよ」
世の中の男性の大半が真っ当な普通の男だと思うんだけど、最初に引っ掛かってしまった男がそんな奴だったら、もう何も信じられなくなったって不思議じゃない。だからゆっくりとでいい。俺は凛音の心を解きほぐす。俺が彼氏でなくなるのはそれが成功したときだと思うので、俺が彼氏でいられる間は、精一杯。
俺と凛音は午前中いっぱいずっとくっついていて、お昼前になってようやく俺は白都家を辞する。帰り際、最後にナスビと会わせてもらい、俺はナスビとお別れする。