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檻本京架

 俺達のクラスは一年四組だが、隣の隣の六組に俺の理想を具現化したような女子を見かけた気がしたので、雑談がてら凛音に話してみる。すると凛音は好奇心が湧いたのか、すぐに「見に行こうよ」と俺を連れて六組へ向かう。


 いる。見間違いじゃなかった。教室の奥、後方。窓際の席に、たしかにいる。艶々の黒髪を流れるようになびかせる、つぶらな瞳の、おっぱいのちょっと大きな優しそうな女の子が。いやいや。俺は改めておののく。俺がこの前、凛音に明かした理想像まんまの女子じゃない? あまりに精密な具現化に恐怖すら感じるほどだ。俺は凛音に「な?」と言う。「いるだろ?」


 凛音も驚くかと思いきや、簡素な様子で「京架(きょうか)じゃん」とだけつぶやく。


「なんて? え、知り合い?」


檻本(おりもと)京架」と凛音がフルネームを教えてくれる。「同じ中学の子」


「マジか」あの子……檻本京架さんも凛音と同じ絲草中学校から進学してきた子なのか。へえ。「仲いいの?」


 凛音に尋ねるも返事がない。見ると、凛音は黙って檻本京架さんを眺めている。何を考えているのかはわからない。可愛すぎて見惚れている……わけじゃないだろうし。同じ中学校出身なんだから見慣れているはずだ。たっぷり時間がかかったあと、凛音は俺の視線に気付き、「あ、なに?」と首を傾げる。


「檻本さんと仲良かったの?って訊いたんだけど」


「仲か……」凛音は考えるようにする。その時点で微妙な間柄なんだとわかるが、案の定「メチャクチャ仲よかったわけじゃないけど、赤の他人ってわけでもなかったよ」と漠然と答えてくる。


「ふうん」

 親友じゃないけど知らない人ってほどでもなく、まあ浅めの友達……だったんだろうか。


 俺が関係性を計り兼ねていると、「まさかそう来るとはね」と凛音がぼそぼそと言う。


「何が?」と俺。


「あ、いや、博希の理想の人。こんなに身近にいるとは思わなかったよ。たしかに京架は、まんま博希のタイプじゃんね。言われるまで気付かなかったよ」


「まあ外見はばっちりだけど、性格の方はわからないからな。優しくて穏やかでちょっとエッチかどうかは定かじゃない」

 自分で言っといてなんだけど、そんな都合のいいフル装備の女子なんてこの世に生まれてきていないだろう。


「じゃあ話してみる?」凛音は六組の教室へと入っていく。「おいで」


「えぇ……いいよ、凛音」そんないきなり。向こうも何かと思うだろうし、俺も知らない女子と対面するのは緊張する。「戻ってこいって」


 凛音は戻ってくるが「話すのは私だから、あんたは隣で黙って見てなよ」と言い、俺の制服の袖を掴んで再突入する。「ほら行くよ」


「ちょ、えぇー……」

 別にたまたま見つけた俺の理想の女子が自分の知り合いだったからって、わざわざ協力してくれなくてもいいんだけど……っていうか初対面の女子ってのがとにかく俺は苦手だ。行きたくない。


 檻本さんの席まで行き、凛音が「京架」と呼ぶ。


 着席していた檻本さんはやんわりと顔を上げ、「あ、凛ちゃん」と目を細めて微笑む。甘い声。「どうしたのー? 久しぶり。元気に高校生活、してる?」


「ぼちぼちやってるよ」と凛音は返す。「そこ歩いてたら見かけたから、京架も元気でやってんのかなと思って、様子見に来た」


「わたしはいつでも元気だよー。高校に来ても、変わらずかな」


「変わらずか」


 檻本さんが凛音の横……俺に目を向ける。「お友達? はじめまして。檻本京架です」


 俺が緊張でどもっていると、凛音が代わりに「岡部博希。席が隣でよく話してる、友達だよ」と紹介してしまう。「よろしくしてあげて」


「まだ五月なのにー」と檻本さんはにこにこする。「凛ちゃんはもう男の子の友達がいるんだ? やるねー」


「私にかかればこんなもんだよ」


「やっぱり凛ちゃんはすごいね。相変わらず可愛いし」


「別に? 京架の方が可愛いよ」


「凛ちゃんの方が可愛い」


「京架だよ」


「凛ちゃんだもん」


「しつこ」


「ふふふ。わたし、凛ちゃんになりたいくらいだもん。凛ちゃん可愛い」


「好きにして……」


 凛音が嘆息すると、檻本さんが「やった、勝った~」と笑う。


「…………」

 どうも、檻本さんは凛音のことを気に入っているようで、信じられないことだが凛音を可愛いと思っているらしく、やたらと褒め称えている。凛音も話し方から察するに、そこそこ打ち解けているというか、まあまあ仲良さそうじゃない? 少なくとも赤の他人だとか知り合いレベルではない。親友とまではいかなくても普通に友達っぽい。


 檻本さんは終始ほんわりとした様子で邪気もなく、風に揺れるたんぽぽのようだったが、休み時間は短く、ほんのわずかな会話の中では檻本さんの人となりを十全に把握するまでには至れなかった。俺が単独で檻本さんにもう一度会いに行くことなんてできるはずないし、そんなの明らかに不審だし、下心が見え透いているし、かといって凛音に頼んで休み時間になるたびに檻本さんと話してもらうわけにもいかない。というか、俺自身が檻本さんについてもっと深く知りたいのかどうか、その段階からして既に曖昧だった。たしかに檻本さんは俺の理想像に限りなく近く興味深いんだけど、俺が檻本さんと親しくなれるビジョンが湧かない。知らない女子の前だと異様に上がってしまう。凛音といっしょにいると忘れてしまいがちなんだが、俺は女子に精通しているわけじゃ全然ない。正直、凛音とはどうしてこんなに自然と仲良くなれたんだろう?と改めて疑問なくらい、俺はまったく檻本さんに踏み込んでいけそうにない。完璧な理想像の化身だったとしてもだ。


 しかし、そんな俺に全然違ったタイミングで檻本さんと言葉を交わす機会が設けられる。それは凛音とデート中で、鷹座駅の地下街をぶらぶらしている最中だった。凛音がトイレに行き、俺は通路の中ほどに並んで立っているぶっとい柱に寄りかかっていた。


 鷹座駅の地下にいろんな店が入って賑わっていたのは知っていたけれど、むしろ地元民だからなのか、あるいは単に縁も用事もなかったからなのか、俺は足を踏み入れたことがなかったのだ。地下街は地下鉄利用者の経路も兼ねているが、俺は地下鉄になんてわざわざ乗らないし……。


 老若男女が行き交う様をぼんやり眺めていると、その人混みの中に檻本さんがいたのだ。俺の中の理想というだけのことはあり、すぐに気がついた。あ、檻本さんだ、とすぐわかった。檻本さんは白いブラウスに黒いふんわりとしたワンピースを合わせていて、服装からしても俺の好みど真ん中だった。美少女が可愛い服を着ていて、オーバーキルとはまさにこのこと。ちなみに凛音はズボンを穿いていることが圧倒的に多い。パンツスタイルというんだろうか。


 驚くべきことに、檻本さんも俺に気付いた。俺は檻本さんだとわかっていながら、声をかけるにしては希薄すぎる関係性だし……と、自分に勇気がないことを誤魔化すための理由をすぐさまでっち上げていたんだけど、檻本さんの方はあっさりとそんな関係性の柵を打ち破ってきた。「岡部くん?」


「あ、お、檻本さん」

 いま気付きました奇遇ですねというようなリアクションを無意識的に取ってしまう自分が愚かしい。可愛すぎて眩しい。


「こんにちは。一人?」


 デートだとは言えない。「と、友達と来てて、いま友達がちょっと外してるから、待ってる最中」


「そうなんだ? すごい偶然だね~。歩いてたら、なんか見たことのある人がいるから、ん?と思ったら、岡部くんだったー。ふふ」


「でもよくわかったね……」

 俺と檻本さんが顔を合わせたのって、けっきょく先日のあれ一回きりだったんだけど。


「わかるよーそんなの。覚えてるもん」とだけ檻本さんは言う。


「……檻本さんは一人?」


「京架でいいよ?」


「え? は、な、なに?」メッチャどもってしまう。


「京架でいいよ、って。名前で呼んでくれればいいよー」


「いや、え?」先日、数分間話しただけなのに? しかも話していたのは凛音だ。俺は突っ立っていただけ。「きょ、京架、ちゃん……?」


「ふふ。『ちゃん』はいいよ」


「や、やっぱ無理!」馴れ馴れしすぎる。「檻本さんってしか呼べない……」


「別にいいのに」


「俺なんて檻本さんのことなんにも知らないし……そんなに気安く呼べない」


「凛ちゃんと友達なら、わたしと友達でもいいんじゃないかな。気安かったらごめんね? 岡部くんはそういう距離感、苦手?」


「あ、た、たしかに、人見知りはする方かも」女子限定で。


「そっか。ごめんね」


「う、ううん」俺は必要以上に首を振ってしまう。「気持ち自体は嬉しい」


「じゃあ、ゆっくり友達になろうか~」檻本さんはほんわりと笑う。「ね?」


「と、友達!?」

 嘘?嘘?嘘? そんなことってあるのか? 檻本さんが俺の友達に? 俺が凛音と繋がっているからか? 人脈だ。人脈!って感じがする。


「嫌そう~」と檻本さんが困り笑いする。


「違う違う。嫌じゃないよ」


「じゃあ、恋人がいいのかな?」


 檻本さんの甘い声で言われると、冗談だとわかっていてもクラクラしてしまう。俺は酸素を喪失して過呼吸になりそうだ。「っはー……はあ、はあ……」


「ふふ。大丈夫?岡部くん」


「だい、大丈夫……」

 そんな冗談も言えるのか。見ると檻本さんは穏やかに笑っているけれど、あんな表情からあんな小悪魔的な冗談が出てくるんだもんなあ。たじたじになってしまう。


「人見知りするんだったね。ごめんね? ぐいぐい~って喋っちゃった」


「ううん」


「わたしも人見知りするんだよ?」


「……絶対しなさそう」


「ふっふ。それはねー、岡部くんが凛ちゃんの友達だから」


「…………」俺は尋ねてみる。「……凛音とどれくらい仲いいの?檻本さんって」


「うーーん……すっごく仲がいいわけじゃないんだ。実はね、そんなにたくさん話したこと、ないんだ。かといって、知らない間柄でもないしー、みたいな」


「ふうん」凛音と似たような表現をするなあ。凛音もたしか『親友じゃないし他人でもない』みたいな言い回しをしていた。「でも檻本さん、凛音のこと、好きでしょ?」


「好きだよ」と檻本さんは苦笑する。「可愛いし、好き。けどね、複雑なんだ」


「え」

 なに?その空気感。俺は言い知れぬざわめきに襲われる。


「凛ちゃんに言わないでね?」檻本さんははっきり前置きしてから告げてくる。「わたしと凛ちゃん、中学生のとき、おんなじ人が好きだったの」


「あ、ライバルだったってこと?」

 だから仲を説明するとき微妙な言い方になってしまうのか。そういえば凛音も最初、なんともいえない視線を檻本さんに送っていた気がする。あれはかつての恋愛バトルに思いを馳せていたってことなんだろうか?


「そんな感じかなー」と檻本さんは相変わらず苦々しそうに笑っている。とはいっても、それでも檻本さんからは柔らかな気配が漂っていて、なんかよくわからなくなる。俺は檻本さんの心境を掴みかねる。「凛ちゃんには内緒にしてね?」


「わかったよ」中学校時代の話だし、掘り下げることも特にないだろう。一応「その、二人が好きだった人って今はどうなってるの?」と確認しておく。


「何してるのかなあ」と檻本さんも首を傾げる。「ひとつ上の先輩だったから、先に卒業しちゃって、あとは野となり山となったんじゃないかなー」


「ふうん」

 諺の使い方をたぶん間違えているんだけど、まあ、どうなったかわからないということなんだろう。同級生ならまだしも、先輩だったなら、一度切れてしまえば行方も何ももうわからないよな。


「凛ちゃんもあんな先輩のこと、今はなんにも気にしてないと思うからー、岡部くん、大丈夫だよ?」


「大丈夫って……」


「安心して付き合えばいいんじゃない?」


「っ」一瞬、暫定恋愛のことを見透かされているのかとヒヤリとするが、そういう感じじゃない。檻本さんは俺が凛音に片想いしているとでも考えているんだろう。「……俺と凛音は友達だよ。付き合うことはないから」


「そうなの?」檻本さんはつぶらな瞳をより丸くする。「あんなに、磁石みたいに仲よさそうなのに?」


「磁石は仲いいのかわからないけど、俺と凛音は友達だから。そりゃ仲はいいよ」


「だったら、わたしが岡部くんと遊んでも別に構わないんだね?」


「へ」息も、時も止まる。「……檻本さん、俺と遊びたいの?」


「例えばだよ」と檻本さんははにかむ。「でも、岡部くんがわたしと遊んでくれるんだったら、わたしは遊びたいよ?」


「…………」なんでなんだ? 俺は混乱する。檻本さんがなぜか俺に対してメチャクチャ積極的な気がするんだけど、俺なんて今さら言うまでもなくイケメンじゃないし、檻本さんに何か特別なことをしてあげたわけでもないし、こんな展開を迎える心当たりがひとつとして存在しない。しかも、繰り返しになるけれど、この間、凛音といっしょに数分だけ顔を合わせた程度なのだ。何が檻本さんをそんなふうにさせるんだろう? フィーリング? 何か感じるものがあるんだろうか? 俺が檻本さんを理想の化身だと見なしているように、檻本さんにも檻本さんの事情が何かあったりするんだろうか? だけど俺は初対面の女子と接するのが取り分け苦手で、檻本さんと二人きりで遊ぶことなんて到底できそうにないんだけど、でもこのチャンスを簡単に手放してしまっていいのか? 檻本さんと話す機会なんてもうないかもしれないぞ? それに、そうだ……もうそろそろ凛音が戻ってきてもおかしくない頃合いだ。凛音が戻ってくれば檻本さんとのトークタイムは終了だし、だとしたらもう制限時間は絶対的に少ない。俺は焦りに焦ったまま、思考や心境の整理もせず、「じゃあ遊ぶ?」と口ずさんでしまっている。


 檻本さんはパッと笑う。「遊ぶ!」


「今度」


「うん、今度。今日はわたしも、買い物中だからー」


「ああ……俺も友達と遊んでる最中なんだけど……」


「戻ってこないね?」


「なかなか来ないな」

 まあトイレが混んでいるのかもしれないし、他にも可能性はいろいろあるだろう。


「とにかく、今度だね」


「うん。また今度」


「連絡先」


「ああ、うん」交換しておこう。俺はスマホを出す。


 檻本さんもスマホを構えて、「また連絡するねー」とのんびり言う。


「うん」

 もしかしたらここまでが社交辞令で、そのあと連絡なんて一度も来なかったりするのかもしれない……などと思ってみたりもするけど、それとは裏腹に俺は浮き足立っていて、なんだ、なんだろう、とにかくいっぱいいっぱいな気持ちだ。


 檻本さんと別れて、柱のところでさらに十分ほど待つが凛音は戻ってこなくて、男子トイレにだったら探しに行けるんだけどまさか女子トイレには近づけないし……と困っていると、さらに十分後、反対方向から凛音がやって来る。「おまたせ」


「え、そこのトイレ行ったんじゃなかったの?」

 トイレに入っていく瞬間まで見送ったわけじゃないから、俺は戸惑いながらも尋ねる。


「トイレ済ませてから反対方向へ行っちゃったみたい」と凛音は笑っている。「来慣れてないからさ。道に迷っちゃったよ」


「…………」

 嘘をついている、とすぐに思う。凛音とはもう一ヶ月以上ずっといっしょにいるから、表情や声色ですぐに見抜ける。凛音がわかりやすいってのもあるんだろうけど、でもなんでここで嘘をつく必要がある? あ、そうか……俺と檻本さんが喋っているのを見て、来づらくてどこかで時間を潰していたのか。いや、でもそれだったら、仮に俺と檻本さんに駄弁る時間を与えてくれたんだとしたら、戻ってきた今、それに言及しないか?普通。例えば『京架と話せてよかったね』とか、なんかコメントがあるだろ?普通。なんでなんにも言わないんだろう? 嘘をついている、と俺が粋がって勘違いしているだけで、凛音は本当に道に迷っていたんだろうか?


 凛音が言う。「時間も時間だし、駅のホームの方、向かう?」


「移動しながら、面白そうな店とかあったら寄るようにするか」


「そうしよ」


 凛音が歩き出すので、俺も続く。「手、繋がないの?」


「誰かに見られるかもしれないじゃん」と凛音。


「…………」

 さっきまで繋いでたじゃんと思い、同時に、凛音はやっぱり檻本さんの姿を見ている、とも思う。


「誰かに見られそうな気がする」


「予感がすんの?」


「予感がする」


 俺は無視して、強引に手を繋いでみる。バシッと払われる。けっこう遠慮がない。「痛っ……」


「あ、ごめん」と凛音は謝るが、俺を少し睨むようにしてから黙ってうつむく。


 怒っている。俺と檻本さんが自分を蔑ろにしてずっと駄弁っていたから怒っているのかもしれない……とまた思うけれど、そうじゃないかもしれない!とふと閃く。凛音は檻本さんの姿を見ているはずなのにそれについてノーコメントなのが不審だ、おかしい、と俺は考えたけれど、凛音にとっても同じなのだ。俺はどうして檻本さんと会って喋ったことについてを凛音に話そうとしないんだろう?……と、凛音も思っているに違いない。普通話すだろ、って。たしかにな。それはそうだ。俺はどうして話さずに済まそうとしているんだ? 自分でも謎だった。話さなきゃダメだろ。


「あ、そうだ」何が『あ、そうだ』だよと我ながら浅はかだなと思いつつ、遅ればせながらに報告する。「さっきそこで檻本さんと会ったんだけど」


「……あっそ」と言われる。『知ってるよ』と言われた気がした。


「あの、ごめんな? 隠そうとしたわけじゃなくて、言いそびれただけだから」


「別に隠しても構わないんだよ? うちら、本物の恋人じゃないし」


「は? でも恋人じゃん」


「暫定だよ」


「暫定でも恋人だろ」いつもと台詞が逆だ、と思う。いつもなら俺が『暫定』に対してネガティブなのに。凛音は何にそんな腹を立てているんだ。「っていうか、お前が友達だったとしても俺は隠し事しないよ。お前には」


「なんでもいいです」と凛音はそっぽを向く。


「なんなんだよ」とぼやきながらも、俺はもう一度凛音の手を掴む。またバシッ!が来そうになるが、腕を組むことで動きを封じる。


「離せ、バカ」


「嫌だ。怒るなよ」


「怒ってないし」


「デート中なのに檻本さんとダラダラ喋っててごめん」


「どうでもいいよ」


「檻本さんと喋ってたこと、すぐ言わなくてごめん」


「や、見てたし。知ってたし」


「…………」やっぱりか。「怒んないでって」


 俺が凛音の腰に手を回して密着度合いを高めると、「歩きづらいから。ベタベタすんなよ」と怒鳴られる。


「…………」

 俺はびっくりしてしまって肉体と魂が一瞬だけ少しズレる。怒鳴られて恐かったわけでも冷たくされて悲しかったわけでもないのに、反射的に涙目になってしまう。自分でわかる。目玉が水に浸かったみたいになり少し浮く。


 凛音がまた睨んでくるけど、俺と目を合わせてハッとする。俺がよほど憐れな表情をしていたんだろう、凛音もつられて顔を歪める。「ご、ごめん。態度悪かった。ごめんなさい」


「ううん」


「ごめん」


「いいよ」


「博希はなんにも悪いことしてないよ。私が悪い。ごめん」凛音はいったん俺から離れ、頭を下げる。「私達は付き合ってるけど、この関係はお互いが次に進むためのステップだもんね。だから博希は京架とどんどん交流していいんだ」


「ああ……? うん」

 なんだ? 凛音は俺が檻本さんと付き合う可能性を考慮しているのか? そんなことありえるか? たしかに檻本さんは不思議なぐらいに距離を詰めてくるけれど、あれだって俺が凛音の友達だからであって、その先に恋愛とかが待ち受けているだなんてとても想像できない。俺はさっき、咄嗟に檻本さんを遊びに誘ったが、それも何か目的や目標があってのことじゃなく、文字通り咄嗟に、なんかもったいないと思って、がめつく申し出てしまっただけの話なのだ。


「わかってるんだけど、なかなか自分をコントロールできないんだよな」凛音がつぶやく。「好きじゃないのに誰にも盗られたくないし、好きじゃないのにつまんないことでムカついちゃう。気持ちが、なんかぐちゃぐちゃになる……」


「凛音?」なんか気落ちしている。人通りはあるが、俺は仕方なく凛音の頭を撫でてやる。「よくわかんないけど、別にコントロールしようとしなくていいから。自分の気持ちに正直に、怒りたいときは怒ればいいよ」


「…………」


「俺は怒られたくないから言い訳とか弁解とかもするけど、お互いに我慢だけはやめよう。いつも言ってることだけどな」


「……博希は本当に優しいよね」


「普通だよ」


「本当に本当に……」凛音がようやく俺の手を握ってくれる。


「帰るか? とりあえず歩こう」


「ちょっとこっち来て」


 地下街の、駅に程近いエリアにコインロッカーがずらりと並んでいる空間があるんだけど、その奥まった場所へ連れていかれ、俺は背中を壁に押しやられ凛音からキスをされる。凛音は俺の上腕を掴み、体で俺を壁に押しつけるようにして延々と口付けをしてくる。凛音の膨らんだ唇が俺の口回りをしきりに啄む。今現在コインロッカーを利用している人間はいないが、そういう問題ではなくて、普通に通路からでもこちらの様子は見えてしまうのだ。奥まっているから覗き込まないとよく見えないにしても、それでもだ。


「凛音、人に見られる……」


「いいもん」と凛音が俺の眼前で言う。吐息が当たる。


「せめてもうちょっと人目につかないとこない……?」


「ない。我慢できない」引き続きキスに没頭する凛音。撮影されてSNSに挙げられたりしたらバカップルの仲間入りをして永久的に晒し者になっちゃう……などと危惧していると、凛音が「博希は私のものだから」とつぶやく。「博希、京架よりも私の方がいいよ? 私だったら、こうしてずっとチュウしてあげれるよ?」


「…………」檻本さんに対抗意識を燃やしているようだった。別に檻本さんの方がいいなんて言ったわけでもないし、もう凛音なんかいらないと言ったわけでもないんだけれど……まるでそう言われでもしたかのような凛音の剣幕だった。すごい必死で、思わず「可愛いなあ」と言わずにいられなくなる。だんだんと俺も、数メートル向こうを行き交っているはずの人々が気にならなくなってくる。「凛音……」


「博希、博希……」


「凛音」俺が凛音の後頭部を撫でると、凛音がビクッと体を震わせる。「ふ。可愛い」


 笑っていると、開いた口に舌を突っ込まれる。凛音は唇ごと俺の口内へ入ってくるかのような勢いで、深いキスをする。舌同士を触れ合わせたのは初めてで、舌先が擦れ合っただけで意識が飛びそうなほどの衝撃を受けてしまう。俺の方からも舌を絡めると、凛音は小さくも高い声を漏らして、ここが凛音の部屋だったらもう我慢できないところだった。凛音をベッドに押しつけてのしかかっていただろう。しかし残念ながらここは公共の場で、ギリギリやって許されるのがキスくらいだ。あるいはそれがよかったと言えるのかもしれないんだけど、俺達はキスしかできず、だからずっとキスだけを堪能できた。俺も凛音も、お互いの口腔で味わい漏らした箇所などないというほどに至るところを舐め尽くし、吸った。二人の唇が合わさっているところから、誰のともつかない唾液が垂れて落ちる。


「博希、やばい」と凛音は泣きそうな声で訴える。「やばいよ……」


 凛音はしたくてたまらなくなったときに『やばい』と必ず言う。俺達はけっきょくまだ何もできていないのだが、凛音の口癖だけは把握できている。「ここでする?」


「バカ……」と言いながらも凛音の手が下の方へ行き、なんだか冗談抜きで始まりかねない雰囲気だったので、俺は凛音の手を握り、歯止めをかける。


「また今度ゆっくりしたい」と俺は言う。


 凛音は目を潤ませ、渋々といった様子で「うん」とあきらめる。


「凛音」


「はい」


「あのさ」俺はとうとう認める。「可愛い」


 とっくに赤らんでいた凛音の頬は、しかしさらに燃え上がる。「ありがとう……」


「うん」

 顔が可愛いかどうかとかはもう見慣れすぎていてなんとも評しがたいんだけど、俺はわかる。檻本さんもそういう意味で言っていたのかもしれない。凛音は可愛い。存在がもう可愛らしいのだ。怒ったり甘えたり、おどけたり悲しんだり、そういうのを全部ストレートに見せてくれるところが可愛い。これは『好き』とはまた異なる感覚なんだろうけれど、凛音に対する新しい感情を見つけられて俺は満足する。唇は、お互いに擦りつけ合いすぎてヒリヒリ痛い。


 絲草駅に戻った頃には陽も沈みかけてしまっていて、俺は名残惜しみながらも凛音を送り届けてそのまま帰宅する。

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