家デート
白都家で家デートをすることになり、休日の昼下がりに俺は凛音の家へ行く。場所は覚えていたけれど、絲草駅で凛音と待ち合わせをしていっしょに向かうことにした。凛音はズボンにブラウスと無難な格好をしていた。家には誰もいないのかと思いきや普通に御両親もいらっしゃって、普通に顔も見られてしまう。凛音の御両親には自分の身柄についてどう説明すればいいのか、判断に迷ったが、無難に『友達』だと名乗らせていただく。凛音も特にコメントしなかったのでそれで正解だったんだろうけど、客観的に見たらどう考えてもただの友達じゃないんだろうなとは自分でも思う。凛音の御両親も気が気じゃないはずだ。だから顔は見られたくなかったのに。
二階の凛音の部屋へ招かれ、俺は女子の部屋に初入室。汚くはないが綺麗に整っているわけでもない、まあ、いかにも高校生の部屋って感じの部屋だった。間に合わせで撒いたような消臭スプレーの香りが漂っている。
俺もあんまり人のことは言えないけれども。「部屋に友達を呼べるのってすごいよな。俺は自分の部屋、あんまり他人には見せれないかも」
凛音に笑われる。「変な本ばっかり置いてあるからでしょ?」
「置いてないよ。それとは無関係に、なんとなくそういうプライベートな空間って見せがたい。見せがたくない?」
「私は、がたくないかも」と凛音は平気そうな表情だ。「友達もよく呼ぶし、見られることに慣れてるんだろうね。博希はそういうとこ神経質なんだ?」
「そういう傾向はあるんだろうな」
「じゃ、遊ぶときは私の部屋になるかな?」
「外で会うんでもいいし」
俺と凛音の仲はクラス内でもより広く知られるに至ってしまっているが、付き合ってはいないときっぱり公言しているので、外で遊んでいるのを目撃されても、まあホントに仲良しだなあと思われるくらいだ。恋人繋ぎなんかをしてさえいなければ。
「外でもいいよ」と凛音。「次は外デートにしよっか。やっぱ鷹座駅周辺?」
「まあ近場でデートするならあの辺りだよな」
「四玄堂とかでもいいけどね。飛川もあるし。いろいろ行こう」
「おう。やっぱ鷹座の有名デートスポットは押さえておかなきゃダメか」
「ダメじゃない? 有名っていうからにはきっと楽しいんだろうし。行ってみる価値あるよ」
「じゃあ考えとくか」
とりあえず近いところから順番に……って形になるかな。
先の計画を立てようとしていると「今日はとりあえずウチだから」と言われる。「リラックスしてくれていいよ」
「そうする」俺はひとまず床に座る。小さなソファもあるけど、まずは客として下手に出る。
「ゲームする?」凛音はゲーム機をいっぱい持っていた。最新の携帯ゲーム機もあるし、父親の私物らしいが据え置き型のものも今日は借りてきている。「博希ってゲームする人?」
「小さい頃はやってたけど最近はあんまりしない人。でも好きだし、全然やれるよ」
「やろっか?」
いろいろプレイさせてもらえる。凛音は携帯型ゲーム機の方が専門らしく、そのおかげで据え置き型の方は俺の腕と同レベルくらいでちょうどよく対戦なんかも楽しめる。熱中していると傍らに生暖かな気配を感じて、最初は凛音だろうと無視していたのだが、ふと見ると猫がいて俺は動転してしまう。思わず「うわ!」と声を上げる。灰色のデブい猫がいる。俺の尻の横で丸くなって座っている。
「わ」と凛音も声を漏らす。「ナスビか。いつの間に入ってきたんだー」
俺は部屋の出入り口を見遣り「ドア開いてるな」と言う。
「ホントだ。ごめん。博希、猫は大丈夫? 苦手じゃない?」
「大丈夫だよ。いきなりいたから驚いただけ」俺はナスビと呼ばれた灰色のデブ猫を撫でる。「猫飼ってるんだな」
「飼ってるっていうか……私が生まれる前からいるから、もうなんていうか……住み着いてるみたいな?」
「え? ってことは十五年以上生きてるってこと?」
「二十一歳らしいよ」
すげえ。「化け猫の類いじゃん」
「そだよー。年寄りだからもうあんまり動かないんだけど……今日は珍しいな。見慣れない人が来たから、品定めしに来たかな」
「へえ。パワーもらっとこ」
俺は化け猫にあやかるべく、さらに撫でる。ナスビは喜ぶでもなく嫌がるでもなく、微動だにしない。
「今の内にパワーもらっときなよ。そろそろ死んじゃうだろうし」
「え、そうなの? 病気か何か?」
「いや、普通に老衰で。だって、明らかに平均寿命超えてるでしょ」
「まあな」
二十一歳ならな。それにしても、凛音は意外とドライだ。生まれたときからいっしょに生活しているんだったら、できるだけ長生きしてほしいとかって思ったりするもんなんじゃないのか? そろそろ死んじゃうだろう、って、すごい淡白。あるいはあまりにも置物っぽくて、もはや猫感も薄れているんだろうか? ペットを飼ったことのない俺には想像もつかない感覚。
「外出す?」座っていた凛音が腰を上げ、寝ているナスビを抱えようとする。
「え? いや、いいよ。自由にしててもらえれば」
「そ? わかったよ」凛音は再び座りなおし、ナスビは安息を妨げられずに済む。「博希は猫好きなんだ?」
「まあ、好きなのかな?」猫と触れ合ったことがあまりないので、物珍しいってのもある。「動物自体嫌いじゃないよ。可愛いものは特に好き」
「そっか」凛音は俺とナスビを眺め、少し笑う。
けれども猫はやはり気まぐれ。ゲームを再開して意識をまたテレビ画面に戻すと、いつの間にやら俺のもとを離れて退室してしまい、再び姿を現す前に凛音に部屋のドアを閉められてしまうのだった。
最近のゲームは綺麗で迫力もあって、リアルで、操作性もすごくて、でも長時間やっていると酔う。普段やらないクセに一気にのめり込んだものだから、余計に受ける刺激が強くて体はナイーブに反応してしまう。目が回る。
俺はソファに座って休憩する。「少しずつ慣らさないと胸が悪くなってくるな」
「やっぱり携帯型ゲーム機の方がいいでしょ? 博希も買ったら? いっしょになんかプレイしようよ。友達でゲームやってる子なんていなくてさ。寂しいんだよ」
「久々にやると面白いんだけどな」でも高いしな、ゲームって。「スマホのゲームはやってないの?」
「少しやってる」凛音が隣に座ってくる。「博希もなんかやってるの?」
「やってたりやってなかったり」
「飽き性?」
「飽き性かもなあ」
「どんなのインストールしてんの? 見せて」
「え、嫌」
「あはは」笑われる。「博希って意外と神経質度合い高い? 自分のプライベート見られるのホントに嫌なんだね」
「そうかもな」だけど、みんなスマホの中身は見られたくないんじゃないの?
凛音はそうでもないらしく、俺の隣に座ったままスマホを開き、ホーム画面を見せてくる。「博希がやってるゲーム、この中にある?」
「おお、いっぱいプレイしてんなあ。ゲーム」
「私もしたりしなかったりだよ。博希と付き合ってからは触らなくなったゲームも増えたな」
「え、あの、無理に俺に時間割かなくてもいいからな?」
「無理してないよ」凛音はスマホを脇に置き、笑う。「博希と遊んだり喋ったりしてる方が楽しいし。いいんだ。博希といっしょにゲームができたらより一層いいんだけど」
「パズルゲームとかならできるかも」
「ホント?」と凛音は嬉しそう。「じゃあね……って、まだ具合悪いよね。気持ち悪い? 吐きそうじゃない?」
「吐くほどじゃないよ」と俺。「でも頭と胸がモヤモヤする……」
「そっか」凛音は苦笑を浮かべる。「辛いときにいっぱい喋っちゃってごめん」
「全然。平気」
「寄りかかっていいよ」
「充分に寄りかかってる」
このソファは柔らかめで、体重をかければかけるほど沈み込んでくれるから気持ちいい。俺は遠慮なくくつろがせていただいている。
「じゃなくって」と言われる。「私に寄りかかっていいよって」
「柔らかいソファがあるのに?」
「柔らかいソファより柔らかい彼女の方がいいんじゃないの?」
「そうなのかな」凛音と目を合わせると、凛音はもうメチャクチャにイタズラっぽい目をこちらに向けていて、寄りかかってきてほしいんだろうなってことが俺にもさすがにわかってくる。付き合い始めて早くも三週間だ。「じゃあ寄りかかるぞ?」
「いいよ」
「はい」っつって俺はソファの背もたれにではなく凛音の半身に体を傾ける。もちろんソファと違って凛音は華奢なので加減をする。
「ソファよりいい?」
「ソファの方がいい……」
「バカ。そこは間違いなく『凛音ちゃんの方がいい』でしょ」
「もうちょっと体重かけていい?」
「どうぞどうぞ……って、うわ。重」俺が力を抜いて凛音に体を預けると、凛音もいっしょに横方向へ倒れそうになる。が、力んで踏ん張っている。「重た。重たいんですけど」
「一応男子だからな」
「男子重た」
「えい」と最後に一押しの力を加えると、凛音は潰れてソファに埋もれる。俺は自身とソファで凛音をサンドイッチにする。「あ、ごめん。やりすぎた」
「あは! いいよ」凛音は起き上がろうとする俺の脇腹辺りに腕を回し、それを阻んでくる。「このままでいいよ」
「いや……」っていうか密着がすごい。恋人繋ぎは何度かしていて、その際に半身同士がくっつくことは普通にあったが、今回のこれはもうくっつきすぎで、どこがどうくっついているのかもよくわからないほどだ。凛音は体の肉付きも薄いのに、たしかになんか柔らかい。柔らかい彼女。顔同士も近い。「離れるよ」
「離れなくていいって」と凛音が腕に力を込めてくる。「体の力抜いて。楽にして」
「全然楽にならない……」
「あはは。博希、真面目すぎない? ウブなの?」
「いや、女子に耐性ないのよ」ここ最近の三週間だかで、今までずっと女子と関われなかった人生分を利息込みで返済してもらっている感覚だ。本当にそれくらいなのだ。凛音はそれくらいの勢いで仲良くしてくれている。「……凛音だって男子に触れるの抵抗ないの?」
「あるよ。でも博希には抵抗ないよ」なんて嘯いてから「緊張はしてるけど」と付け加える。「嫌な感じの緊張じゃないし」
「……凛音は大胆」
「誰にでも大胆って思わないでね? 彼氏だから、博希だから懐いてるんだよ? そこはわかってね?」
「わかってるよ」そんなのわかっている。「それを言うなら俺も、凛音じゃないとこんなにたくさん喋れないし、凛音以外の女子に触られたら気絶しそう」
「うん、嬉しいよ。嬉しいけど、さすがにそれはもうちょっと鍛えないといけないんじゃない? 耐性なさすぎ」
「まあ」
「もっと私に触ってみていいよ」
「はは。無理」
「無理って……」
「あんまりベタベタ触ってると、変なことしたくなるかもしれなくなるぞ?」
牽制のつもりで言ったのに「どうせならないよ」と一蹴されてしまう。「博希、なんだかんだいって冷静だし、優しいもん」
「俺も普通に男子だからな?」
「博希、私としたい?」
「うーーん……なんかそういう目で見れないんだよな」と俺は偽らず答える。「凛音に魅力がないとかじゃないよ? 俺にとっての凛音が、やっぱりそういう相手じゃないっていうか……あ、暫定恋愛は楽しいよ?」
「でもエッチな気分にはならないってか」
「……凛音は?」
「私? 私だけそういう気分になるって答えるのも癪だし、もうちょっとはっきり言うね? 博希を襲いたくまではならないけど、博希が襲ってきても受け入れる覚悟はある、よ」
「ふうん」
でも、言われてみると、それだったら俺もそうかもしれない。凛音が本気で迫ってきたら俺はたぶん拒絶しないと思う。凛音が本心で俺を求めるなら、俺は凛音を蔑ろにできない。俺からすると凛音はそういう相手じゃないんだけど、凛音の気持ちを無下にしてしまえるほど凛音を大切に思っていない俺ではないのだ。大切だからこそ、本当にいいのか、確認は取るけれど。
「ま、わかったよ」凛音は一人頷く。「博希をその気にさせるにはもっと頑張らなくちゃいけないわけだ」
「いや、そんな気負わないでね?」
「はい、ちょっとどいて。重たい」
凛音に体を叩かれ、俺は凛音を圧迫していたことを思い出す。「ああ、ごめんごめん」
俺から解放された凛音はソファを降り、「今日は添い寝だけしてみない?」と誘いかけてくる。「なんにもせずに添い寝だけ」
「凛音のベッドで?」
「そうだよ。ソファじゃ狭すぎるでしょ?」
「ベッドに乗っていいの?」
「博希が? 全然いいよ」
「…………」
「私さ」と凛音。「寝落ち通話してて、博希と実際に並んで寝たいなってずっと思ってたんだよ。博希の声聞いて呼吸音聞いて寝てたら、絶対気持ちいいだろうなって」
「そんなに?」
「毎日寝落ち通話してくれるんだもん。そりゃ実際にいっしょに寝たくもなるでしょ」
「…………」なんだかんだで、最初に寝落ち通話をして以降、俺と凛音は就寝時には必ず電話を繋いでいた。談笑する日もあれば何も喋らずすぐ寝てしまう日もあったが、通話だけは習慣のようにしていたのだった。「凛音が毎晩かけてくるからじゃん」
「私かけない日もあったよ? 博希は寝落ち通話嫌いだろうしなあっつって。毎日するのも可哀想だし、悪いし。そしたら博希の方からかけてくれたんじゃん」
「いや、毎晩してたのに急にやめるのも気持ち悪いだろ?」
「苦手なことは無理にやらなくていいから。いつも言ってるでしょ?」
「凛音が好きでやりたいことなら、我慢してほしくないからさ」
「だからって博希が我慢することはないんだよ?」
俺と凛音は見つめ合って、それからどちらともなく笑いだす。「あれ? 俺達ってラブラブじゃない?」
「ラブラブだよ。知らなかったの?」
「知らなかった」マジで。
「いつも優しくしてくれてありがとう。でも、絶対に私に合わせようとはしないで。博希が疲れて無理になっちゃったら、私困るよ」
「自分が大丈夫な範囲でやってるから。気にしなくていいよ」
「……添い寝は大丈夫な範囲?」
「……まあ。家に呼ばれた時点で何かされるとは思ってたから」
「あはは! そんなに警戒しないでよ。普通逆じゃない?」
「そうだよ。凛音にももうちょっと警戒心を持ってもらいたいかな」
「博希がもっと獰猛にならないことには、無茶な相談だな」凛音は俺のシャツを引っ張る。「じゃ、来て。夕方まで寝よ?」
俺は観念してソファから立ち上がり、凛音が引っ張るままに連れられて、部屋の奥にたたずむベッドへと導かれる。まず凛音が寝転がり、俺もそのあと恐る恐る隣に並ぶ。普通にいい匂いがする。男子のベッドとは大違い。こういう香りってどこから来るんだろう。
寝落ち通話とおんなじようにすればいいんだろうか? だったらと俺は仰向けの状態で口を開く。「なあ、部活ってどうする?」
凛音も仰向けだ。「私は入らないけど。博希は?」
「俺も特には……って感じなんだけど、どうしたもんかなって悩んでる。何かしら入っといた方がいい気もするし」
「なんで?」
「いや、人間関係とか? 部活に入ってた方が交流の機会も増えるだろ?」
「まあ」
凛音の声色はあまり愉快じゃなさそうで、添い寝に緊張でもしているのか?と最初は思ったが、そうじゃない。俺は気付く。「あ、部活に入ると凛音と遊べなくなるのか」
一切遊べなくなるわけではないけれど、平日の放課後は確実に埋まってしまうし、土日の自由時間も減るだろう。
「別にいいよ? 博希の学校生活なんだし。博希のやりたいようにしなよ」と言う凛音はあからさまに面白くなさそうにしていて少しだけ可愛い。
可愛いって、子供みたいに拗ねていて可愛いってことだ。「部活はやっぱやめとこう」
「入ればいいじゃん?」
「いや、入んないって」
「なんで?」
俺は笑ってしまう。「凛音と遊ぶ時間が削られるってことに気付いてなかったんだよ」
「なに笑ってんだよ」
言う必要はないんだけど、と思いつつ言う。「可愛いなと思って。拗ねないで」
凛音が仰向けのまま、腕をバシッと俺の腹部に叩きつけてくる。「バカ! 拗ねてないし」
「あいた! 本気で振り下ろすな」
「バーカ」
「ふ」おもしろ。
「……私と遊べなくなってもいい?」
「部活も悪くないんだろうけど、俺は凛音と遊んでる方がたぶんいい」
「うん……」凛音は他にも何か言いたそうだけど、余韻を残して頷くだけにとどめる。「……ねえ、ちょっと狭い。もっとそっち行って」
「えぇ? 俺はもとから遠慮して端の方にいるんだけど?」女子一人用のベッドだからそもそも狭いのだ。たぶん子供時代から愛用しているベッドなんだろうし。「落ちそう」
「じゃあこっち来て」
「そしたら凛音が狭いんだろ?」
「落ちたら困るから。遠慮せずにこっち寄りなよ。ほら」
凛音は体を少しずらし、俺のスペースを捻出してくれる。それから俺の手を取り、こっちに来いとばかりに引っ張る。
「くっついちゃう」
「今さら何言ってるんだよ」と笑われる。「手を繋いでるときの方がよほどくっついてるじゃん」
「それもそうか」
「はい、手ぇ繋ぎながら寝よう」
凛音は俺の手にそのまま指を絡めてきて、仰向けのまま恋人繋ぎに移行する。
「やっぱり通話とは違うよな」
「そりゃ違うよね。二人ともおんなじ場所にいるし」指をにぎにぎと動かす凛音。「触れ合えるし、体温も感じるし、匂いもするし……」
「あ、俺、臭くない? 大丈夫?」
「あはは。好きな匂い。平気だよ」
「ってことは何かしらの匂いがするのか」ショックだ……。
「私の匂いはする?」
「するけど、いい匂い」
俺がそう言うと、凛音が顔だけこちらに向ける。「よかった。いっしょにいる上で匂いは大事だしね。匂いの相性もよくて一安心だ」
俺も凛音の方に顔を向けてみるが、思った以上に近くて慌ててもとに戻す。鼻先が触れるかと思ったほどだ。「ごめん」
「何が?」
「いや……」
「ふふ。体温とか匂いだけじゃなくて、顔も見えるからいいよね」凛音はこちらを向いたままで穏やかに笑っている。「博希の緊張してる顔も見える。通話だと博希が何考えて喋ってるか、全然わかんないときもあるしね。顔見えると安心する。……緊張しなくていいよ」
「しない方がおかしいだろ」
「まあね。私もしてるよ?」
「凛音は落ち着いてる……」
「博希が無駄に緊張してくれるから、私は逆に落ち着けるんだよ」
凛音が指をぎゅっと握ってくる。俺達の指同士に隙間がなくなる。さらに凛音は、握った指先で何やら俺の手の甲をぐにぐに押してくる。
「ん、お、お? なに?」
「手のマッサージ。好きでしょ?」
俺が恋人繋ぎに対して気持ちいいと言ったことを覚えているみたいで、凛音は手の甲だけでなく、俺の指の根本や側面もマッサージするように押したり擦ったりしてくれる。凛音の指は細くて滑らかで、先の部分は赤ちゃんみたいにふかふか柔らかで、ただ触られているだけでも心地よくなる。今は指にばかり意識が集まっているからなおさらだ。
ぼーっとしてしまい、無自覚的に「やば」とつぶやいてしまう。
「んー? なに?」
「あ、ううん。指マッサージ気持ちいい」
「ふふ。こっち向いて?」
「なんで? どした?」と訊きながらも俺は顔を再び凛音の方へ傾ける。ぼーっとしすぎていて、距離が近いこともなんとなく失念している。
凛音はもう体ごと俺の方を向いている。「博希、メチャクチャ気持ちいいでしょ? 顔ヤラシイよ」
「はあ? う、見るなよ」
恥ずかしすぎて顔を逃がそうとするけど、凛音に頬に手を当てられ封じられてしまう。「ごめんごめん。からかわないから、こっち向いててよ」
「恥ずかしいんだけど……」
「恥ずかしくないよ」凛音が目の前で微笑んでいる。「可愛い。博希、可愛い顔してる」
「うっさい」
「ホントに」
凛音は恋人繋ぎをやめて俺の中指だけを握ると、それを上下に擦ってくる。中指が凛音の手に包まれてこわばっている。
「おま、バカか」なんてことをしているんだ。
「へっへっへ」と凛音がわざとらしい笑い声を漏らす。「この動き、好きかなと思って」
「エロ……」
「中指だけじゃなくて、他のところも触ろうか?」
「ちょ、ちょ……」
俺は言葉を紡げない。思考がどこかへ行ってしまったみたいで短絡的になる。凛音なんてそういう相手にはなりえないとついさっき明言したばかりなのに、いや、気持ちの上では依然としてそうなんだけど、体の方が凛音を求めようとしてしまっている。凛音をそういう相手にしたがってしまっている。女子なら誰でもよかったのか、と俺は我ながらショックだったが、それも違うのだと思いなおす。凛音だからこそいっしょにいるんだし、家にお邪魔しているんだし、こういうシチュエーションになっているのだ。他の女子だったらそもそもいっしょに遊ばないし、家にも行かないし、添い寝だって拒否している。凛音が相手だから俺は心も体も許して、今、こうして隣にいるのだ。その結果、とうとう性欲を刺激されてしまっているのだが。
「どうする?」
凛音は俺の中指を元気よくごしごしと擦りながら、もう片方の手で俺の脇腹をなぞる。なぞる指はつつつと下へ降りていき、腰の辺りで止まると、そこを撫でさすりだす。
俺は呼吸もままならない。「り、凛音……」
「うん?」
「お、っぐ、ごほ! げほげほ!」噎せて咳き込む。
「あはは。もう。落ち着いて。焦んなくていいから」
俺は自分の腰辺りに置かれている凛音の手を握る。「……ごめん、凛音。ここまでされると、もうやばいんだけど」
「やばい?」
「したい」
「したくなっちゃった?」
「ごめん」
「いいよ。なんで謝るの?」凛音は俺の中指を解放し、その手で俺の頭を撫でてくる。「私もやばいよ」
「や、やばいの?」
「へへ、やばい」はにかんだ凛音が、そのまま俺にくっついてくる。体も、顔も。俺はすぐに『来る』と察したが、身構えることも戸惑うこともなく、凛音の唇を受け入れることができた。凛音のぷくっとした唇が、俺の口元で柔らかく潰れる。唇の感触を味わう間もなく、俺は緊張と心臓の痛みで、しがみつくように凛音を抱きしめてしまう。抱くというより、本当に、何かを恐れる子供が親に加減なくしがみつく感じだった。必要以上に力が入ってしまう。凛音は「ん!? んうう……」などと呻きながらも、唇を押しつけるキスをやめない。俺の唇の上で、凛音の唇が何度も跳ねる。
俺は頭が沸騰していて、舞い上がっていて、凛音のズボンに指をかけるとすぐさま脱がしにかかろうとしてしまう。この猛りを早くどうにかしてしまいたい。「凛音、凛音……」
「え? ちょ、だ、ダメ! 待って」と言われる。
「え」と俺も手を止める。
「あ、ご、ごめん」凛音は体を起こし、気まずそうにする。「あの、いきなり脱がされるのは恥ずかしいんだけど」
「あ、そうだよな」たしかにだ。「ごめん」普通に脱がしてそのまましてしまおうとしていた。だけど、よく考えるとそんな一足飛びでおこなうものではない。凛音を安心させてあげながら、ゆっくりと進めていかなければいけないのだ。俺はテンパりすぎて自分を見失い、己の欲望にばかり忠実な獣になりかけていた。そうだ。凛音だって初めてなのに。見ると、凛音は微笑んでくれていたけど、手先がちょっと震えている。恐がらせてしまった。「うわ、ごめん。マジでごめんな? 最悪だ」
「や、そこまで重く受け止めなくてもいいよ」
「俺、すごいガツガツしてた……」
「肉食動物になってたね」
「すまん。恐かったな? ごめん」
「いや、そんなんじゃないよ」凛音は笑い、ベッドの上で俺をぎゅう~としてくる。「私もごめん。当たり前だけど、緊張してたから」
「そうだよな……」
「私はどこにも行かないから、焦んなくて大丈夫。ね?」
「うん」その通りだ。「凛音をしっかりリラックスさせて、ちゃんと凛音に確認を取って、順序立てて進めてくな?」
「ぷ」と凛音はちょっと笑うが、「はい」とニッコリする。「お願いします。でもそんなに上手くできる?」
「…………」
できない。ぶっちゃけ、どういうふうに進行すればいいのか、全然わからない。やることひとつひとつはなんとなく知識としてわかっているが、どういう順番で、どういうタイミングでそれらをやればいいのかがちんぷんかんぷんだ。しかも、こうして一度ストップをかけられてしまうと、自分が当たり前だとしている知識すらも実は怪しいのではないかと自信がなくなってくる。知識などと言ったところで、得体の知れないサイトでチラリと読んだような曖昧な記憶なのだ。俺自身には凛音とこんなことをする予定もなかったので、もちろん予習なんてしていない。今のままだと凛音を安心させてあげられない気がする。
凛音が「博希。大丈夫?」と心配そうに顔を覗き込んでくる。「あの、適当でいいよ?」
「いや、適当だとダメだろ」さっきみたいに失敗しそう。「凛音、今日はやめとくか」
「言うと思った~」
「思ったか」苦笑しか出ない。「予習してからにしない?」
「はいはい。わかったよ」
「あ、怒った?」
「怒ってないよ」凛音は相変わらず俺をぎゅっとしてくれているので、怒ってはいないんだろう。でも拍子抜けしたはずだ。「私も今日はここまでするつもりなかったし、あれ?やばいかもやばいかもって思いながらだったし、それでいいよ」
「ならよかった」
「気持ちはちゃんとあったけどね?」
「それは俺もだけど……」でも自分勝手な気持ちしかなかったのかもしれない。しかも、そういう目で見ていなかった凛音にいきなり欲情してしまい、いきなり脱がしにかかってしまった。恥。「なあ、凛音」
「なあに」
「凛音の体には興味ないって言ってたのに、このザマなんだけど……」
「ぷっふふふ!」吹き出されてしまう。「あはは! そんなの、くよくよすることじゃなくない? 女子の体に興味持つのは当たり前でしょ」
「女子じゃないよ」と俺ははっきりさせておく。「凛音の体」
凛音は少し固まってから、また「ふふふ」と笑う。「嬉しいよ。彼女の体だもんね? 私もおんなじだよ」
「はあ、困った」
「何が?」
「いや……」
愛していないのに、凛音の体までもを欲するようになってしまった俺はどこへ向かおうとしているんだろう? 暫定的だけど恋人だからお互いの体を使って構わない、というのは改めて考えるとすさまじい理論だ。とはいえ、じゃあ凛音以外と暫定的な恋愛をした場合、その女子となんでもかんでもやれるか?というのは既に自分の中で確認済みなので、まあ複雑ではあるものの凛音が俺の中で確実に特別なのは間違いない。
「また今度、機会があったらしようか」凛音が俺の懐で脱力する。「今日もありがとう。楽しかったし、ドキドキした」
「よかった」と俺は返すが、雑すぎる返事だったかなと反省し、「凛音は俺にとってかけがえのない存在かも」と言う。今度はちょっと気取りすぎたきらいがあったので、けっきょく「ちゃんと予習しときます」と情けなく締める。