トマトジュースに愛をこめて
12月の初め、コートを重ね着しても意味がないと思い始めた頃、彼は恋に思い悩んでいた。もうすぐ冬休みということもあいまって、授業中は意中の女の子を話しかけずに見るだけという日々が続いていた。話しかけずに遠くから見る生活を送っていた。けど彼は分かっていた。何も知らないというには遅すぎた。この生活がいつしか変わることを、時間だけが過ぎ去ることを。中学の時もそうだった。ただ一切は過ぎていく。それにもかかわらず、彼は気持ち悪いくらいに何もできず、気持ち悪いことをして過ぎていく。それで冬まで来てしまった。彼が彼女を好きになったのは体育祭のことだった。その時は委員会が一緒だっただけのことであった。体育祭の途中に偶然出会い記念に写真を撮った時のことだ。取り終わった写真の中にいる彼女の自信に満ち溢れた様と、そこから立ち去る姿を見て、僕は惚れていたのだ。
クラスでのその子と自分とは全くかかわりがなかった。クラス内での男女仲はそこまで良くないために、話すことなどなかった。女子同士で話しているところをチラチラ見る。いつも早く休み時間が終わるのを待っているかのように磔の時計を見るふりして、見る。こっちがこんなにも何度も見るものだから時々目が合う。目を離して後悔する、そんなことの繰り返し。今日もそうして見ていたら取り巻きの一人と目があった。そこからその人は自分の方へと近づいてくる。これはもしかしてまずいのかもしれない。顔はいかにも不機嫌という体でこちらを睨んでいる。やばい、まずい、どうにかしなくちゃ。けどどうすればいいんだろう。クラスメートを舐め回すように見ている僕にどうして懺悔の機会が与えられるだろうか。もうどうしようもなかった。その人は僕にはっきりと聞こえる声で「死ねば」そういった。僕には下を向くしかなかった。やっぱり磔の時計は苦しかった。
結局その日はほとんど授業が耳に入らなかった。大抵の時間は寝て過ごし、休み時間では時折くる友達と喋りながら時間を潰していた。帰りの挨拶が終わるとあの人はそう時間も経たずに教室を出ていってしまう。なんでもいつも部活の人と帰るのだとか。話しかけることもできずに僕の視界はあの人を捉えながら視界はやがて壁へとぶち当たってしまう。そうしてからなんとか立ち上がり、箒を撮りにロッカーへと向かう。掃除用具があるはずのロッカーの中には教科書や弁当箱が入っていた。そうなのだ。このクラスではこういうしょうもないことが起きているのである。いじめられているのは僕の二つ前に座る人。真面目な人なのだが、少し前にクラスの女王様に注意したのがことの発端だそう。その頃から少しずつものが隠され始め、今ではこんな有様になってしまっている。俺は一つ自問してから掃除を始めた。
自分が嫌い。他人のせいして逃げていく。良い人言われるから周りはそれに気づかない。いつかそれに気付かれるのが怖く今日もメガネを玄関の鏡を見ながらつけてみる。あぁ似合ってる。こんな自分にどうしようもないほどに似合ってる。周りがだんだん見えなくなる。成長という名の脱皮は僕にはできず、出来るのはただメガネの厚さを増やすこと。
傲慢な老害が嫌い。支えられていたことを何も考えず、全て自分の手柄だと思い込み、若いやつを潰しにかかる、人生の時間が余りその余りで公園を独占する。
タトゥーを入れるようなやつが嫌い。借り物の模様で自分を表現しようとする。自分の体をも大切に出来ない奴がなにを守れるのだろう。
イルミネーションが嫌い。作ったやつの魂胆が透けて見えるから。あんなん綺麗でもなんでも無い。ただのゴミだ。それにほいほいクリスマスで引っかかるアホたちだって嫌いだ。
髪切った?という奴が嫌い。廊下ですれ違う去年のクラスメイト、そこまで仲良くはないクラスメイト、無視するには時間が経たなすぎる様相、手持ち無沙汰な話題で喉から出てくる二酸化炭素。だから彼らは僕が髪を切るとこぞってその話題を出しにかかる。6限目にはもうそれは味のないガムだ。
12月3日のことだった。その日は劇の練習だった。僕らが公園に来た時、いつも使っていたベンチは頑固そうなじじいに陣取られていた。仕方なく隣のベンチに場所を取り、衣装に着替えてからお菓子を広げ始めた。大概が公園でくっちゃべっていて、真面目にやる奴などいるはずもない。出る杭は打たれる、無難であることが最も良いことである、これが義務教育で学んだことだった。隙を見せず、弱点を見せない。そう知ってから、僕らはこの劇なんかは些細なものである、そう納得していた。飲み込んでいた。だから今日もお菓子なんかを交換していた。こんな時も僕の脳裏には彼女の姿が焼き付いている。隣のベンチに座っていたじじいは立ち上がってこっちを首をかしげながら凝視していた。そんなことを気にはせず僕らはお菓子をむさぼる。けれどもじじいはこっちに近づいてきた。こっちに来たと思うとじじいは凄まじい剣幕で
「ちゃんとやれや」
そういった。じじいは続けた。「お前の衣装が珍しくてここからどんななるんかな思ってワクワクしとったのに、なんやそれ。お前らは遊びやというかもしれへんけど本気も遊びもあるか。思い立ってここにおるんやったらちゃんとやれや。」しわしわのシャツをズボンから出しているじじいは思いっきりこっちをにらんだ。不揃いな服のじじいを見ながら一人が大きく叫んだ。たいして役でもないけど、脇役にもほどがあるけど大きく強くセリフを叫んだ。つられるように僕らも叫び始めた。それは理性を持った動物園みたいだった。周りの子連れは子を抱きかかえ、迷惑そうな顔をして帰ってしまったけど、そのじじいだけはひどく真剣な目をして見ていた。じじいは手拍子を始めた。一人だけの手拍子なんてひどく不格好なものだけどそれでも僕らは必死に演じた。中盤に差し掛かる頃には声は枯れて出なくなっていた。いつの間にか季節外れの大雨が降った。僕らはその雨水を飲んでのどを潤し声を出した。エンディングを迎えたときじじいは手が真っ赤になるまで拍手をした。興奮が覚めるはずもなくじじいと僕らは踊り始めた。僕ら以外はもういない公園だったけど、それがかえって僕らを勇気づけた。それは僕らの独壇場だった。まったくもってリズムは合わないけどそれがいいと思った。雨が僕らに対する讃美歌のように聞こえてきた。拍手は僕らが踊り終えても響き続けた。
翌日学校には僕らに対するクレームが多く入っていた。僕らを怒った先生は嫌われていた。僕らが持つ教師像とはかけ離れていたからだろう。あるいは僕らに似すぎていたのかもしれない。怒っているはずなのに目は僕らには向いておらずほかのところを見ているようだった。そういうところから来るのかもしれない。僕らの一人が劇の台詞の一つを叫び始めた。彼は叫び続けた。そこにもう一人が参加し始めた。もう一人、もう一人、と叫びだし全員が演じ始めた。順序も何もかもバラバラだったけどそうして初めて先生は僕らを見て怒った。髪は逆立ち、目はつり上がっていた。僕らは真剣に説教を受けた。先生は感情をむき出しにして、思いっきり怒った。いつも身に着けている少し華美なネックレスが揺れに揺れまくった。みんなからは嫌われている先生だけどその時僕はその先生が嫌いじゃなかった。説教はそうして2時間近くも続いた。僕らは満足して教室に戻った。別に僕らが何かできるわけでもないし、先生という職業をやることは本当尊敬に値する。僕らのような生徒を怒らなくちゃならないのだから。
帰り道、遊び帰りの小学生とぶつかった。彼らは謝りもせずにどこかへと行った。たぶん彼らにとって今のは電柱にぶつかったのと同じようなものだ。怒る気は起こらなかった。むしろ喜ばしいとさえ思ってしまった。見たいものしか目に映っていない、その小学生がなんだかひどく羨ましかったけど彼らもいずれ怖い電柱にぶつかる。見たくないものを見なくちゃならない日が来る。それは偏屈で穿った見方かもしれないけど、『成長』と呼ぶにはひどく暗くて残酷な話のように思えた。怖い電柱がせめて愛を持っていて欲しいと思った。夕日は綺麗なのにひどく寒いとそう感じた。
冬の朝は厳しい。地獄の最奥にいる極悪人でさえも教室の角まで掃除する三つ編みおさげのメガネ委員長でさえも布団から出たくないだろう。3度目のアラームを聞いたところでメガネを取り、5度目のアラームでベッドを出た。こんな朝にはコーンスープを飲みたいと思うけどせっかく用意されているとくのとうに冷えた朝ご飯に自分でもう一つ足すのはおよそ失礼にも感じる。出されている牛乳で気を紛らわす。鏡を見ながらコンタクトを入れるのに苦心する。女はメイクのために早く起きるとよく言う。あの子もそうして支度をしていると思っていると、コンタクトを落とし排水溝へと流れてしまった。仕方なく冷たい水を2,3度顔に叩き入れた。誰もいない家に挨拶をして家を出る。思えば十何年も生きているのに家を出ると冬の寒さに身震いする。そうして目が覚め始める。いつもより一つ遅い電車に乗りゆらゆらと揺れる。その揺られる時間、苦痛が始まるまでの閑話休題。そうだという社会人も少なくないだろう。長くて目を背けたい時間。目を背けるために彼らが何をするんだろう。スマホを見ながら、車窓からの風景を見ながら、何を思うんだろう。そんなことを考えていたわけではないけど、それでもなにかを考えていたかった。苦しくて辛い時間だから。決められているものはやっぱり息苦しい。車窓を見ながらそう思った。こんなことを考える同士がいないかと周りを見渡した。右を見るとみんなが小さい金属に顔を吸い込まれていた。左を見ていると、女子高生か赤面しながら外を見て後ろのおっさんがにやけながら外を見ていた。要するに痴漢である。さすがに何とか助けたいと思っていたら、タトゥーが入った右手のない男が叫び出した。すると呼応するようにガールズバー衣装の女も叫び出した。そこからはもう止まらない。おっさんに向けてみんなが叫ぶ。自分だって叫んだ。おっさんは耐えられなくなり次の駅でそそくさと降りようとした。けど彼らは許さなかった。暴走と言っていい。ホームを降りた後も叫びながらどつきまわした。いつの間にかおっさんは座り込んで泣き出し、挙げ句の果てには漏らしてしまった。中年のおっさんが座りこんでもらしながら泣くなんてこの世に地獄があるのならそれよりもはるかに惨めに見えた。警察が遅れてきて現場を取り押さえていた。皆が興味本位で見たり、女の子を心配する中、タトゥーの男とガールズの女はそこを立ち去った。竜のタトゥーはもう浮き上がって見えた。
朝のチャイムに遅れながら来ると、昨日のサッカー中継のワンシーンが教室で話題になっていた。まだどうにか授業は始まっていないらしい。結果としてはブラジルが買っていたのだがエースの立ち振る舞いが少し反響を呼んでいた。それがこのクラスでも話になっているらしい。「あれはファールだね、どう見たってひどすぎる」「転ぶのはそっちのチームの十八番だろう。舐めて真似しやがって。これだからブラジルは応援できない」「それを言うのならそっちも大概だろ。何言ってんだお前」自分はバスケットボール一筋だからサッカーを見ると危なっかしいスポーツだといつも思う。あれが最も有名なスポーツだなんて言われるとなんとも言えない気持ちになってしまう。バスケの方がずっと魅力的だと思う。けど、確かにサッカーはひどく人間味のあるスポーツだと思う。そんなことをこの二人から思う。時計の針はまだ9時過ぎを指し間延びであくびしたようなチャイムの音が僕たちに座ることを強制し始める。
家に帰った後、一つの絵本が目に入った。[オズの魔法使い]小学校の時に親に買ってもらったものだ。内容はいかにも童話らしいものだった気がする。オズという魔法使いは魔法使いじゃなかった。それでも主人公たちは各々の希望を叶えることができた。それはまさしく魔法使いであろう。
塾終わりの帰り道、あたりはもう真っ暗で近所の家のイルミネーションがひどく輝いていた。毎年のことだから慣れたけど毎年すごいなと素直に感心する。一人のおばちゃんがそのイルミネーションを指でカメラを作って撮っていた。なんとなく近づいて行った。先に話しけたのはおばあさんの方だったような気がする。
「こんばんわ」「ええ、こんばんわ」こちらを見ずにおばちゃんはイルミネーションを見ていた。しばしの沈黙が流れた。沈黙を耐えきれなかったのは僕の方だった。
「イルミネーションがお好きなんですか?」おばあさんは微笑みながら言った。「ええ、最近は遠出できなくてここのものしか見れなくなってしまったけど。あなたはどう?お好き?」別に本音を言う必要などあるはずがなかった。けれど僕の口から出たのはいつもはひた隠しにする真っ向からの本音だった。
「僕は少なくとも好きな方では無いですね」
「そうかい、なにか嫌なところでもあるのかい?」
「なんというか人の影が透けて見えちゃうというか、僕は自然なものが好きなんですよ」こういうことはあんまり言ったことがなかった。クラスで話題になるのは好きなものであり嫌いなものじゃない。
「私もそう思ったことが何度かあったわ」そうおばあさんは懐かしそうにむかしを見ていた。
「でもね、あるとき考えが変わったの。夜景を見に行ったときのことかしら。夜景って言いようがなく素晴らしいものじゃない。たとえあなたや私でも綺麗と言い切れるものじゃない」たしかにそうだ夜景はひどく美しい。あの圧倒的なスケールに否応なく私たちは取り込まれるのだ。
「けれど夜景が作り出すのは人なのよ。人が作り出すものに私たちは感動しうるのよ。だってあれには夜景を作り出す人生が後ろにいるのだから」夜景は日本の残業の象徴だとよく言われる。だからあれは良くないだとか言う人もいる。けどいざ夜景を目の当たりにしたとき誰も何も言えまい。そこには人生があるのだから。
「イルミネーションだって同じことなのよ。確かに儲けようとかお金を得ようと考えるひとが企画する。けど実際に作るのは作業着のおっちゃんよ。小さい子供に喜んでもらいたい靴下に穴の空いたおっちゃんよ」おばあちゃんは僕の方へ微笑んだ。そのしわの裏には時間の重みが隠れている。
少ししてからこれは夢だと分かった。その中であっても彼女はこっちに振り向かない。夢の中でさえ振り向かない。ほかの全てはうまくいってもうまくいかない。中学時代の同級生と遊んだり、長いトンネルで鬼ごっこしたりさまざまなことをして最後に彼女が出てきた。そんなところでも彼女はこっちを見ずに誰かと話している。三回ぐらい時計を僕は見てから意を決して話しかけた。「ねえ」
その時には現世へと戻っていた。布団から出て朝食を摂る。どうにも胸騒ぎがする。夢の中で何があったんだろう。ぼくにとってこの数日はあまりにも大きすぎる。心の芯が揺られるのを感じる。モヤモヤして電車に揺られて坂を上って学校にたどり着いた。教師机には1つのポストイットがあった。そこにはボールペンで教室の暖房が思ったよりも暑く、上着を自分の席で脱ぐ。脱いだ時に彼女を垣間見した。たまにしかしない髪型をしていた彼女を見て僕はマスク下でにやけた。同時に胸騒ぎがした、頭が痛くなった、視界がぼやけた。黒板を見ていたはずが目線が上を向き、視界は磔の時計へと移り、蛍光灯を見たあたりで誰かに腕をつかまれた。
気がついた時には自分は保健室にいた。窓から差し込む光も恋する女の子などいるはずもなく3方向からのカーテンしか視界には映らなかった。こんなところにいてもどうしようもないと思い、頭痛を抱えながらもベッドを出て手短に保健室の先生に礼を言い、保健室を後にした。教室へと戻るはずの身体はいつの間にか階段を上り、屋上前のドアにいた。金属錠がついたドアは開く気配はなく、仕方なくドアを背もたれにして座っていた。こうしているとある種の罪悪感が湧いてくる。昔は優等生だったからだろうか。この感情は休日にも出てくる。一人で決めたことすらもできなかった午後4時や誰とも話さず一人だったと感じる13時にもわいてくる。ひどい話だ、独りが罪だなんて。この悪癖はいつ直るんだろう。なぜか独りで苦しみ、独りで自分を追い詰める。こういうことが起きるたびに自分に呆れて仕方がない。頑張れという声援と頑張ろうという自意識が自分をさらにだめにする。明日には一歩、明後日にはもう一歩後ろに転んでいる。明日は明日の風が吹かないし、やる気スイッチなんてものはチンコぐらいにしかついていない。ことわざも名言も何も役に立たない。一寸先はもちろん闇だし、足元だって真っ黒だ。手を壁につたらせると、ひびが残っていた。自分の味方がこれしかないような気がした。安心して気付いた時には目を閉じていた。
次に目を覚ましたのは人の温度がしたからだ。知らぬ間にいつの間にかそこにそいつはいた。いることには特段驚かなかった。多分それは彼がここに馴染んでいたからであろう。彼はどうしようもないほどにここの人間で自分が異質のように感じた。今さっきのひびでさえも彼の家族な気がした。
「おぉ、2本買っといて正解だったわ」自分は彼のことを知っていた。学校の中でも有数の問題児として知られていた。意外にも端正な顔立ちで、けれどその眼には確かな強さがあった。「いつもあなたはここに?」そういうと彼はニッと笑った。「暇な時間は大体ここさ。それにあなたなんて言わなくていい」「ではなんてお呼びすれば」その人は少し考えた。「守屋って呼んでくれや」名前を出すのに悩むことなんてあるだろうか。僕の周りでそんな人はいない。満足そうな顔をしてから守屋さんはコートの内側を探り紙のトマトジュースを取り出して僕に差し出してきた。「これでも飲めや」守屋さんはさなから缶コーヒーを開けるようにしてトマトジュースを持ち、飲み始めた。ストローが赤くなりまた白くなってから守屋さんは口を開いた。「お前、ダメなやっちゃなあ。授業さぼるなんて」なんだかよくない気分だ。「それをあんたが言います?」聞いて、守屋さんは愉快そうだった。「そりゃそうやけど俺はここにいなくちゃならんのよ。君みたいな優等生を導くためにな」そういいながら守屋さんは壁をドラムにしながら90年代の歌を熱唱し始めた。何となく直感が働いた。守屋さんは全くもって次元が違う。ドラムにテンポやリズムなどありはしなかった。もはやもとあったスタイルはなくなっているように思えた。けれど決してその曲をなきものにしてはいなかった。違う。僕とは全く。逆に、公園のじじいやタトゥーの男やガールズバーの女やイルミネーションの婆ちゃんと似ている気がした。この人なら何かを教えてくれる気がした。ドラマ体の興奮すでに最高潮であった。左手に持っていたトマトジュースにストローを刺し、一気に飲み干した。甘と酸が交じり合いドロドロともさらさらとも似つかず僕の喉を通っていく。血液が心臓から全身へとめぐっていくのが分かった。とても気持ち良い。それを守屋さんは満足そうに見ていた。「 ええやろ、ええやろ」「トマトジュースは無塩じゃダメなんよ。最近はそういう体を気い遣っとんの多いけど、それはちゃう気がするわ」さっきの感覚から僕もそんな気がした。背中にある開かずのドアにはほんのりと温かみを感じる。「お前なんか抱えてるやろ。何を抱えてるんや?」興奮の最中のいまの自分でさえも口を開くことができなかった。それを見た守屋さんは僕が見ていた窓を見ながら
「決めつけるのはようないけど、お前は苦しみは抱え込むものやと思ってるやろ。周りにこんな低級な苦悩を知られたくない思て、俺は別にそれは悪いことじゃないと思うねん。よく一人で悩みを抱えないゆうけど一人で苦しむことと同じぐらい人に相談するのも難しいことだと思うねん。だからって一人で抱え込むのもつらいと思うねん。考えたって何も見つからん日もあるし、明日になったって何も変わらんもんな。そうやと何か死にたい思う奴がいたっておかしくないと思うねん。けど誰も死ぬことを許さない。誰もそんなことを決して許してくれないねん。それで八方塞がりに感じてしまうかもしれんけどな、実は後ろってなんもないねん。だから後ろに下がってみると良かったりするねん。これって逃げだっていうやつがおるけど逃げて何が悪いねん。逃げれずに死んだり苦しんだりするよりはるかにええやろ。苦しむことも修行だとかほざきおる奴がおるけど体を追い込んでもええけど、心は追い込んだらあかんねん。俺とか時々昔の漢字ドリルとかやってたりするねんけどそんなことしてると教師から怒られたりするねん。けど別にええねん。周りから笑われたりするけどそれでもええねん。笑うやつには笑うやつしかできんことがあって、笑われた俺には笑われた俺しかできんことがあんねん。それをわからんくなってるやつが大勢いるんだけどそれっていっちゃん忘れちゃならんのよ」
話が終わるころには僕は泣き出しそうになっていた。そんな自分を横目に守屋さんは云った。「ええで」それを聞いて、ぼくは泣いた。赤子のように、何も包み隠さず、マスクの下はずぶぬれになっていた。それでも気にすることは何一つなかった。ひとしきり泣き終わった後、守屋さんが先に立ち上がり「ちょっとついてこうへん?」学校を抜け出して見知らぬ橋の上にいた。下には電車が勢いよく走っていた。守屋さんは腕を手すりにかけて下を見てそれから指を指していった。「あれ、見えるか。栄養ドリンクの瓶」それは確かに存在していた。足先の少し前にある物置の上に名も与えられず、守屋さん以外には誰にも見られることがないような物置の上にあった。それを物置というのでさえおこがましいかもしれない。瓶のラベルは剝がされ中身はない、価値のないゴミだった。「俺あれがなくなるまで死ぬつもり無いねん、100歳でも120歳でも死ぬつもりないねん」守屋さんは誰もが通り過ぎるものに価値を見出していた。こんな脆くてなくなりそうなものに。「今こんな脆い物にって思ったやろ。ちゃうねん。それがええねん。こんなすぐにでもなくなりそうな空き瓶がずっと残っていることが美しいねん。かっこええねん、意味があんねん。だから自殺を考えてるやつっておるけど、言い方悪いかもしれへんけど、めっちゃかっこええねん。地球で一番かっこええねん。死と隣り合わせやから。けど残念なんは自分がかっこええと気づかずに死んでしまう本人やな。それってすごい惜しいことやと思うねん。だからな、今のお前はめっちゃかっこええ。どんなアイドルよりも。だから誇り持ったらええねん。もっと前見たらええと思うで」やっぱり僕は我慢できなかった。守屋さんの声に僕は自然と涙がこぼれていた。「ありがとうございます」涙ながらに僕は言った。「俺はなんもしてへんで」一つ間を取って守屋さんは云った「お前はかっこええで」
学校に戻った僕と守屋さんは当然のごとく怒られた。守屋さんは怒られていることがわかっていないように思えた。僕は多分馬鹿かもしれないけど守屋さんは守屋さんで生粋の阿呆かもしれない。尊敬する気があるわけではない。僕の方はというと居なかったことよりも守屋さんと一緒にいたことを怒られていた。これが怒られている訳なら笑うしかない。笑うと守屋さんよりも怒られる時間が長くなりそうだった。それは何だか気に食わなかったからいかにもという顔で反省を示した。窓の先に映る自分はかっこよく笑っていた。
帰り道、空のど真ん中に満月が映っていた。かぐや姫はあんなにも寂しいところに帰ったのだろうか。そう思った時だった。周りの星々が一斉に輝きはじめた。なんて輝いているのだろう。踊っている。かぐや姫が羨ましく感じるほどだった。僕はもうこれを見たとき、腹積もりが決まっていた。
次の日昼休みに二人で歩いていた彼女を見つけた。こっちに向かってくる。10m 7m 5mと、3mほどの時声を出した。
「笠原さん、好きです。付き合ってください」
彼女は驚いて、その後
「ごめんなさい」
顔を上げた彼女は笑っていた。満月と思い込む月の下での今宵はトマトジュースが美味しくなる。
是非ぜひ感想ください!!!




