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鍵バトルって覚えていますか、と園子が聞いた。
「尾崎さんは当時ここへ来たばかりであまり印象に残ってはいないかもしれませんが、中等部や高等部に新しくあがった時、新一年生の間で行われる人気争いというか、勢力争いというか、ま……そんなようなものです」
「なんとなく気づいてはいたよ。あなたと妃穂の二人で戦ったんだっけ?」
「そうです。その鍵を保持している先輩たちから、いかにして期限内に鍵を譲っていただくかというゲームなのです。これで私たちは通算3回、やりあいました」
「三回?」
「初等部一年の時と、中等部一年の時と、この四月と。実はわたくし、前の二回は高橋さんに完敗しているのです」
「完敗。あなたが」
そう、と園子はうなずいた。
「あの人、実は凄いのよ」
「ほう?」
「わたくしはわたくしで自信があって挑んでいるのに、あんな、縁側で猫抱いて日向ぼっこしているばあさんみたいにのんびりした人に、いつもいつも叶わないの」
「あのう、せめて『猫』の方にたとえるとかですね……」
園子は晶の呟きを無視して言う。
「でも今回はね、負けたのは同じでも僅差だったの。わたくしのお友だちは単純にそれを喜んでいるけど、わたくしはそんなふうには思えなかった。歯痒くて、じれったくて、しっかりしなさいと言いたい反面、なんだかがっかりもしていて。気が抜けたというより、失望したのよ」
晶は沈黙で先を促した。園子は続ける。
「わたくしに負けそうになって今度こそ奮起するのかと思ったら、今回もまた前の二回と同じ! バトルの期間が終わったらのほほんとなってしまって、生きてるんだか死んでるんだかわからなくて!」
晶が黙って聞いていると、園子は大きなため息をついてから続けた。
「出し惜しみ。あの人は、まさしくそれ。高橋家の当主としてのことだって同じよ。どんなことでもそうですけど、逃げ続けていると結局悪いほう、悪いほうへと進んでいくものです。あの人は、当主として家を率いていく覚悟も決められないくせに、分家筋の大人たちの言いなりになるのもやっぱり嫌なんですもの。それからもうひとつ、腹立たしいのは茨木貴子です」
「茨木?」
「そうです。一番近くで支える立場でありながら、わざわざ主人を甘やかして!」
「はははは」
一にも二にも妃穂の世話が最優先で、自分のこともその他の人間のことも後回しである茨木のことを思い出して、晶は苦笑した。
同室という立場で観察していると、そういつもいつも甘やかし放題というわけでもないのだが、園子の目からはそう見えるのだなと思った。
「そもそもあの人があんなに中途半端な原因のひとつは、茨木さんにあると思いますよ」
高橋家の次期当主になることが確定していながら、いつまでたっても腹が据わっていないように思えるところが、いかにも責任逃れしたがっているようで大嫌いなのだと、園子ははっきり言い切った。
「えーとあの、ひょっとしてあなたたちが仲悪い原因て、それでしょうか」
「そうよ」
これも園子は言い切った。
この春聖葉に来た晶にはこの二人の過去の確執はわからないが、ことあるごとに意識しあい、冷たい火花を飛ばしていることは知っている。
彼女たちは、とりあえず表面上は取り繕うということすらせず、廊下などで行き会うとつんとあごをもたげて顔をそむけあうのだ。
そしてまわりの少女たちももはやそれが当たり前で、それはそれで日常の風景だとみなしている。
それは初等部のころから続いている犬猿の仲なのだと聞いていたが、そんなところに根があるとは驚きだった。
「え、ってことは桐生さん、初等部1年の頃にはもう、今みたいなこと考えてたってこと?」
「そうです。まあここまできっちり言語化できていたわけではありませんけど、気持ちの部分は変わっておりませんね」
「ずいぶん大人びてたんだねえ」
「そうね……今にして思うと、そうかもしれないわね」
園子は視線を情報にさまよわせて我が身を振り返った。
「確かに、年の割には早熟な子供だったかもしれません。ずいぶん早くから自分が桐生家の次期当主なのだと知っていたし、それにふさわしくあろうと決めていました。権利を行使できる立場にいることと、義務を果たさなければならないことはイコールだという自覚があったので」
「できすぎてて怖いよ、そんな子ども。あたしがそのくらいの頃ってどうだったかなあ……。絵描きだった父のまわりで、その土地の子どもらと一緒くたに転げまわって遊んでたよ」
「そういうのも、楽しそうだこと」
園子は言って、本当にやさしく目を細めた。
そして次の瞬間にはそれを一転させて、厳しく眉を吊り上げた。
「ですから、わたくしは高橋さんのあの、いつまでたっても腹を据えないところが大嫌いです。見ていて苛々します」
え、と晶はそれを聞いて思ったことがあった。
もしや。まさか。いやでも。
心の中で一度溜めてからおそるおそる口にする。
「もしかして、やめる理由、それ?」
返事はない。
だが返事がないことがまさに真実をついた証拠のような気がして、晶はもう一度聞いた。
「いつまでたっても妃穂が中途半端だから、それが歯がゆいからやめるの?」
やはり、返事はない。
園子はうつむいており、長いまっすぐな髪がその横顔を隠している。表情は見えなかった。
「もしかして、待ってたの?」
「……だって!」
長い沈黙の末に、園子は吐き出すように言った。
膝の上に上体を突っ伏して、顔を伏せた格好のままで言う。
「だって、他に、もう、ここでしか手に入れられないものなんてないし」
かすれた声で途切れ途切れに言うのを聞きながら晶は思った。
妃穂と会うのをものすごく楽しみにしていたんだ。そして、期待もしていたんだ。
妃穂がいつまでたっても自分の立ち位置を決めないことに焦れていたけど、次期当主として生きることがどんなに大変なことなのかも実感として知っていたから、妃穂が自分自身で決めるのを待っていたのだ。ずっと。
「初等部から数えて10年です。10年待てばもう充分でしょう」
園子は膝の上に突っ伏したまま手探りで酒瓶をつかむと、くっと一口あおってからまたすぐ顔を伏せた。晶が表情を盗み見る暇もなかった。
「だって、もう、疲れた。ずっと一人で」
「一人じゃないでしょ。桐生さん、友だち多いじゃない」
言うと、顔もあげないまま園子が左手をひらめかせて晶の体をぶった。
「弱音も野望も両方ぶつけられる人なんて、誰もいません」
「あたしは?」
「え」
「あたしじゃだめ?」
「なんですって」
間の抜けた声を園子は出した。
と同時に、伏せていた顔をほんの少し持ち上げる。
その顔が、ゼンマイ仕掛けの人形のようにゆっくり横を向く。
晶の方を向いたその顔は、思ってもいなかったことを言われたというように無防備だった。
「だって、あなたは、高橋さんの」
園子はどこか力なく言う。そこへ、すかさず晶は畳み掛けた。
「聖葉のルールでは、妃穂と親密だと、もう他の誰とも仲良くなることはできないの?」
そういう、わけでは、ございませんが。
迷いながらためらいながら園子はつぶやく。晶は続けた。
「あたしが妃穂と特別親しいとみなされてるのは知ってるよ。その通りだよ。だけど妃穂と友達のままであなたの支えになることはできないの?」
園子はじっと晶の顔を見つめている。
けげんそうだった表情はゆっくり変化して、いつしか真顔になっていた。
「あたしじゃ桐生さんのいろいろな事情をわかってあげられなくて物足りないかもしれないけど、もうしばらく辛抱して」
「しばらく? っていつ?」
「いつってはっきりとは言えないけど。いて」
園子が肘で強く押したのだった。晶は続ける。
「だってそれはさ、それこそあたしは妃穂と会って間もないし。その辺かかる時間は、はかりかねますよ。でもあたしの勘だけど、そう遠い話ではないような気がする。妃穂って、桐生さんが思ってるほど、閉じた感じしないもん」
「だからって」
「大丈夫。そのうち、覚醒するから」
「そのうちってそんな、あてどもない話」
園子は薄く眉間を寄せて言った。
だが険のあるというよりは、気安くむくれているという感じだった。
「約束する。妃穂は必ず覚悟を決める。そしてあなたと対等に語り合える相手になる。必ずなる。その時きっと思うよ。あの時あきらめなくてよかったって」
小さく園子が微笑んだ。
「やめるの、やめようよ」
「……また、あなたはストレートなおっしゃりようを」
「だってもう、やめる理由がなくなっちゃったじゃない。今日明日というわけにはいかないけど、妃穂は変わるよ、約束する。そしてそれまでの間、あなたにはあたしがいる」
「だって……」
「なに?」
「だって、もう書類だって支度できてしまっているし……」
「それは、桐生さんがやめるって言ったから話が進んじゃったんでしょう。やっぱりやめないって言えば簡単にひるがえるよ」
園子は自分のあごに指をあててしばらく考えていたが、やがてからになって転がっている酒瓶を指差した。ゆっくり言葉を選ぶ。
「あなたはこのこと」
「んん?」
晶が焼酎の瓶を手にもって、飲み口をくわえながら鼻声で聞き返す。
「知っても、怒ったり眉をひそめたりしないと思いました」
「まあ、しないね」
「言いつけたりもなさらないのではと」
「しないね」
晶が瓶を床に置いても、園子はもう待ち構えていたように奪い取ったりしなかった。両腕で膝を抱えて静かに言う。
「でも叱るかとは思った。なぜ叱らないのかそれが不思議で」
多少の規則違反に目くじらを立てて怒るほど、晶は堅苦しい生徒ではない。
そこは園子も知っている。
だがその生徒が明らかに自分の義務を果たしていないときや、不貞腐れて卑屈な態度をとったりしていると、晶は即座に的確に、叱る。
自分の今回の飲酒は明らかにやけっぱちだ。それは自分でもわかっている。だから少々不思議に思って聞いたのだが、
「んーまあ」
晶は首の後ろ側に手を当てて、ちょっと下を向いた。
「自分を信じて努力している人間は後押ししたくなるし、好もしいし。そういう人間が多少馬鹿なことしてたとしても、あたしは叱る気にはなれない。それで嫌いになったりもしないし」
園子が黙っていると、晶は続けた。
「あとついでに言うと、大した奴だなと思って内心認めてる人間のことは、なかなか叱れなかったり、することもあったりなかったり……」
まあ、と園子はつぶやいた。
「やだ、どうしましょう」
園子は少し驚いた顔のまま、ぽんと手の平で晶を叩いた。そこにいることを確かめるように。
晶はされるがままになっている。
ぽん、ぽん。園子は続けて晶の体を叩く。はじめのうちはごく軽く、そして次第に力強く。
「どうしましょう。わたくし、まさかそんなに手放しで褒めてくださるものとは思っていなかったわ。それ、褒めて下さってるのよね?」
「褒めてるよ?」
にこお。園子の顔が、嬉しくて仕方ないというようにゆるむ。
ぽんぽんだった手の動きにだんだんスナップが加わり、ばしばしに近い音になり始めたが、それでもまだ晶はしたいようにさせていた。
「もともと、頑張ってる女の子ってあたし好きだし。あと決定的にいいなと思ったのはさ。桐生さんて黙々と頑張るじゃない? 愚痴ったり文句言ったりしながら嫌そうに何かするんじゃなくて、淡々と凛々しくやるべきことをやるじゃない。あたしはそこが好きなの。だから妃穂との確執はおいておいて、できたら仲良くなりたかったんだよね」
「ウエルカム、尾崎さん。喜んで。まったく問題なくってよ」
「ただ酒の飲み方についてはちょっとたしなめたつもりあるよ。さすがにこれはね。……って、黙ってやらせておきゃ、痛い!」
「ほほほほ」
ほほほじゃねー、と晶は園子の手首をつかんで大人しくさせた。
「桐生さんて、意外と馬鹿力」
自分で言ってしまってから、晶ははてと首をかしげた。
ひょっとしてこの人、今ごろ酔いがまわって……?
そう思ってみればこの肩の力の抜け具合、歯止めがきいていなさそうな笑い方、酔っ払い特有のものだ。
今更かい、と思いながら晶は園子を正気づかせるように、手首をつかむ手に力をこめた。
「あのねえ桐生さん、もしね。あなたがこの先あんまり妙なことしたらその時は叱る。言っとくけど、あたしが叱ると怖いよ。こら聞いてる?」
聞いてましてよ、と機嫌よく笑う顔にはしまりがない。
だめだこれは、と晶は園子の手を離した。
焼酎の瓶に手を伸ばして、きつく蓋を閉める。
「もう今日はおしまい」
えーとどこから出したんだったかな、と記憶をたぐりながら酒瓶を元の場所に戻す晶を、園子はなにも言わずに見ていた。
「続きはまた、今度ね」
わかったの?返事は?とにらむ晶に、園子はふふふふと含み笑いで返した。
晶はげんなりした顔になる。だから、ふふふじゃないって。
「これからは、いいことや嬉しいことがあったときだけ飲むこと。あたしも付き合うから。約束して」
その時。
ガチリと音がした。カチャカチャと金属と金属がこすれあう音。
扉の鍵を、外から舎監の紀佐先生が開けようとしている音だと気づいて、二人は一瞬で真顔になった。ことに園子は青ざめている。
「いやだ、中まで入ってくるなんて今まで一度も」
「大丈夫、窓から逃げるよ。早く空き瓶隠して」
「その、つもりですが……」
園子が懸命に掴まり立ちしようとしているのを見て、晶がジンとアクアヴィッツの瓶を引っつかんだ。
「これ、どこ?」
「岡本かの子の全集の後ろ……」
「誰、岡本かの子って」
眉間にしわを寄せて聞き返す晶に、園子が舌打ちした。
「岡本太郎のお母様よ、そこじゃない文庫の棚! アクアヴィッツはトルストイの後ろ!」
「だって知らないもん!」
「無知!」
「偉そうな! 足腰も立たないくせに!」




