ググれ!・後編
文字数制限のため、前後編に分けさせていただきました。同時刻にアップロードした前編よりお読みいただけると幸いです。
3
稔が三年生になると、日本の教育制度が大転換した。学校から中間試験や期末試験、スポーツテストといった一切の試験がなくなった。代わりに年に一度、児童・生徒の学力を診断するための「全国統一学力診断試験」が行われることになった。この診断試験の実施に伴い、大学入試も撤廃された。大学に入学できるのは大学定員と同じ五十七万人だけで、診断試験などに基づくググルー・ランクの上位順に自動的に配分されることになった。勉強を続けて学力が伸びる可能性のある上位五十七万人だけを大学に進学させて伸ばし、それ以外は切り捨てると言った方針だ。このうち、授業料を支払えない学生がいた場合には、その枠が補欠枠となる仕組みで、全国順位百万位台の稔にまでは、絶対にその枠は回って来ない。
個人の能力に見合った適正な人員配置。この大義の下、日本から〝競争〟というもの自体がなくなったかに思われていたが、印北高校にある日、そうとも言えない吉報が舞い込んだ。
「稔、稔! 聞いたか?」
稔がおバカクラスで休み時間、朝の電車内で拾った少年漫画を読んでいると、普通クラスに遊びに行っていたタカオが、息を切らせて駆け寄って来た。印北高校ではクラス替えが撤廃されていたから、タカオとは今年も同じおバカクラスだ。
「何だよ、あわてて」
稔は、座っていたいすの前の二本足を宙に上げ、後ろの二本足だけでゆらゆら揺れながら、タカオの方に首だけを向けた。
「たった今、聞いてきたんだけど、飛鳥、今度、CMに出るんだって!」
「飛鳥って、あの芸能クラスの伊集院飛鳥?」
「ほかに誰がいるんだよ! そうだよ、その飛鳥! 何か、年明けのオーディションに合格したんだって! 驚くなよ? 何と、三代目レーゲンクイーンだ!」
「ま、マジか?」
驚きのあまり、稔はいすから転げ落ちた。ドシーンという音がして、クラス中が稔の方を向いた。
信じられない……。卒業生にただの一人も有名人がいない印北高校から芸能人が出るなんて……。
気を取り直した稔は、
「レーゲンって、あのアイスのレーゲンスブルクの?」
と聞いた。
「そうだ、そのアイスだ!」
「レーゲンって今、おれの好きな中上キヨミがCMやってるヤツ?」
「そうだ、その三代目だ!」
芸能人、しかも、あの中上キヨミの後釜だなんて……。
「じ、じゃあ、飛鳥もあの中上キヨミと同じ芸能事務所に入るのか?」
「その辺は分かんないけど、あのレーゲンのオーディションに合格したわけだから、みんなはそうなるんじゃないかって言ってた」
「すげえな。印北初の芸能人の誕生かよ」
「エモいよな」
すると、この四月からおバカクラスを担当することになった別の教育実習の先生が教室に入ってきた。生徒たちは一切気にせず雑談を続けていると、先生も騒がしい生徒たちを気にすることなく、一人で教科書を読み始めた。稔たちも先生に気付きはしたが、無視して雑談を続けた。
「でもタカオ。確かに飛鳥はおれ、学校一の美人だとは思うけど、全国ランクじゃ一位ってことはなくね?」
「ああ。〝美人度〟だと一万位以下らしい」
「じゃ、何で、中上の後なのよ?」
「それが、〝親しみやすさ〟だってさ」
「ああ、確かに。飛鳥って、人懐っこい感じがするから、おれでも話し掛けようって気にさせるもんな」
「おめえまさか、あの飛鳥に話し掛けたことあんじゃねえだろうな?」
急にタカオが凄んだ。
「いや、ねえよ。あるわけねえじゃん。クラスも違うし、そもそも飛鳥なんてもう、芸能活動が忙しくて学校なんて来てねえだろ? それで何だ、結局飛鳥は、その〝親しみやすさ〟が一位だったってことなのか?」
稔もそうだが、タカオも伊集院飛鳥のことが好きなのだろう。と言っても、飛鳥はこの学校の男子のほとんどがあこがれる存在であることは間違いない。
「やっぱ、CMは〝好感度〟だろ、好感度」
「好感度?」
「ああ。今の日本ってさ、どのCM見てもググルー・ランク一位の芸能人しか出てないじゃん? 美人だったら美人の一位、イケメンだったらイケメンの一位ばっかで」
「ああ、そうだな」
「だからほら、レーゲンはそういうCMとの……何て言ってたっけな……、そうだ、差別化だ。差別化するために、超絶美人じゃなくても親しみやすい飛鳥を選んだんじゃないかって、みんな言ってた。好感度に大切なのは、美人やイケメンじゃなくて、親しみやすさなんだって。しかも、レーゲンは外資系だから、別にググルー・ランクで選ばなかったんだってからすげえんだよ」
「そりゃすげえな。やっぱ外国か……」
稔は、ググルー・ランクを気にしない諸外国の姿勢に希望を見た気がしたが、それ以上に、飛鳥のようなランキングの上位国民と、自分のような下位国民との差が、どんどん広がっていくのを実感した。
拾ってきた漫画雑誌の表紙のグラビアで、中上キヨミが笑っている。この表紙も近いうちに、飛鳥に替わるのだろう。伊集院飛鳥は、もう自分の手の届かないところに行ったのだ。
教育実習の先生は、誰も聞いていないというのに、相変わらず一人で淡々と教科書を音読している。着任時にググルー・ランクで検索したら、この先生の教員としての順位はほぼ最下位だった。稔たちと同じ下位国民だ。
「稔! そろそろ起きなさいよ!」
翌朝、稔は母典子の怒鳴り声で目を覚ました。きょうはもう、学校には行きたくない。いや、きょうからはもう、学校には行かないつもりだ。順位が決まっているから勉強なんてやってもやらなくても同じだし、野球だってやってもやらなくても同じだ。学力診断試験なんか、ただググルー・ランクの順位を決めるだけだし、校内ではテストもなければ出席も取らないのだから、結局は授業料さえ納めていれば自動的に卒業できる仕組みなのだ。そうして卒業と同時に、自動的に中卒や高校中退の人たちよりも順位が少し上がるだけなのだ。学校なんて、行く意味がない。何よりもう、大好きだった伊集院飛鳥が、上位国民になってしまったのだ。
「稔! いい加減にしなさい!」
稔の部屋のドアが勢いよく開けられ、典子が雪崩れ込んできた。
「何だよ、勝手に入るなよ……」
稔はわざと、力ない感じでボソッとつぶやき、頭から布団をかぶった。
「何、あんた。どっか具合でも悪いの?」
典子が聞いてきたので、稔はしてやったりと思い、
「……頭痛い」
と、仮病を使った。
「頭? 病院行くほど?」
「……じゃない」
「そう。じゃあ寝てなさい。母さんはもうパートに出ちゃうけど、あんたのお弁当、台所に置いておくから、お昼はそれ食べなさい。朝ごはんは、冷蔵庫の上にあんパンがあるから、それ食べてね」
「……分かった」
事は稔の計画通りに進んだ。典子がアパートを出たのを音で確認した稔は、すぐに布団から起き出し、リビングに行ってテレビを点けた。冷蔵庫の上のあんパンを取りに行くと、それは一個包装のものではなく、一袋六個入りの〝お徳用〟だった。稔は午前中一杯をボーッとテレビを観ながら過ごし、あんパン一袋をすべて平らげた。
あっという間に昼になってしまい、稔はまったく腹が減っていなかったが、無理やり典子が作っておいてくれた弁当を食べた。揚げ物はいつも冷凍食品だが、玉子焼だけはいつも手作りだ。稔にとってちょうどいい甘さで、腹が減っていなくてもうまい。
「やっぱ、母ちゃんの玉子焼は世界一だわ」
弁当をあっという間にペロリと平らげると、さすがの稔も腹一杯になった。
テレビも飽きてきた稔は、腹ごなしに近くの公園にでも行ってみようと思った。平日の日中に制服では通報されてしまうと思い、TシャツとGパンに着替えることにした。
この公園に来たのは小学生以来だから久しぶりだ。公園は、稔が子供の頃からあった。緑が多くて遊歩道があり、昔はシーソーやジャングルジム、回転遊具などがあってよく遊んだのだが、今は危険だとの理由で、ブランコと鉄棒しかなくなっている。
午後の公園はガラガラだった。稔はとりあえず遊歩道を一周した。春のそよ風が心地良い。一本だけあるサクラはすっかり葉桜になっていて、さわさわと風音を響かせた。
「この年でブランコってのもなあ……」
遊歩道を一周して、ブランコのあるスタート地点に戻った稔は、仕方がないので近くのベンチに座り、公園の時計を見た。午後一時二十分。しばらくボーッとしていると、一時半ちょうどにキャップをかぶった高齢の男性が現れた。老人は、稔のベンチに近づくと、「こんにちは」とあいさつをしてきたので、稔も「こんにちは」と返した。そうして老人は稔が先刻したように、遊歩道を歩き始めた。老人は、一周二百メートルほどある遊歩道を延々と歩いている。健康維持のための毎日の日課だろうか。
稔がそう考えていると、今度は公園にフィリピン人のおばさんが入ってきた。おばさんはスーパーのビニール袋を持って、何やら雑草を拾い集めている。散歩した犬がおしっこをかけていそうな気がするが、あんなもの、食べられるのだろうか。稔はポケットからスマホを取り出し、〝公園でフィリピン人が拾う雑草〟と検索してみた。何やらブナだのオオバコだのいろいろ出てきて、どうにも特定できない。野草にも季節があるのだろうと、今度はきょうの日付を入れて検索し直してみると、タンポポとツクシ、ヨモギが怪しい。おばさんの袋の中身を見ると緑色だ。あれはきっとヨモギに違いない。
勝手に満足した稔は、「うーん」とうなって、空に向かって両手を広げ、思い切り伸びをした。
「さて、あしたからどうすっかな……」
ただ卒業を待つだけの学校になんか行っても仕方がない。かと言って、また仮病を使ってサボったとしても結局、今みたいに特にやることもない。母ちゃんに、学校は行かなくても卒業できると話して、堂々とサボってやりたいことをやるか。やりたいこと? 小学校の卒業文集では、「宇宙飛行士になりたい」なんて書いた気がするが、宇宙飛行士のググルー・ランクは圏外だった。自分には、宇宙飛行士の才能はないのだ。
そう言えば以前、学校に講演に来たプロレスラーが、「若者は可能性の塊かたまりだ」とも言ってたっけ。ありとあらゆるもので順位が低い、自分のような下位国民のどこに、プロレスラーが言う可能性ってもんがあるんだろう。大体、プロレスラーやスポーツ選手、芸能人たちが言うように、若者みんなに可能性があって、夢が必ずかなうんなら、何万人といる高校球児は全員ドラフト一位でプロ入りして新人賞だ。毎年、何万人も宇宙飛行士が誕生して次々と宇宙に行ったら、それは宇宙飛行士になったんではなく、ただの地球脱出、ただの移住じゃないのか。全員の夢がかなって、毎年何万人も芸能人になって、何万人も飛行機のパイロットになったら、一体、誰が母ちゃんのようなスーパーのレジ打ちをするんだ……。
稔は恐るおそる、持っていたスマホで、自分のスーパーのレジ打ちの才能を検索してみた。〝9837位〟。全国順位で初めて、一万位を切った。店内一位の典子の才能が影響したのかも知れない。まったくうれしくない高順位に、稔は思わず、スマホを近くの芝にぶん投げた。
すぐに落ち着いてスマホを拾いに行くと、ふと、遠くに先刻のおばさんが目に入った。いつの間にかおばさんは二人に増えていて、先に来ていたおばさんの持っていたスーパーの袋は、ヨモギの葉でいっぱいになっていた。
稔は結局、典子を説得して正々堂々と学校をサボることはしなかった。普段通りに学校に行き、弁当を食べて午後の授業をサボった。授業をサボるのは、自分たちを見捨てておバカクラスに放り込んだ大人たちへの反抗だ。かと言って、完全に学校をサボるのは、世間体も悪い。午前中だけでも学校に行っていれば、ちゃんと学校に行っているんだと胸を張れる。稔は、これぞ最高の策だと思った。
ただ、学校をサボっても、これと言ってやることもなければやりたいこともないのは何も変わらない。稔は、天気の良い日は毎日公園に行き、公園のトイレで制服を着替え、遊歩道をぐるぐる回る老人や、雑草を拾いに来るフィリピン人たちをながめるのが日課となった。
三度目ぐらいだろうか、いつものように老人とあいさつを交わしてベンチで座っていると、遊歩道を一周して来た老人が二周目には行かず、稔が座るベンチの横に、「よっこいしょ」と座った。
「最近、よく来るね。学生さん?」
老人が話し掛けてきたので、稔は、
「あ、はい」
とだけ答えた。稔は一瞬、老人の質問を無視して公園を立ち去ろうと思ったが、毎日の老人とのあいさつがそれをさせなかった。自分がこの公園を使っていた小学生のころから、この老人がぐるぐる歩きをしていたかどうかは記憶になかったが、この老人は少なくとも、きのうきょう来た自分なんかよりはずっと長くこの公園を使っていそうだったので、老人の質問には答えなきゃいけないような気がした。
老人はきっと、自分のことを大学生かと聞いてきたのだと思ったが、高校生だって立派な学生だ。自分はうそは言っていないはずだ。
「ふうん。まあ、始まったばかりの春先なんて、ろくに授業もしないからねえ」
老人は言いながら稔の姿をまじまじと見て、稔の頭に視線をやり、
「で、何勉強してるの? 専攻は?」
と、質問を続けた。
まずい。自分の頭は、誰がどうみても丸刈りで〝ザ・高校球児〟だ。大学に進学しても丸刈りを続ける選手なんて、現代ではまずいない。うそを言ったことを老人に見抜かれただろうか。高校生だとバレてはいけない。稔はとっさに、
「ゲ、ゲーム論です。これからの時代はゲームだと思って……」
と、今度は完全にうそをついた。
「ふうん、ゲーム論ねえ……」
老人は一瞬、間を置いて、
「実は私も、大学でゲーム論を教えてたことがあってね。君、ゲーム論の、どこが面白い?」
と聞いた。老人をよく見ると、しわだらけの顔に白髪混じりのひげをたくわえ、明らかに老人だが、ジャージの下の体格はがっしりしていそうだ。
「は、はい。じ、自分は、スマホゲームが面白いと思いまして、え、えーと、ゲーム人口が四千八百万人いますから、そ、その内の何人がゲーム内課金をしているかどうかとか……」
稔は、数字を出せばもっともらしく聞こえるかと思い、自分が知る精一杯を答えて老人の目をうかがった。これ以上、掘り下げられたら終わりだ。
「ふうん。とっさにしては、大したもんだ」
老人が優しい目をして言った。
〝とっさにしては〟。明らかにこの老人は、自分がうそを言ったことを見抜いている。稔は完全に観念したが、返す言葉も見つからず、ただ黙った。
「で、ゲームを学ぶ青年。君は、何て名前だい? 私は御法川だ、御法川悟。そこに住んどる」
御法川と名乗った老人は、稔のアパートと同じ方向を指差した。
高校生だとバレてなかった。少しホッとした稔は、
「あ、稔です、田中稔と言います。僕はあっちの方に住んでます」
と、思わず本名を答えたが、御法川老人とは逆、うその方向を指差した。御法川老人は、その様子を見ながら、相変わらず優しい目で笑っている。
これ以上、御法川老人と話していたらボロが出る。そう思った稔は、「じゃあ、授業があるから」とでも言って、この場から逃げようと考えたが、それより先に御法川老人が「よっこいしょ」と言って立ち上がり、
「じゃあ、私はもう少し歩くとするか」
と、再び遊歩道を歩き出した。稔は、御法川老人が遠くなったのを確認してから公園を出て、アパートの方向へと向かった。歩きながら、スマホで〝ミノリカワサトル〟と検索してみた。検索結果はゼロ。片仮名ではダメかと思い、〝実里川〟や〝美野里川〟、〝御法川〟、〝諭〟や〝悟〟、〝智〟など、変換して出てきたさまざまな漢字を組み合わせて検索してみたが、なぜか一件もヒットしなかった。
稔は、アパートに帰ってからも、いろいろな組み合わせを試してみたがヒットせず、今度は自宅周辺に〝ミノリカワ〟という人が住んでいないか探してみた。検索して出てきた、地図の一軒一軒に名前が書いてある動態図を一晩見続けたが、〝ミノリカワ〟を見つけることはできなかった。
ググルーは〝世界のすべてを検索する〟と言っていたのに、この世に検索されない人間がいるはずはない。きっと、自分が入力した漢字が間違ってたか、そもそも名前自体を聞き間違えていたのかも知れない。テレビでは確か、「今は日本の全国民が検索できるようになった」と言っていた。だとすれば、御法川老人が検索できないのはググルーのミスか。そう言えば稔は今まで生きてきて、ググルーで何かを検索して何一つ結果が出てこなかったことはない。例えばこっちが〝大谷のポズション〟と入力を間違えたとしても、ググルーは〝大谷のポジション〟の間違いじゃないかと聞いてきてくれるし、検索結果の件数が少なくても、入力した単語に近い候補を無数に挙げてくれる。「検索できない人間を見つけた」とテレビ局に言ったら、世紀の大発見になってヒーローになれるかも知れない。稔は、あすも公園に行って、今度は正確に御法川老人の名前を聞いてみようと決めた。
翌日も御法川老人は、稔が公園に着いた後、午後一時三十分きっかりに姿を現した。御法川老人がベンチに近付いて来ると、稔は普段とは逆に、稔の方から「こんにちは」とあいさつした。御法川老人も穏やかな表情で「こんにちは」と返し、普段通りに遊歩道を一周すると、「よっこいしょ」と言って、前日と同じように稔の隣に座った。
「良い天気だね」
御法川老人が、雲一つない青空を見上げて言った。
「そうですね」
稔も同じ空を見上げると、御法川老人は少し間を置いてから、
「稔君。授業がないなら、練習したらどうかね?」
と言った。
「え? れ、練習? 練習って、何のですか?」
御法川老人の急な発言に稔はあわてた。自分は、この老人に、練習が必要な何かに打ち込んでいるとは言っていないはずだ。やっぱり、丸刈り頭を見て高校球児とバレているのかも知れない。
「そりゃあ野球さ。野球に決まっとんだろう」
やっぱりバレてる。いや、まだ老人は、高校野球とも大学野球とも言っていない。まだ可能性はあるはずだ。
「そ、そうですね。は、春は大事ですもんね」
普段なら夏の県大会に向けて春は一番大事な時期だし、それはきっと大学野球だって、どのスポーツだって同じだ。稔は当たり障りのないことを言って、探りを入れた。
「そう。春に徹底的に足腰を鍛えて、夏に負けない体をつくるんだよ」
これではまだ、自分が授業をサボった不良高校生だとバレているのかは分からない。
「で、でもどうして、僕が野球をやってるって分かったんですか?」
稔ははっきりと野球をやっていることを認め、一か八か、自分を知っている理由を聞いてみた。
「そりゃあ分かるさ。私はあっちの方に住んどるって、昨日言ったろう」
御法川老人が、昨日と同じ稔のアパートの方向を指差した。
まったく答えになっていない。この老人は、もしかしたらボケているのかも知れない。稔は御法川老人の目を見た。しわくちゃなまぶたの奥の瞳の焦点は合っているようにも思えるが、老人がボケているかどうかまでは分からない。ただ、その目は優しく、どこか引き込まれるような気がする。もしもボケているなら通報されることもなく好都合だし、まだ自分が高校生だと断定されてもいない。稔はとりあえず、自分が高校生だと分かる墓穴を掘るようなことを言わないように気を付けて、きょうのミッションである老人の正確な名前を聞こうと決意した。
「ミノリカワさんも若いころ、野球をやられていたんですか?」
「稔君。私はもう、何の肩書きもない、ただのしがない老人だ。私には敬語なんて使わず、普段通りに話してくれないか?」
またも期待した答えが返って来ない。稔は御法川老人の言う通りにしてみようと、質問を言い直した。
「は、はい。えーと、おじいちゃんは若いころ、野球をやってたの?」
「しがない老人のことはいい。それよりも若い稔君だよ。あ、私も稔君のこと、稔って呼んでいいかい?」
また答えてくれない。人に物を尋ねることがこんなにも難しいとは。名前の漢字さえ分かれば、ググルー検索でこの老人の経歴も何もかもが一発で分かるのに。とりあえず、老人の呼び捨てを断る理由もなかったので、稔は「はい」とだけ答えた。
「稔。稔がきょうもこの公園に来てくれて、おじいちゃんはうれしかったんだ」
うれしかった? 何を言っているのかよく分からないが、うれしかったのなら、少なくとも通報はされなさそうだ。稔は黙って御法川老人の言葉に耳を傾けた。
「稔はきのう、うそをついたろう?」
うそ? 名前は本名をちゃんと言ったから、住んでいる場所をアパートとは逆方向を指差したこと? もしかしてあの後、この老人は自分のことをググった? だとしたら、高校生だってこともすべてバレてる……。
「ごめんなさい。僕もおじいちゃんと同じ、あっちの方に住んでました。初対面の人に自宅を教えちゃまずいと思って……」
ググルー検索の威力を知っていた稔は観念し、精一杯の言い訳をした。
「うそはいかん。いいか、稔。世の中にはついて良いうそとついちゃいけないうそがあるってよく言うが、それは稔が大人になって、ある程度、人間社会が分かるようになってからだ」
「で、でも、初対面の人に個人情報を教えるわけには……」
「個人情報? バカ言ってんじゃない。稔はきのう、私を信用しないでうそをついたな? それが逆だったら、稔はどうする? 私が稔を信用しないでうそをついたら、稔は私を信用できるか?」
「そ、そうですね……、そりゃあ、できないかも……」
「そうだろう。人生経験の浅い若いころからうそをつき続けていると、人から信用されない人間になる。うそは癖になるんだ」
「な、なるほど……」
「先刻、春は大事だって言っただろう。あれはな、稔。野球だけじゃない、他のスポーツも一緒だし、人生も一緒なんだ」
「人生も?」
「稔は個人情報がどうだとか言ったが、それなら、日本中で他人を信用しないのかい? 君たち若者は、そんな社会が作りたいのかい? それなら構わんが、日本中が信用できる人ばかりの方が良いに決まっとるだろう?」
「は、はあ……」
「だからな、稔。若い今のうちは、うそなんかつくな。真っ直ぐ正直に生きて、人から信用される人間になれ。それで悪いヤツに個人情報ってのを盗られて失敗したっていいんだ。稔はまだ、人生においては春だ。春は人間を磨くんだ。人から信用される人間になるために正直に生きて、だまされて失敗したって、それが経験になって成長する。春に足腰を鍛えて、過酷な夏を乗り切るんだ」
「は、はい」
ほとんど初対面に近い老人によく分からないまま人生を説かれ戸惑ったが、稔は御法川老人の優しそうな目を見て、素直に返事をした。
「分かればよろしい。よし、私もそろそろ、足腰を鍛えなきゃな」
稔の返事に満足そうな御法川老人はおもむろに立ち上がり、いつものように遊歩道を歩き始めた。
稔はその後ろ姿を見ながら、御法川老人に正確な名前の漢字を聞くことができなかったことを悔やんだ。御法川老人は、自分のことをパソコンかスマホで検索したに決まっている。でも、もしかしたら老人は本当にアパートの近くに住んでいて、自分が印北高校の野球部だってことも知っているのかも知れない。そうだとしても、ほとんど他人の自分に人生を教える義理はないはずだ。稔は御法川老人の優しい目を思い出した。稔は物心がつく前に父親を亡くしていたから、父親に何かを教えてもらうといった経験はできなかった。今では学校ですら、教科書を読むばかりで先生は何も教えてくれない。分からないことは全部ネットに聞くのが当たり前の時代だが、こうして直接、面と向かって人に何かを教えてもらうのも新鮮だ。学校なんかより、この公園に来て老人と話していた方がよほどためになる気もした。
いろいろと考えながら稔もベンチを立ち、すっかりベンチから離れた場所を歩いている老人に向かって頭を下げた。老人も遠くで片手を上げて応えてくれた。稔はアパートに向かって歩きながら、どうせ他に行くところもないので、あすも公園に来ようと決めた。
翌日、稔は普段通りに学校に行った。普段通りとは言っても、とっくに野球部の朝練はなくなっていたし、出席も取らないから一時限目の途中に教室に入る〝重役出勤〟だ。稔のこの行動が目立つかと言うと、それはまったくない。教壇にすら立たない教育実習の先生は、いつしか教科書すら読まなくなり、教壇脇の机で時間が終わるまで、黙々と自分のノートパソコンをいじってネットサーフィンをするようになっていた。当然、おバカクラスは〝学級崩壊〟だから、生徒たちはみな、適当な時間に登校して、適当な時間に下校する。だから、生徒の出席率など誰も把握できない。座席など合ってないようなもので、生徒たちは思い思いの場所で大声でバカ話をしたり化粧をしたり、スマホゲームをやったり漫画を読んだりと好き放題だった。不良グループなど、未成年だというのにビールや缶酎ハイを持ち込んで酒盛りまでしていた。
全国教員ランキングでほぼ最下位の〝下位国民〟であるこの教育実習生は、稔から見ても、統率力も指導力も皆無だというのに、こうして何もせずに授業のコマ数を稼ぐだけで教員になれるというのだから、社会というものはまったく分からない。不良グループが酔って窓ガラスを割った時も、教育実習生はまったく注意もせず、ちらりと不良たちを見ただけで、ネットサーフィンを続けていた。
それならば、学校などさっさと辞めて、自分の好きなことをするべきだという人もいるかも知れないが、おバカクラスの生徒たちにはできなかった。稔と同様、生徒たちは自分に何の才能もないということをググルー・ランクに決めつけられていた。例えばサッカーが好きでサッカーに打ち込もうと思っても、肝心のサッカーの才能がないのだから、やっても仕方がない。一つひとつ才能がないことを確認していくと、やることがどんどんなくなっていく。そうなると学校以外に行くところもないから学校に来る。少なくとも高校を卒業しさえすれば、順位は少し上がるのだ。だから、生徒たちは不作為のまま、ただ遊ぶことしかできなくなった。「甲子園で優勝してプロ野球選手になる」。実現不可能だと分かっていても、今はそれすら言うことを許されない。ググルー・ランクは、子どもたちから一切の夢を奪った。
「ういーっす……、うわ、なんかきょう、デパートの一階のにおいがする」
教室に入った稔はすぐにタカオを見つけて、鼻をつまむポーズをした。
「おう、稔。あそこだよあそこ、あの〝愛ちゃんグループ〟。全員化粧品持ち込んで、朝からくせえのなんの」
タカオがあごで指した方向を見ると、〝おバカクラスでは〟美人の川崎愛のグループが、机の上にたくさんの化粧品やら鏡やらを並べて、お化粧大会になっていた。
「なんだあれ。化粧なんて、学校に来る前にするんじゃねえの?」
「普通そうだけど、そうじゃねえらしいんだよ」
「そうじゃねえって?」
「愛ちゃんたちも〝下位国民〟じゃん?」
「まあな」
「愛ちゃんたち、自分たちが何やってもダメなら、〝上位国民〟と結婚すりゃいいってなったらしいんだよ」
「何だそれ。それで化粧の練習してるってこと?」
よく見ると、どうやら鏡の横のタブレット端末が講師のようで、お化粧大会ならぬお化粧教室だったらしい。
「ま、おれたちの目の前で練習するんだから、おれたち〝下位国民〟は相手にしてねえってこった」
「ふうん、なるほどねえ……」
稔はそう言って机に座りながら、熱心に化粧をする愛ちゃんを見た。愛ちゃんとは一年生の時から同じクラスで、稔は愛ちゃんに少しだけ好意を持っていた。今でもチャンスがあれば、付き合いたいなと思っていたところだったのだが、どうやら〝上位国民〟ではない自分にはノーチャンスということらしい。
「それでさ、稔。お前、まだ聞いてねえだろ?」
タカオが顔を近付けて言った。
「聞いてねえって、何を?」
「今井だよ、今井。あれからほとんど学校来てねえけど、きょうもいねえだろ?」
「今井? うーんと……、ああ、見えねえな」
稔は混沌こんとんとする教室内を見回した。
「アイツ、おバカクラス抜けて、芸能クラスに編入だって」
「はあ? 何であのバカが芸能クラスなの?」
「この前、越川が見たらしいんだよ、アキバで」
「アキバ? アキバって、東京の秋葉原?」
「そう。越川、アイドル好きだから。越川のことはどうでもいいんだけど、今井の野郎、学校来ないで、アキバの『ビッグバン』に通ってるらしいんだよ」
「ビッグバン? それってあのCMの、『あなたのランク、必ず爆上げます』って、カッパみたいなハゲ社長の胡散うさんくさいヤツ?」
稔は、テレビCMのハゲ社長を思い出してモノマネをした。
「そうそう。できたばっかのあの胡散くさいランクアップスクールのヤツ」
「そんで芸能クラスってことは、まさかホントにランクアップしたの?」
「おれもそれ聞いて、ネットで少し調べたんだけど、あのスクール、どうやらSNSを使ってランクを上げる方法ってのを教えてるらしいんだよ」
「SNSか……」
「ほら、ググルー・ランクって、SNSの書き込み内容とか件数とかも判断材料にするじゃん?」
「ああ、そうだな」
「そんでこれ、気持ち悪わりいんだけど、ちょっと見てくれよ」
タカオは自分のスマホを取り出して、今井について自分で検索した結果の画面を見せた。画面には、さまざまなSNS上で、〝印北の今井一平ってカッコいいよね☆〟、〝今井一平に告りたい☆〟、〝今井一平の笑顔が素敵☆〟など、無数のアカウントを使って今井をほめる無数のメッセージが映っていた。
「何だこれ、気持ち悪わりい……」
「だろ? 今井のバカ、捨て垢あか使って、毎日何百件って、自演してやがるんだよ」
タカオは、アカウントのことを垢などと、ネットスラングを使いこなしながら言った。
「捨て垢で自演かよ。すげえな。んで、ググルーがそれをカウントして、順位が上がったから芸能クラスってわけか」
自演など一度も考えたことがなかった稔は、そういうやり方もあったのかと少し感心してしまったが、タカオの前ではそれを悟られないよう、今井の行為を軽蔑けいべつして顔をしかめた。
「自演なんてみんな一度は考えるけどさ、ホントにやるバカいねえよな、恥ずかしい」
「だよな。でもさ、何でアイツ、芸能にしたんだ? 『ライトの守備は全国レベル』とかってうそ書き込んじゃあダメだったのか?」
「まあ、野球もそれで一時的に順位は上がるのかも知れないけど、結局、試合の動画一本、ネットにアップされたら終わりだからじゃね? 学力だって、いくら自分の評判上げたところでどうにもならねえし」
「そっか。芸能なら、評判だけで何とかなるってことか。評判イコール好感度だもんな」
「そうそう。伊集院飛鳥と一緒だよ」
「なるほどねえ……。しかし、これでアイツも〝上位国民〟か。こんなんで良いの、この国?」
「しゃあねえよ。これがググルー・ランクなんだから。でもさ、まだ、ただの芸能クラスだよ。あんな背も低くてブサイクな今井が、いくら芸能クラスに入ったって、ちゃんとしたオーディションなんか受かりっこないよ」
「まあ、そうだな、確かに」
ググルー・ランクを信奉するタカオはそれなりに今井のやり方を認めているようにも感じたが、稔にはやはり納得がいかなかった。タカオと違って、今のランクがすべての世の中には反対だし、今井のように自演なんて裏技を使ってランクを上げるのも許せない。だからと言って、じゃあ今のランク天国をぶち壊せるかと言えばできっこないし、今井に裏技を使うなとも言えない。自分のような下位国民のいち高校生には、どうすることもできないのだ。まだ十七年しか生きていないというのに、自分の人生はもう、下位国民で終わりなのだろうか。公園の御法川老人なら、何か教えてくれるかも知れない。いてもたっても居られなくなった稔は、昼休みを待たずに学校を出て、公園で弁当を食べながら、いつもの時間に御法川老人が来るのを待った。
しかし、なぜか御法川老人はこの日、公園に姿を見せなかった。稔は次の日も、また次の日も、雨の日でさえも公園で待ち続けたが、御法川老人が現れることはなかった。
稔たちが毎日を遊んで過ごしていると、あっという間に夏が来た。テレビでは、印北高校芸能クラスの星、伊集院飛鳥のCMが頻繁に流れるようになり、その人懐っこい笑顔が日本中で人気を集めていた。同じ芸能クラスの今井も一度だけ、ある刑事ドラマに出演した。飛び降り自殺をした高校生の死体役だったが。
田口監督曰いわく〝最強の布陣〟で夏の県大会に臨んだ野球部は、初戦で惨敗した。ググルー・ランクで県内十五位の座にあぐらをかき、何ひとつ練習をしてこなかった結果、県内百七十校中百六十五位の学校に十点以上を取られてのコールド負けだった。
その様子をスタンドから眺ながめていた稔には、何の感情もわき上がって来なかった。相手打線にメッタ打ちにされるタカオはヘラヘラしていたし、内野陣はライナーを見逃し。外野陣に至っては、凡フライをワンバウンドさせてから捕る無気力っぷりで、コールド負けが決まっても、誰ひとり悔しがる素振りを見せなかった。
結局、稔は三年間、試合に出ることはなく、〝最後の夏〟が終わった。
「おめえら、何だあの無気力試合は!」
試合終了後、球場の外に集められた部員たちに、田口監督が吠ほえた。先刻までヘラヘラしていた部員たちは一瞬で緊張し、直立したまま身じろぎひとつできなくなった。
「おめえら、相手が格下だからって、ナメてたんだろう! 違うか? おい、キャプテン! 何か言ってみろ!」
田口監督は顔を真っ赤にしている。前に一歩進み出たキャプテンは、
「いえ! ナメてません!」
と、直立したまま精一杯の声を出した。キャプテンとタカオのバッテリーは特に酷く十五四球を出したが、キャプテンがボール球をいちいち捕逸するものだから試合時間がやたらとかかり、主審から注意を受けるほどだった。
「ナメてないなら何だ! 何で、あんな結果になるんだ! 例えナメてたとしても、練習してりゃあ、あんな結果にならんだろう! おめえら、ちゃんとネット動画観て練習しなかったのか! どうなんだ、キャプテン!」
「はい! 動画は自宅でも観られますので、動画練習は途中から、個別の自主練にしました!」
自主練習など誰もやっていなかったが、キャプテンはうそでもっともらしい言い訳をした。
「バカ野郎! チームスポーツに個別練習もクソもあるか! おれが指示した通りに、おめえらがちゃんと集まって、プロの動画を観ながら練習さえしてりゃあ、こんなことにはならなかったんだ! ベスト十六を逃したのは、おれが監督になってから初めてだ! この責任は、おれの指示を聞かなかったおめえらにあるんだ! 分かったか!」
田口監督がかぶっていたキャップを地面に叩きつけると、恐怖にすくんだ部員たちは、「はい!」と力いっぱいに声をそろえた。
「まあいい。史上最弱の三年生は、列の後ろへ行け。次二年生、前に出ろ」
田口監督は、もう試合のない三年生を追いやり、来年のある二年生に訓示しようと、列の前に出させた。
「おめえら、おれが今、三年生に言ったこと、ちゃんと聞いてたな!」
田口監督が話し始めると、二年生レギュラーの越川が、監督の指示もないのに一歩前に出た。
「ん? 何だ、越川?」
「監督、おめえらとかバカ野郎とかやめてください。キャップ投げつけたりも怖いです」
「怖いだ? 来年があるおめえらに気合い入れてやろうってのに、怖いもクソもあるか!」
「監督、怒鳴らないでください。僕たち、怒鳴らなくても分かりますから。あんまりやると、パワハラで訴えますよ」
どこの野球部でも、監督は神様だ。あろうことか、越川はその神をまったく畏おそれることなく、監督に口ごたえした。
「……パワハラで訴えるか。知恵つけやがって。そんなら越川。新チームのキャプテンはお前だ。おれはパワハラになるから指導はしない。お前の好きなようにやって、来年は必ず、チームをベスト四にしろ。分かったな!」
田口監督は、意外なほどあっさりと、越川の〝脅し〟に屈した。今大会の直前、本当に部員からパワハラで高野連に訴えられ失職した他校の監督がいた。田口監督は、自身の失職を恐れたのだ。
「稔、一緒に帰ろうぜ」
田口監督の話が終わると、タカオが稔の下へ駆け寄ってきた。
「帰ろうってお前、レギュラーだからマイクロだろ?」
「バスだと一回学校行くからダルいじゃん。おれも電車で帰るからさ、帰りにゲーセンでも寄ってこうぜ」
メッタ打ちにされたばかりのエースの照れ隠しかと稔は思ったが、タカオの顔を見ると、別に試合に負けたことを悔しがっている風はないし、打たれたことを恥ずかしがっている風もない。稔の方も、特に試合の内容に触れようとも思わなかったので、「おう」と軽く返した。
ゲームセンターでひとしきり遊んだ後、二人は腹が減ったので近くの牛丼チェーン店に入った。稔は一杯二百五十円の牛丼を食べながら、
「タカオさあ、〝最後の夏〟終わったけど、この先どうすんの?」
と聞いてみた。
「この先かあ。おれたち、大学も行けねえしなあ」
「タカオはいいじゃん。親父さん、一流企業でしょ? そこ入れるんじゃないの?」
「親父の会社は無理だよ。あそこの社員、全員大卒だし」
「うわ! さすが一流企業! 大卒の上位国民〝縛り〟じゃあ、おれたちには無理ってことか」
「そういうこと。おれたち下位国民じゃあ、入りたくても入れねえってこった」
「じゃあ、どうすんだよ。どうせタカオは肩が良いから、何か別の自分の才能とか、もう見つけてるんだろ?」
「才能なんてねえよ。肩が良くて優遇される会社なんてどこにもねえし」
タカオがヤケになったかのように、一気に牛丼をかき込んだ。
「そんじゃ、やっぱあれかなぁ……」
稔は、店内の『アルバイト募集』の貼り紙を見ながら、ため息をついた。
「ん? ああ、バイトか……。下位国民に逆転なんてねえからな。ああやって募集してるところなら採用してもらえるんだろうから、おれもやっぱ、フリーターかな」
タカオが口の周りにごはん粒をつけながら言った。あすは稔の十八歳の誕生日だ。選挙権が与えられ大人として扱われる日だというのに、すでに人生はフリーターと決まっているなんて……。現実を受け入れたくなかった稔は考えるのをやめ、タカオに合わせて牛丼を勢い良くかき込んだ。
大会の終了とともに、印北高野球部は県内百五十七位に転落した。打てず、走れず、守れず。県内最下位とされてもおかしくない試合内容だったが、ググルーは、部員が多いだけの層の厚さを考慮したのだろうと、部員たちの間でもうわさとなった。
「ただいまぁ」
アパートに帰った稔は、母親の典子が用意した食卓の夕食には目もくれずに、自分の部屋に入ろうとした。
「お帰り。きょうはあんたの好きな牛丼よ」
まさかの牛丼かぶりだと言う典子に、稔は、
「何で牛丼なんだよ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「何でって何よ? きょうは何か、スーパーで牛丼、全然売れなくて。売れ残ったのをもらってきたのよ。あんた好きでしょ?」
「好きだけど……。きょうはいいや、あしたの朝食べる」
「何でよ。あんた、食べてきたの? あ、もしかしてあんた。あした誕生日だからって、女の子とデートしてきたんじゃないでしょうね?」
「ちげーよ。きょう試合だったから、チームのヤツと食ってきただけだよ」
「ふうん。じゃあ、あしたの朝、チンして食べなさい。あしたのお昼のお弁当も牛丼にしようと思ったんだけど、やっぱりダメ?」
「何で牛丼三連発なんだよ!」
稔は思わず語気を荒げた。
「あんた、もしかして今、牛丼食べてきたの? 一緒にサラダとかは食べたの?」
「草なんて食べねえよ」
「じゃあ、お昼も牛丼はダメか……。分かった。お弁当は考える。それで、あしたの夜はデート? うちでお祝いして欲しいなら、スーパーでケーキもらって来るけど」
「デートなんてしねえし、ケーキも要らねえよ! 一つ年食ったぐらいでめでたくも何ともねえし、この年でママとお誕生日会だなんて言ったら、友だちにいじめられるわ!」
高三にもなって、自分の誕生日を祝ってくれるのが母親しかいないことが恥ずかしくなった稔は、虚勢を張って母親に背を向け、自分の部屋に逃げ込んでドアを勢い良く閉めた。
「めでたくも何でもないなんてまったく……。あたしは稔に誕生日が来ることが一年で一番うれしいのに。よし。あしたはお店のケーキ、一個だけお店の奥に隠しちゃお」
典子は、閉められた稔の部屋のドアを見ながら、あすのパートでスーパーのケーキを無理やり売れ残りにして、牛丼と同じようにもらって帰ってこようと静かに誓った。
誕生日か……。そういやクラスの女子たちは、上位国民をゲットして幸せになるんだとか言ってたな。下位国民のくせに……。
布団に体を投げ出した稔は、クラスの女子たちと同じように、自分も上位国民と付き合えないかと考えてみた。最も身近な上位国民として唯一思いつくのは、学校のマドンナであり、今やCMタレントの伊集院飛鳥だ。スマホを取り出し、〝伊集院飛鳥 交際できる人ランキング〟と入力し、祈りを込めて検索ボタンをタッチした。
〝1位 馳一生(俳優)〟。馳は共演した女優に必ず手を出すと有名だ。プライベートはめちゃくちゃだが、演技力が国内一位で海外にも通用する唯一の俳優とされているから、国民もそこには目をつぶっているところがある。この一位は納得だ。〝2位 ピーテル・ヴァン・ダイク(レーゲンスブルクCOO)〟。COOって何だ? レーゲンスブルクだから、スポンサー会社の偉い人か? ググってみると、最高執行責任者? やっぱ、会社の偉い人だ。スポンサーに誘われたら断れないはずだ。
三位以下は広告代理店や芸能事務所など、稔には見たことも聞いたこともない世界のまったく知らない名前がずらりと並んでいた。画面をスクロールさせて九位まで確認したが、仮にも同じ学校の同級生だというのに、稔の名前はおろか、学校の教師も含めて稔が知っている名前は一切ない。
次は最後の十位だ。稔は祈りを込めて、指で画面をスイープして、十位の欄を表示させた。
〝10位 今井一平(俳優)〟
今井一平?? 俳優?? 何でアイツが……。おれと同じ〝圏外〟だっただろう。飛鳥だって、今井の顔なんか覚えちゃいないはずだ。まあ、おれも飛鳥に覚えられちゃあいないけど。でもおかしい。あ、あれか。同じ芸能クラスになったからか。芸能クラス、まだ二人しか生徒がいないからな。そうだ、そうに決まってる。そうでなきゃ、あんなヤツが飛鳥と付き合えるはずがない……。
「だからって、ふざけんな!」
一瞬、頭に血が上った稔は、思わずスマホを壁に投げつけた。野球部を裏切り、SNSで自演という裏技を使って芸能クラスに入った今井がランクインしたことにももちろん腹が立ったが、稔はそれ以上に、あの今井ですら、自分には手が届かないところに行ったのだと悲しくなった。
才能のない自分は一生フリーターだというのに、どうしてアイツが……。
唇を強く噛かみしめると、自然と涙が出てきた。にじむ目に、壁に当たって床に落ち、画面がひび割れた自分のスマホが虚むなしく映っていた。
翌日の誕生日は結局、典子と一緒に、スーパーのケーキを食べた。典子は、二人しかいないというのにホールで持って帰ってきて、丁寧にロウソクも十八本あった。自分のような下位国民にはこれで十分なんだと言い聞かせながら食べたケーキはそれでもおいしく、稔は一人で四分の三をぺろりと平らげた。
4
夏の県大会が終わり野球部を引退した稔は、駅前の牛丼店でアルバイトを始めた。何度も行ったことのある牛丼チェーン店だから、店員がどう動けばいいのかは分かっていた。レジの使い方を覚えるのは少し時間が掛かったが、それでも仕事はすぐに覚えられた。高校生だから、始めはディナー時間帯の数時間だけ働いたが、ランチ時間帯のバイトが一人辞めてからは、昼からも働くようになった。どうせ学校に行ってもやることがない。まかないの牛丼もうまいし、山本店長にも気に入られているようで、何だか自分の居場所ができたような気もした。
午前中は申し訳程度に学校に行き、昼から夜まで働いた。バイト代がたまると好きなゲームも買い放題だったが、実際にはやっている暇もないのでゲームもやらなくなった。二カ月目からは、使い道がなくなったバイト代のほとんどを典子に渡すようになった。典子はありがたがり、新しい炊飯器を買った。親子の食卓も一品増え、何だか生活が少し豊かになった。
稔は、とりあえず高校を卒業するまではバイトを続けようと思っていたが、卒業後のことはまだ何も考えていなかった。
毎日毎日、ただ牛丼店とアパートを往復した。もうずっとこのままでもいいやなどと考えてみると楽になった。人生に〝張り〟がないなどと思ったこともあったが、そもそもその〝張り〟というものが何なのかが分からない。分からないけれども、きっと、自分のような下位国民は、人生の〝張り〟などを求めてはいけないのだと言い聞かせるようになっていった。
接客をしていると、さまざまな客が来る。有効期限切れの割引クーポンを持ってきて、「クーポンが使えないのはおかしい、店側の説明不十分だ」なんてわめき散らす客は日常茶飯事。やれ、盛り付けが写真と違うだの、給茶器のお茶が服にかかったから弁償しろだの、工場生産で全国同じ味なのに前回より味が落ちただの、関東では統一した置き方なのにどんぶりとみそ汁の置き方が逆だの……。
稔は、こういう好き勝手を言ってくる客に対し、たかが一杯二百五十円の牛丼に一流レストランの対応を求めるなよと思うこともあったが、腹は立てなかった。相手が明らかに間違っていて、自分が完全に正しくても、いつでもただ平謝りに謝って、その場を収めた。自分は下位国民で、この国の底辺の人間だと思えば、そうするしかない。腹が立つのは最初だけ、慣れればまったく苦にならなくなった。
三カ月が経ったころ、時給が十円上がった。山本店長が、「田中は良く頑張ってるから」と言って上げてくれたのだ。客に逆らわない姿勢が評価されたらしい。稔はその帰り道、相変わらず画面が割れたままの自分のスマホを取り出し、久しぶりに自分のことを検索してみた。
〝田中稔 牛丼店員ランキング 全国〟
するとすぐに、〝全国987位〟と出た。今まで、ありとあらゆる職業で検索してきたが、全国で千位を切った職業が出たのは初めてだ。
「何だこれ。おれには牛丼店員の才能があるってことかよ……」
稔はアパートまでの夜道を歩きながら、自分の頭をかいた。
でも何でだ? ググルーはどこでおれが牛丼店でバイトしてることを知ったんだ?
バイトを始めてから、自分をほめてくれたのは、山本店長一人だ。ピーンと来た稔は、すぐに山本店長のSNSを探した。メッセージの数はそれほど多くなかったが、
〝今度入った新人、元気があっていいわ。さすが元野球部〟
〝やっぱあの新人使えるわ。客対応完璧。卒業したら社員に推薦してもいいかも〟
〝田中! 来月から時給上げてやるからな!〟
など、明らかに稔を称賛するメッセージが見つかった。
これか。これが評判ってヤツか。ググルーはこういうのもカウントしてやがるってことか……。
大体、山本店長のこんなクソ面白くもないSNSなど、日本国民の誰一人見ていないはずだ。実際、山本店長は稔に対してのメッセージを書き込んでいるというのに、肝心の稔がそれに気付いたのはきょうが初めてだ。そんなものをググルーがカウントすることに、一体、何の意味があるというんだろう。
「おれの人生、牛丼店員で決まりかぁ……」
この先何十年とかけて、牛丼店員の全国一位を目指すのか? 冗談じゃない。優秀な牛丼店員なんて、それこそ自分の上に九百八十六人、まさにはいて捨てるほどいる。大体、自分が牛丼を食べに行って、今までただの一度も、店員の顔を覚えたことなんてない。つまり、牛丼店員なんか誰でもいい、おれじゃなくていいんだ。じゃあおれなんか、この社会にいてもいなくてもいい存在ってことじゃないか……。
稔は何もかもがバカらしくなった。手に持っていた、従業員割引で買った店の新作の豚丼弁当二つを地面に叩きつけようとしたが、稔が新作を持って帰るのを楽しみにしていた典子の顔を思い出し、振りかぶった手を寸前で止めた。
いてもいなくてもいい人間。いくらでも代わりがいる人間。誰からも求められない人間。死んでもいい人間……。
思い詰めた稔は、いっそどこかの崖にでも行って、そこから飛び降りれば楽になるのかも知れないと考えたが、アルバイトのシフトは連日、容赦なく入っていた。ただそのシフトに追われる毎日では、それこそ死ぬ暇ひまもない。何より、父親が病死しているのに自分まで死んだら、母親の典子の頭はどうにかなってしまう。だから、稔は考えることをやめた。ただ無心でバイトをしてアパートに帰るだけの日々を、ただただ繰り返した。
そんなある日、山本店長が店に来週のシフトを貼り出した。月末までの一週間、なぜか稔の名前がまったく入っていなかった。
「あれ、店長。おれの名前、全然入ってないんすけど」
「田中は来週から全休な。お前ほら、シフト入りすぎてるから、これ以上働くと確定申告が必要になっちゃうんだよ」
「確定申告っすか?」
「そう。あんまりバイト代稼ぎすぎると、税金納めなきゃいけなくなるんだよ。だからさ、来週一週間と来月丸々一カ月は全休。田中もお金が必要だからバイトしたいとは思うけど、ここは我慢してよ。来年からまた、ガンガンとシフト入れるようにするからさ」
「そうですか……」
別に差し当たってお金が今すぐ必要ということはまったくないが、バイトがなくなれば、いよいよ何もすることがなくなる。稔がガックリと肩を落とすと、山本店長は、
「社員になっちゃえば話は別だけど、田中、高校はとりあえず、卒業はするんだろ? おれはほら、田中が希望するなら、いつでも社員に推薦してやろうと思ってるからさ。そんなに落ち込まないで、年末はゆっくり休んでよ」
と、慰めてくれた。
確かにこの四カ月、稔はほとんど学校にも行かず、土日すら休まずに毎日牛丼店で働いた。山本店長と一緒にいる時間を考えると、母親の典子よりも、友人のタカオよりも、誰よりも長かった。そもそも税金のことなどよく分からなかったし、稔にとって、血のつながらない兄のような存在にも思えてきた山本店長の言葉だ。稔は素直に休みを受け入れることにした。
突然、降ってわいた一カ月の休暇だ。少しだけどお金もある。稔はただ漠然と、何かをしようかななどと考えてみたが、その何かがまったく思い浮かばない。学校に行く気はさらさらなかった。どうせ自動的に卒業できるのだから、卒業式が終わったら適当に学校に行って、卒業証書だけもらえばいい。
稔は、朝は学校に行くふりだけして、典子がパートに出た後にアパートに戻り、誰もいない部屋でスマホをいじり始めた。
やることもなかったので、久しぶりに、「ファイナル・モンスター」のゲームを立ち上げた。すると、何カ月も放置していたせいで、ゲーム内のイベントを知らせるメールとか、毎日必ずこなさなければいけないノルマの通知とかが無数に来ていた。
「うわ。ひでえな、これ」
通知を一つひとつ開いては消し、開いては消しをしてみた。これをしないとゲームがプレーできないので仕方ないのだが、なにせ数が多すぎてキリがない。あっという間に面倒くさくなり、稔はゲームをプレーすることをあきらめた。
崖から飛び降りる暇もなく働き、突然、その暇ができた。稔はもうすっかり、死んでやるなどとは思わなくなっていたが、ふとバイトを始めたころを思い出し、何となく、〝刑事ドラマの崖〟と検索した。
検索結果のトップに、福井県の東尋坊と出てきた。三国港駅が最寄り駅らしい。自宅からの経路と交通費を検索すると、すぐに出てきた。
「三万三千円?? 往復だと六万六千円かよ!」
稔は画面を見て、思わず声を上げた。経路を見ると、稔のアパートからはかなり複雑で、途中、羽田空港からの空路まで挟んでいた。
「……何だこれ。成田空港の近くに住んでるってのに、何で羽田から松山空港なんだよ」
画面を進めていくと、近くに温泉があったり、遊覧船や東尋坊タワー、丸岡城など、観光資源も豊富にあることが分かった。
「旅館泊まって温泉入って、お土産買ったら十万円はかかるか……」
東尋坊のページを閉じて、スマホで自分の銀行口座をチェックしてみると、残金は十万千六百円となっていた。山本店長が言うには、自分は四カ月で百万円近く稼いだとのことだったから、九割を典子に渡し、一割が自分の手元に残ったことになる。
「一文無しになるけど、行けるは行けるな……」
そうつぶやいた瞬間、稔は、
「違う違う。遊びに行くんじゃなくて、生きててもしょうがねえから崖に死にに行くんだよ。往復じゃなくて片道でいいし、旅館も要らねえじゃねえか」
と、自分にツッコミを入れた。
東尋坊のページに戻って、あらためて東尋坊を写した観光用写真を見た。
すみ渡った空に、房総の海とは違い、深さを感じさせるような濃い色の日本海、そこに突き出した断崖、ゴツゴツとした岩肌……。地元の房総にも銚子に屏風ケ浦があるが、あそこは遊歩道があって〝大自然〟という感じがしない。それと比べるとカッコいいというかイケてるというか、どういう言葉を使えばいいんだろう。勇壮とか雄大とでも言うんだろうか。
とにかく、稔には魅力的に見えた。
〝冬の日本海〟は見たことがなかったし、何だかその言葉が、今のおれにはぴったりな気がする。おれにだって、小さいころには、プロ野球選手になって、母さんに楽をさせたいという夢があった。宇宙飛行士になりたいなんて考えたこともあった。だけど、インターネットがその夢のすべてを奪ったんだ。ググルーは、おれが牛丼屋の店員になるために生まれてきたと決めつけた。もうどうにもならない。こんな社会、生きていたって意味はないんだ……。
「よし。冬の日本海、男の一人旅だ」
稔は心を決め、航空券の予約サイトを開いた。平日は典子にも怪しまれそうだからと、東尋坊行きは次の土曜日にした。飛行機に乗ることも初めてだったが、航空券は誰とも話さず、簡単に予約できた。稔は、〝片道〟と〝往復〟を選ぶ項目で〝片道〟をチェックした。仮にもこれから死にに行くというのに、稔は「片道切符って、何かカッコいいな」などと、自分に酔った。
東尋坊行きが決まると、稔は一気に忙しくなった。羽田空港までの電車ルートを確認するのはともかく、飛行機自体が初めてだから、空港の仕組みが分からない。電子チケットの使い方も知らなければチェックインカウンターの場所も分からないのだから、空港を一から調べないといけない。乗り方が分かって一段落しても、今度は松山空港での降り方を調べなければいけないし、そこから三国港駅までのルートも必要だ。現地の気温を調べて、着ていくものもそろえねばならない。
息抜きに、スマホで福井のグルメをチェックしてみると、越前がにやソースカツ丼、敦賀ラーメン、越前そばと魅力的だ。東尋坊近くの三国バーガーというのも有名らしい。稔はその中から出てきた「ボルガライス」という料理にひかれた。オムライスの上にカツが乗ったような料理らしく、どちらも稔の大好物だ。
「ボルガライス、ぜってえ食いてぇ〜」
よだれを垂らして写真を見ているだけで、稔は何だかワクワクしてきた。
「だから違うって。これは世を捨てた男の、日本海片道切符だっての」
自分で自分にツッコミを入れても、稔は生まれて初めて、自分で計画を立て、自分のお金で旅行をしようとしているのだ。そこから来るワクワク感は、なかなか消し去れない。何とかテンションを下げて、カッコいい〝世を捨てた男〟に戻そうとしたが、どうしても気持ちが下がらない。稔は、「まあ、死ぬか死なないかは行ってから考えればいいか」と自分に言い聞かせ、SNS上でボルガライスの口コミ情報などを調べながら〝決行日〟を待った。
やっと土曜日になり、稔は午前四時に布団を出た。結局、前日から一睡もできなかった。これから死のうとしている悲壮感というよりも、あすの遠足が楽しみで眠れなかった小学生の興奮に近い感じだ。
荷物は前日から用意していたので、あとはアパートを出るだけだ。稔は、まだ寝ている典子が心配するだろうと思い、書き置きを残すことにした。適当な紙を探したが見当たらなかったので、机にあった真新しいノートの一ページ目を広げた。高校三年生の十一月だというのに、まだ一度も使ったことのないノートだ。
稔は素直に、〝福井の東尋坊に行ってきます〟と書こうと思ったが、〝東尋坊〟の漢字が思いつかなかったので、〝冬の日本海に行ってくる〟と書いた。
うん。〝行ってきます〟より、〝行ってくる〟の方が男らしいな。
一人で納得した稔は、まだ何か足りないような気がしていたが、男らしい文面にすると決めた以上、ダラダラと長い文章を書くわけにもいかない。稔は、こういう時に書くべき言葉は一つしか知らなかったので、次の行に〝探さないでください〟と書き足した。
書き終えた途端、稔は「あっ」と声をもらした。
〝探さないでください〟じゃなくて、〝探さないでくれ〟だろ、ここは……。
書き直そうと思ったが、二ページ目に書き直すのは男らしくないし、破いて捨てた一ページ目が後でゴミ箱から発見されるのも恥ずかしい。稔は、「まあいいや」とつぶやいてボールペンを置いた。荷物を持って自分の部屋を出ようとして机の方を振り返ると、今書いたノートが閉じている。戻ってもう一度ノートを広げた状態にしたが、ノートが新品だから、どうしてもまた閉じてしまう。
まあいいか。おれがいなくなって、部屋にノートが一冊だけありゃあ、いかに鈍感な母ちゃんでも分かるだろ……。
稔はそうっと部屋を出て、音を立てないようにしてアパートの扉を閉めた。外はまだ、深夜のように真っ暗だ。
「ようし、行くぞ!」
稔は両腕を上げて伸びをしてから、気合を入れた。〝世を捨てた男の一人旅だ〟と自分に言い聞かせると、何だから自由になれたような気がしたが、ふと、自分が今、何かに拘束されているのかと思ってみると、今度は〝自由〟というものが何なのか分からなくなってきた。
そんなことどうでもいいか。とにかく、おれは今から、福井に行くんだ。
面倒なことは深く考えないことがカッコいいと勘違いしていた稔は、気にすることなく駅までの道を歩き出した。そしてすぐにスマホを開き、うまいボルガライスがあるという福井県の北府駅までのルートを調べた。
自動改札でスマホをタッチし、始発電車に乗り込んだ。普段なら、スマホでゲームをしたりダウンロードした漫画を読んで時間をつぶすところだが、通学定期券も飛行機の電子チケットもすべてスマホの中だ。スマホの電池が切れては何もできなくなってしまうから、稔は車内をひたすら寝て過ごした。東京都内に入り少しだけ混み出したが、乗り換えた電車もモノレールも概ね空いていたので、しっかり眠れた。まったく初めてのルートだったが、不安はなかった。何分発のどこどこ行きに何両目から乗って、何分で別の電車に乗り換えるといったことは、すべてスマホが教えてくれたからだ。
羽田空港には、寝ていたせいか、あっという間に着いた感覚があった。土曜日の朝とあって、空港内は大きなスーツケースを持った旅行客の姿がかなり見られた。ジーパンにダウンのジャンパー姿の稔は、着替えも必要がないから手ぶらだ。周りからは絶対に旅行客には見えないよな、などと考えながら、スマホの指示通りにチェックインカウンターに行き、係員にスマホの電子チケットを見せた。係員に、預ける荷物はないかと聞かれ、「ない」と答えた。出発口に行くと、保安検査場があった。初めてで緊張したが、列の前の人にならって、ポケットの中のスマホと財布をトレーに乗せ、金属探知機を通過した。警報音が鳴ったらどうしようとドキドキしたが、まったく反応がなく、肩透かしを食らったように手応えがなかった。
搭乗ゲートに着くと、これから乗る飛行機が朝日に照らされていた。小型機とはいえ、初めて見る巨大な飛行機に稔は興奮し、夢中でスマホのシャッターを切った。
「これは〝映え〟るだろ」
いつものように自分のSNSに撮った写真を載せた。コメント欄には、
〝羽田の朝! おれは飛び立つ!〟
と書き込んだ。すると、すぐにタカオから、
〝家族旅行?〟
とだけコメントが入れられた。稔が〝旅行じゃねえ。一人だ〟と返すと、少しだけ間があって、タカオから〝松山で何すんの?〟とのコメントが返ってきた。タカオはどうやら、稔が掲載した写真から便名や出発時間、目的地までをググったようだ。
〝おめえ、松山からどこ行くんだよ〟
〝一人で何しに行くんだよ〟
〝みやげ買ってきて欲しいから、どこ行くか教えろよ〟
タカオからのコメントが連続して入った。稔は、まさか自殺しに行くなどとは答えられなかったので、仕方なく〝東尋坊だ〟とだけ返し、搭乗が間もなく始まるとのアナウンスが入ったのでスマホの電源を切った。
そうしているうちに、搭乗が始まった。
機内はそれなりに客はいたが、かなり余裕がある感じがした。自分の席に座ると、窓際だったのだが完全に翼の上だった。稔は、隣に外国人が来ちゃったらどうしようなどと心配したが、隣どころか前後の席も空いていて、完全に要らぬ心配だった。機内のスクリーンで、安全ビデオが流れ始めた。稔の席からは、少し背筋を伸ばさないと見えなかった。稔は、「ふん。あんなもの観てたら、飛行機初心者だってバレるじゃねえか」と思い、窓の外を見ているフリをした。誰が稔を見ているわけではないというのに、そうした。そうしながらも、実際に飛行機が初めてだった稔は、こっそりと背筋を伸ばし、横目でスクリーンをチェックした。
飛行機が滑走路を加速すると、稔は興奮して声を上げそうになったが、何とか我慢した。とにかく初心者だとバレてはカッコ悪いからマズいのだ。飛行機が安定飛行に入ったころ、耳の奥が猛烈に痛くなった。鼓膜の奥にずうっと針を突き刺されているような激痛だ。気圧については、学校でしっかりと教わっていたはずだったが、稔は授業をロクに受けていないから、どうしてこんなに耳が痛いのかが分からなかった。だから、〝耳抜き〟のやり方も分からない。
激痛は、いくら時間が経っても治まらないばかりか、どんどん酷くなっていった。稔はただひたすら、両耳を手で抑えてその激痛に耐えた。客室乗務員に、耳が痛いなんて訴えるのはカッコ悪い。「早く着いてくれ……」。稔はそれだけを願い続けた。
松山空港に着くと、激痛は去ったが、まだ頭の奥がズキズキするような感覚がした。初めての空の旅は、新鮮ではあったが、ただ耳が痛かっただけでまったく満喫できなかった。
とにかく腹が減った。
稔は、何はなくとも、まずボルガライスへの道を急ぐことにした。スマホの指示通りに電車に乗ると、迷うことなく、昼すぎに北府駅に着いた。店までの道のりは、スマホが地図で示してくれる。それに従って一キロほど歩くと、ボルガライスの人気店だというお目当ての店に到着した。
「すげえ、おれ、着けたよ」
スマホの画面とまったく同じ店構えを見て、稔は思わず声を出した。そのままスマホのカメラを起動して店の写真を撮った。そして、いつものように写真をアップロードしようとSNSを開くと、なぜか稔のSNSが〝炎上〟していた。フォロワーは学校の友人数人
しかいないというのに、朝、羽田でアップした書き込みに、千件を超えるコメントが付いていた。
「何だこれ……。おれってそんなに人気者だったっけ……」
稔はそうつぶやくと、店の写真をアップするのも、千件を超えるコメント欄に目を通すのもやめ、スマホを閉じた。こんな数のコメントなど見ていたら日が暮れる。何よりも今は腹が減っている。まずはボルガライスなのだ。
そういえば、アパートを出てからこの店に着くまで、誰かに道を聞いたり、誰かと話したり、声を出すことすらほとんどなかった。はっきりと声を出したのは、チェックインカウンターで預ける荷物があるかを聞かれ、「ない」と答えただけだ。それでも、こんなに遠いところまで、一人で来ることができたのだ。稔はただスマホに従って来たから、地理的にどういうルートをたどって来たのかが正確には分からない。日本列島の形は分かるが、肝心の福井県が日本海側のどの位置にあるのかすらまったく把握していなかったが、それでも、行ったことのない目的地にまで到着できたという達成感と満足感に満ちあふれた。
店に入ると、人気店だけあってそれなりに混んでいた。空いている席に案内され、目の前にメニューが置かれたが、稔はそれを見ずに「ボルガライス」と注文した。ネット情報で、ボルガライスはメニューには載っていないと知っていたからだ。だから、当然、それを分かってるよ、初心者じゃないよ、というところを見せないといけないから、ここでメニューは見てはいけないのだ。店員がメニューを下げると、水をひと口飲んだ稔は、向かいの席でうまそうなスパゲティを食べる客を見て、「やっぱりメニュー、じっくり見たかったなあ」などと後悔した。
待望のボルガライスが出てきた。オムライスにとんかつが乗り、デミグラスソースがひたひたにかかっている。みそ汁が付くのも、ネットで仕入れた情報の通りだ。
いただきまあす。心の中でつぶやいて、夢にまで見たボルガライスと格闘した。うまい。ソースは店によって違うとネットに書いてあったが、この店はウスターソースがベースらしいから、とんかつと相性抜群だ。稔はこの日、早朝から何も食べていなかったから、ボリューム満点のボルガライスを一気にかき込み、あっという間に完食した。
ヤベえ。超うまかった。人生最後に何食べたいかって聞かれたら、ぜってえこれだよ。
会計を済ませ、大満足で店を出た稔は、北府駅に戻りながら、今度は三国港駅へのルートを検索しようとして気付いた。
そうだ。一応、今のが〝最後の晩餐ばんさん〟か……。
まるで人ごとのようにそう思ったが、それ以上に満腹感から、とりあえず東尋坊に行って、絶景を見ながらちょっと休みたいと考えた。
スマホのおかげで電車やバスをスムーズに乗り継ぎ、東尋坊には難なく着いた。『歓迎』と書かれたゲートをくぐって崖まで歩くと、日本海から吹き寄せる風が、肌を刺すように冷たかった。太陽が日本海に沈もうとしていた。そういえば稔は、海に沈む太陽は見たことがなかった。地元の房総では、太陽は太平洋から昇るものだから、新鮮に感じた。
観光地らしく、人はちらほらとは見えるが、冬の夕方とあってかなり少ない。稔は、スマホの東尋坊を紹介するページの写真と目の前の実際の風景とを見比べながら、写真が撮影されたであろう場所を探した。
崖の方に近づくと、十階建てビルの高さぐらいはあるんじゃないかという断崖絶壁が目に飛び込んだ。ゴツゴツした岩肌に日本海の荒波が止めどなく打ち付けていた。稔はその迫力にただ圧倒されたばかりか、恐怖すら感じた。崖の先に雄島が見えた。この島が見える角度や形を確認すると、写真を撮影した場所はすぐに分かった。スマホを見ながら右へ左へと歩いて微調整を重ねると、見ている風景が観光写真とピタリ一致した。
「完璧じゃん」
写真を撮影した場所とまったく同じポイントに立ち、稔は自画自賛した。
青空の下で撮影された東尋坊は雄大そのものだったが、目の前の東尋坊は夕陽に照らされ、どこか禍々(まがまが)しいように見えた。
「何か怖えな、ここ……」
稔は、今までインターネットで調べていた時には感じたことのなかった恐怖感を抱いた。ネットでは分からない、実際にその場所に来た人間にしか感じ取れない感覚というものが、本当にあるんだと実感した。肌を刺す風が強さを増した。寒い。体が震えた。
稔は何となく、先刻見ることをやめた、炎上した自分のSNSを見てみようと思った。スマホを開くと、コメントの数は五百件ほど増えていた。炎上のきっかけはタカオだった。稔が飛行機に乗るためスマホの電源を切った直後、タカオは、〝東尋坊に一人旅って、自殺じゃねえだろうな?〟と書き込んでいた。タカオはさらに〝拡散希望〟と書いて、稔の書き込みを友人らのSNSに転載したから、時系列で見た始めの方には、キャプテンやマネージャーのルカ、アケミ、知らない自殺防止団体などから、自殺を思いとどめるよう求めるコメントが入っていた。だが、相手が分かったのはこれら十数件程度で、残りの大半は、まったく見たことのない無数のアカウントだった。
〝観光地で自殺www〟
〝タヒね〟
〝どうせタヒねねえんでしょ〟
〝タヒぬ勇気なんてないくせに〟
〝カッコつけてるだけwww どうせ口だけwww〟
〝ロマンチスト乙www 草生える〟
〝タヒねるもんならタヒんでみろよ〟
稔は何一つ、自殺しに東尋坊に行くとは書いていなかったというのに、すでに稔は自殺することが決まっていて、インターネット上で勝手に盛り上がっている。しかも、どのコメントを見ても、『(笑)』を示す『w』を多用して稔を小馬鹿にして笑っていたり、『お疲れ。どうせやる気もないんだろ』という意味で『乙』、さらに、インターネット上でストレートに『死ね』と書くとサイバーパトロールに引っ掛かるとの都市伝説から、『死』の文字から『一』だけを取った『タヒね』という表現が特に目立った。
「すげえな、これ……。おれ、このまま自殺すんのか?」
稔はこうした悪意だらけのコメントから、〝さっさと流れ星になっちまえ彡☆〟というのが多いことに気が付いた。アカウント名を確認すると、書き込みの内容はどれも同じなのに、アカウントはすべて違っていた。絵文字の『☆』を使うのもどこかで見たことがあるような気がした。もしかしたらと思い、アカウント名を検索にかけた。すると、〝印北の今井一平ってカッコいいよね☆〟、〝今井一平に告りたい☆〟、〝今井一平の笑顔が素敵☆〟などというコメントが引っ掛かった。間違いない。野球部を裏切った、自演で死体役を勝ち取った今井の自演用アカウントだ。
バカバカしくなった稔は、所詮しょせんインターネットという別世界のコメントだ、ただの人ごとだとしか思わないようにした。それでも、こうして「死ね」「死ね」言われ続けて、そのまま自殺してしまう人の気持ちというものが、少しだけ分かったような気もした。
夕日が沈みかけ、辺りはかなり暗くなってきた。日本海からの冷たい風が稔を襲った。
「さみいし、あしたにすっか……」
振り向くと、ネットで調べた東尋坊タワーが見えた。崖のそばに立ってこその迫力のように思えるが、果たしてあのタワーからこの崖を見て、何かが感じられるのだろうか。
稔は確かに、死ぬつもりでここまで来た。あの崖からポンと飛び降りれば、こんなクソみたいなランク社会からはオサラバできる。こんなクソみたいなインターネット社会からもオサラバだ。そう思っていたが、ここまで来てもやはり、まだどこか人ごとだった。
野球部ではよく、「死ぬつもりで練習しろ」なんて言われていた時代もあった。死ぬつもりで練習したが、レギュラーという結果は返って来なかった。死ぬつもりで東尋坊まで来たが、本当におれは死ぬのか? 「死ぬつもり」というのは、そもそもどういう意味なんだ? そんな答えは出なくても、いざ崖に立ってみれば、誰でもポンと飛べるものなのか? おれは結局、口だけで死ぬことなんてできやしないのか? ネットはみんな、おれに「死ね」って言ってるな。本当に死なないと、勝手にネットで盛り上がってた千何百人はがっかりするのか……?。
それらしいことを考えてみると、何だかきょうの目的は達成できたような気になった。「まだ人もいるし、あしただ、あした」
あっさりと結論を出し、街に向かって歩いていると、あまりの寒さからあったかい越前そばが食いたくなった。
スマホで調べると、越前そばの名店が何軒か出てきた。稔はその中から、近くにネットカフェのある店を選び、今夜はそこに泊まることにした。地図をながめながら歩いていると、ネットカフェの近くに、ボルガライスの元祖だというレストランを見つけた。
「あしたの昼はここで決まりっしょ! 行き当たりばったりの旅って、たまんねえな!」
稔の頭の中は、すでに元祖ボルガライスでいっぱいになった。同時に稔は、こんな遠くまで高校生が一人で旅行に来たというのに、スマホばかりで道を聞いたり、うまいレストランの場所を聞いたりと、今までまったく人と話していないことに気付いた。スマホさえあれば、他人にモノを尋ねなくても済むのは間違いないが、そういえばテレビの旅行番組なんかでは、タレントたちはみな、現地の人としっかりと交流していた。
「やっぱ、誰とも話さねえってのはおかしいよな……」
今までずっとスマホに頼ってきたから、他人に道を聞いたことがないんだ。道なんか駅でも交番でも、その辺を歩いている人にでも聞けば良いじゃねえか。無言で東尋坊まで行って無言で帰って来たら、そんなの、旅行って言えねえだろ。あ、旅行じゃねえか。死んで〝無言の帰宅〟をしなきゃいけねえんだった。大体、スマホなんてもんがあるから、おれは死んじまおうなんて考えさせられたんじゃねえか……。
稔は、ランク社会を知らしめ、人との交流をも阻害するスマホを諸悪の根源を見るかのようににらんだ。
「こんな物、なければ良いんだ」
踵きびすを返した稔は、走って崖まで戻った。暗闇に包まれた崖は不気味そのものだった。稔は崖の先までは行かず、崖の付け根に立って息を整えた。日本海に向かってスマホを右手に持ち、左手をグローブに見立て、ピッチャーの投球モーションのように静かに振りかぶった。そして、流れるようなサイドスローでスマホを海に投げた。スマホは回転しながら向かい風に乗った。そのまま手前の岩場を軽々と越えていき、漆黒の日本海へと消えていった。
初めての一人旅で疲れていたのだろう、稔がインターネットカフェで目を覚ましたのは翌日の昼前だった。いつもの癖で枕元に手を伸ばしたが、そこにスマホはない。焦ってあわてて飛び起きたが、すぐに、スマホは昨日、東尋坊に投げ捨てたことを思い出した。
手元にスマホがないというのは、小学生以来だ。稔はここ数年、電話機能はまったく使わなかったので電話がかけられないことは気にならなかったが、スマホがないとSNSが使えないから、誰とも連絡が取れない。そう思うと、何だか自分が太平洋のど真ん中に酸素ボンベもシュノーケルもなしに放り込まれたような感覚がして、急に不安になった。
ネットカフェだからデスクトップ型のパソコンは置いてあるが、操作しようにも、スマホがないから自分のSNSのIDやパスワードが分からない。壁には、フリーWi?Fiが使えることを示すステッカーが貼ってあった。
「うわ、もったいねえ。ここならアプリのアップデート、し放題だったじゃねえか」
稔はスマホで動画を観たり音楽をダウンロードしたりするようなタイプではなかったが、スマホに内蔵された使ったことのないアプリが毎日毎日、勝手にアップデートされることに、ギガ消費の大半を使われていた。だから、毎月毎月、フリーのWi?Fiスポットを探してアップデートをすることが、ほぼライフワークになっていた。
「おれはバカか? もうスマホもねえんだから、もう、あんなバカみたいなアップデートの無限地獄からも解放ってことじゃねえか……」
稔は自分に言い聞かせるようにボソッとつぶやいた。スマホを投げ捨てたことで、人生のかなりの部分を占める〝重し〟が取り除かれ、少しは楽になるかと期待したが、やはりどうしても、スマホが手元にないということの不安感が消えなかった。
腹が減ったな……。
稔は前日にスマホで調べた、ボルガライスの元祖を出す店に行くことにした。トイレで顔を洗い、会計を済ませて店を出た。雲一つない青空。昼の太陽がまぶしい。風も穏やかで、こういうのを絶好の行楽日和と言うのだろう。
目当ての店はスマホで調べたはずだったが、さて、まずはどこに向かって歩き出せばいいのだろう。千葉からここまで、ずっとスマホを見ながら歩いていたようなものだったから、いざスマホがなくなると、方向が分からない。
確かきのう、こっちから来たから、こっちが崖だよな……。店は近いはずなんだけど、あっちっぽいかなあ……。
昨夜通った道は思い出せても、店までの道は通ったことがないんだから、思い出せるはずはない。稔はネットカフェに戻って、恐るおそる、受付の店員に聞いてみることにした。
「ああ、先刻のお客さん。何か忘れ物ですか?」
先刻会計をしてくれた男性店員が、人の良さそうな笑顔を見せた。
「いえ。ボルガライスの元祖の店って、どこかなあと……」
「ああ、店までの道? 何だお兄さん、観光だったの?」
店員は稔がもう客じゃないと分かると、急になれなれしくタメ口で話し始めた。
「ああ、はい」
「それなら良かった。おれも朝、出勤したらさあ、夜勤から君のこと、荷物もなくて一人だから自殺志願者かもって引き継がれてて心配してたんだよ。ほら、東尋坊って、自殺の名所って有名でしょ?」
「ああ、そうなんですか」
稔はとりあえず、この場はとぼけた。
「ありゃ。東尋坊目当てじゃない? んじゃ、ボルガライス目当てか。お兄さんもしかして、有名なグルメライターとか?」
「いえ。ただネットでボルガライス見つけて、バイト代もたまったし、うまそうだなあと……」
「へえ、そういうのって良いね。何だかおれも、久しぶりに食いたくなっちゃった。元祖の店ね。よし、ここから近いから、おれが連れて行ってあげる。おうい、山ちゃん」
店員は、ちょうど稔が出たばかりのブースを清掃していた山ちゃんという店員に声を掛け、先に昼休みを取るから代わりに受付に立つよう命じた。
稔は、店員に連れられるようにネットカフェを出た。道案内をしてくれるという店員に礼を言うと、店員は実はこのネットカフェの店長で、美濃勝と名乗った。ミノマサルと読むのだが、みんなには〝ミノカツ〟と呼ばれているらしい。
「ミノカツさん、全然なまってないですよね?」
歩きながら稔は、とりあえず自分の名前を名乗ったが、名前のほかに何を話していいか分からなかったので、あまり興味はなかったが、ミノカツのきれいな標準語の理由を聞いた。
「ああ、方言? おれ、こっちの生まれじゃないからさ。お兄さんも東京者だろ?」
ミノカツは店の制服の上からジャンパーを着て、手に大きな財布を持っている。
「いえ、僕は千葉です。ミノカツさんは東京なんですか?」
「実はそうなんだよ。流れながれて東尋坊。まあ、流れもんだな」
「それで店長なんて、凄いですね」
「凄かねえよ。でもまあ、縁があったってこったな。おう、着いた着いた。ここが元祖の店だ。よし。この先の話は、食べながらしよう」
ミノカツはそう言うと、有無を言わせずズンズンと店の中へと入っていった。店自体は、ネットカフェから200メートルほどしかなく、本当に近かった。こんなに近いのに道を聞いたのかと思われたと考えると、稔は少し恥ずかしくなった。
急に知らない人と一緒に昼食を食べることになった。稔は困惑したが、ミノカツはどこか、自分にもしも兄がいたら、こんな感じじゃないかと思わせるような親しみやすさがあった。稔は、こういうのもテレビが言う〝旅の交流〟ってヤツなのかと思い、ミノカツの後を追って店に入った。
店内には、稔が見たことのない、漫画の原画のようなたくさんの作品がきれいに額縁に入れられて飾られていた。ミノカツはこの店の店員とは顔なじみらしく、軽口をききながら、まだ座る席も決まっていないというのに、ボルガライスを二つ注文した。
やっと席に座ると、ミノカツは、
「ここのは野菜がザクザク入ってんだ。うまいぞう。何せ、おれの人生を変えた味だ」
と、自信の逸品を観光客に紹介できてうれしいのか、かなり得意げだ。
「人生を変えた味ですか?」
「そう。ほら先刻、おれは東京からの流れもんだって話したじゃん?」
「ああ、はい」
「おれ、実は五年前、死にに来たんだよ、東尋坊に」
「うそ?」
「うそじゃねえよ。おれ、東京でバンドやっててさ、プロデビューまであと一歩ってとこまで行ったんだぜ」
「バンド?」
「WWWトリプルダブリューってロックバンドなんだけど知らない?」
「ええと、ああ。最近、アニメの主題歌か何かやってたような……」
「そうそう。WWWって、メジャーデビューしてあの名前になったんだけど、その前はウェルス・ウィズアウト・ワークって名前だったんだよ」
「あれって、〝W〟が三つで〝笑笑笑〟で、〝草生える〟って意味じゃなかったんですか?」
「アホう。そんなダセえ名前なわけねえだろ。ウェルス・ウィズアウト・ワーク。労働なき富って意味だよ。まあ、それもふざけた名前なんだがな。おれが付けたんだけど。そんでおれ、その名前ん時まで、リードギターやってたんだよ」
「めちゃくちゃ凄いじゃないっすか」
「だから凄かあないよ。結局、練習しすぎて腱鞘けんしょう炎になっちまって、メンバーにクビ切られたんだから。んで、新しいギターが入って、バンドの名前も、ウェルス・ウィズアウト・ワークの頭文字取って、WWWになったってわけ」
「クビですか……」
「まあ、仕方ないっちゃ仕方ないよ。この手じゃもう、メンバーが求めるハイレベルの演奏ができなくなっちまったんだから」
ミノカツが、うらめしそうに自分の右腕の内側を見つめた。
「まだ痛むんですか?」
「ああ、今でもギター弾くと痛むよ。ギターさえ弾かなけりゃ、それほどでもないんだけどね」
すると、ミノカツの話が一段落するのを待っていたかのように、店員がボルガライスを運んできた。どうしようもなく腹が減っていた稔は、すぐにでも自分のスプーンを皿に飛び込ませたかったが、目の前にミノカツという先輩がいるので、じっと我慢した。
「さあ、食おう。稔君は初めてだろ、ここのボルガライス? マジでうまいから」
そう言ってミノカツは、自分のスプーンにケチャップライスと卵、カツを器用に乗せて小さなボルガライスを作り、それをひと口で食べた。
「うーん、うまい! 稔君もやってみ? 今みたいに、スプーンにミニボルガを作るのが、うまく食べるコツだ」
「ミニボルガっすか」
稔はミノカツに言われるがまま、ミニボルガを作って口に運んだ。タマネギやマッシュルームなど野菜が多いからだろうか、昨日の店よりもソースが甘い。カツも揚げたてサクサクで食感が楽しく、シンプルなケチャップライスと良く合った。
「うわ、たまんねえ! これ、きのうの店よりうまいかも!」
稔は、前日の店のボルガライスを最後の晩餐に選んでいたはずなのに、それをたった一日で覆くつがえした。
「何だ、稔君。昨日もボルガ食ったのかよ。好きだなあ、君も」
目の前でミノカツがうれしそうに笑っている。
「僕、きのうの店のボルガライスを人生最後に食うものって決めたばっかだったんすよ。完全にこっちのが好き。人生最後は、断然こっちっすよ」
「ははは。そりゃあ良かった。そう言ってくれりゃあ、おれも連れてきた甲斐があるよ」
「でもミノカツさん。先刻、このボルガライスが人生変えたとかって……」
稔はアツアツのカツが冷めないようにと、スプーンを止めずに聞いた。
「ああ、そういえばそうだね。おれなんかは、そんな大した話じゃないんだけど……」
ミノカツはそう言うと、スプーンを置いて静かに話し始めた。稔も、食べながら聞いちゃ失礼だろうと、我慢してスプーンを置いた。
「おれさあ、先刻、東尋坊に死にに来たって言ったじゃん?」
「ああ、はい」
「腱鞘炎でバンドクビになって、ヤケになってな。インディーズで少しだけCD売れてたんだけど、そのカネ全部、ヤクにつぎ込んじまって、その後は借金地獄よ。取り立てのヤクザから逃げ回ってたら、気が付いたら東尋坊まで来てたんだよ」
「ヤクって、ラッシュとかスピードとかですか?」
「お? 知ってるねえ。ラッシュとかも確かに出回ってたけど、おれの場合はガッツリ、シャブ。おれをクビにした憎っくきこの右腕に、注射針ぶっ刺してやってね」
「シャブ……」
「ああ。んで、東尋坊に着いたころには、もうヤクもなければカネもなくてね。あれ、キメてる時は良いんだよ、こう、万能感っつうか、おれなら世界も征服できるぞって感じになって。クスリが切れた時は最悪。小人はそこらじゅうからまとわりついてきやがるわ、気味悪い巨人が急に襲ってくるわ……」
「幻覚ってヤツですか」
「そう。その幻覚の巨人と戦おうにも、体は疲れ切ってて動かねえわ、クスリキメてる時の万能感の真逆で、今度は無力感とか脱力感ってのが襲って来やがるんだ。おれなんかゴミだ、カスだ、生きててもしょうがねえ、もう死んじまえって……」
ミノカツは深刻そうな話をしながらも、ボルガライスをひと口食べたので、稔も合わせてひと口を口に運んだ。
「あのころ、とにかく逃げるなら北だって感じで逃げたんだよ。北へ北へって、ヤクザから必死で逃げて、気が付いたら東尋坊。本当に偶然だったんだ。んで、東尋坊っつったら自殺の名所じゃんってなって。そうと分かったらもう簡単だ。じゃあ、そこから飛んじまおうって」
「そんな簡単に……」
「そこがヤクの怖いところだよ。ヤクが切れて、自分でももう、どうでもよくなってたところに、別の自分が『お前なんて、さっさと死んじまえ』って命令して来るんだ」
「それで、飛んだんすか?」
「バカ! 飛んだらおれ、今、ここにいねえだろうが」
「あ、そうっすね」
「んで、東尋坊でフラフラしてた時、救ってくれたのが、今働いてるネカフェのオーナーだったおやっさんだ」
「オーナーだった?」
「おやっさん、病気で去年亡くなっちまったんだけどさ。おれが東尋坊をさまよってた時、おやっさんが声を掛けてくれたんだ。あそこ、自殺の名所だから、おやっさん、あそこで自殺防止ボランティアをやっててな。おれが飛ぼうとした時に、後ろから羽交い締めにして、止めてくれたんだよ」
「じゃあ、本当に飛び降りる寸前っすか……」
「ああ。まだ若いのに何だ、カネがないからどうしたって、散々ひっぱたかれてさ。親にも教師にもひっぱたかれたことなんてなかったから、あれで目が覚めたんだ。そこからあのネカフェにおれを住み込ませて、おれから完全にクスリを断ち切らせてくれたんだ。あ、ちゃんとおやっさんに警察にも連れて行ってもらって、あんま大きな声じゃ言えないが、今は使用の罪で執行猶予中だ」
「執行猶予っすか。エモいっすね」
「アホ! 意味も分からずエモいなんて言葉使うな。執行猶予のどこが感動したってんだよ。意味違うだろ」
「あ、そうっすね。つい癖で……。すいません……」
「謝らなくてもいいけどさ、でもその〝クスリ抜き〟ってのが無茶苦茶キツくってね。そもそも食欲ってのがなくなってたんだけど、モノがろくに食えなかったから、体重も四十キロ台とかだったんじゃないかな、あのころ。結局、一年ぐらい経ったのかな。徐々にモノも食えるようになってきて、おれももう、ネカフェでかなり働けるようになって。おやっさんがおれの目を見て、『もう大丈夫だろう』って、この店に連れてきてくれたんだ」
「薬物依存から回復したごほうびっすかね?」
「悪いが、そんなに軽くないんだ。おやっさんはな、『このボルガライスが食えたら、お前はもう大丈夫だ。食えないなら、またクスリ抜きを一からやり直す』って言ったんだよ。クスリ抜きの卒業試験ってヤツだ」
「卒業試験……。それで、その試験には合格できたんすか?」
「合格も何も、こんなにうまいもん、おれはあの時、初めて食べたんだ。涙が出たよ。感動した。これこそ本当のエモーショナルってヤツだ。おれは夢中で食った。するとおやっさん、あの時、君が今座ってるその席に座ってたんだけど、おれの肩をポンポンって叩いてくれてな。『きょうがお前の新しい人生の始まりだ。この味を絶対に忘れるな』って。だから、おれにとってこの店のボルガライスは、第二の人生のスタートの味なんだ」
同じ一皿を最後の晩餐にしようなどと考える自分のような人間もいれば、新しい人生のスタートの味だと言う人間もいる。稔は、料理というものはこんなにも奥深いものだったのかと、目から鱗うろこが落ちる思いがした。稔は、残ったボルガライスを大事そうに食べるミノカツに、一つだけ質問をしてみた。
「ミノカツさん。そんな大事な話を、どうして僕なんかにしてくれたんすか?」
皿から顔を上げたミノカツは、口の周りにソースを付けたまま、
「ん? ああ、何か、稔君の目を見てたら、何でか分からないけど、どうしても話さなきゃいけないような気がしてね。おれに弟がいたらこんなかな、なんて思ったりもしたし。人ってそういうもんだよ」
と、無邪気に笑った。
会話が途切れて二人ともボルガライスをきれいに平らげると、店員がすぐに食後のコーヒーを持ってきた。この店は本当に客の様子を良く見ている。何か話さなきゃと考えた稔は、半生を打ち明けてくれたミノカツに、自分も今抱えている悩みを打ち明けてみようと思った。
「ミノカツさんって、何でもかんでも順位をつける今の日本社会について、どう思います?」
するとミノカツは、
「ああ、あのググルーのヤツ? 何か日本中で大ブームになってるらしいね」
と言いながら、自分のコーヒーに角砂糖を四つも入れた。
「僕、人に順位をつけるのって、良くないと思うんですよ。学校でもずっとそう教わってきたし。人間にはみんな、平等に生きる権利ってもんがあると思うんすよ」
それを聞いたミノカツは、少し考えるそぶりを見せた後、
「稔君はその頭だ、野球少年だろ?」
と聞いた。
「はい。今年の夏に引退しましたが」
「稔君は一年間、プロ野球を観てたとして、一年で誰が一番ホームランを打ったかって知りたくないかい?」
「そりゃまあ、最多勝だって最高打率だって、最多盗塁だって知りたいっすよ」
「それで、首位打者の選手が、打率二割の選手より給料が安かったら困るだろ? そうしないためにも、やっぱ順位づけってのは必要なんじゃない?」
「それはプロなんだから当然ですが……」
「違うか。じゃあさ、稔がどっかの村の村長だったとして、村人たちが毎日、狩りの収穫を持ってくるとする。いつも体を鍛えてるマッチョな村人が牛一頭を捕まえてきた。次の日もまた次の日も、そのマッチョは体に傷を作りながら、牛一頭を捕まえてきた。体も鍛えず、弓の練習もせず、罠わなの仕掛け方も学ばないヒョロヒョロの村人は毎日、収穫ゼロだ。稔村長は誰が毎日、牛を捕まえてくるのかを知らない。稔村長は、収穫を村民に平等に分配するか?」
「そんななまけ者がいるって分かれば、ヒョロヒョロ野郎には分配しませんよ」
「だろ? 誰が一番頑張って、誰が一番頑張らなかったのかって知らないと、村長としてはまずいだろう。マッチョはほめてやらなきゃならんし、ヒョロヒョロはしからなきゃならん。順位づけってのは、そういうもんだと思えばいい」
「でも、学校ではみんな平等だって教わりましたよ?」
「そんなもの、上っ面だけだよ。そう言った方が聞こえが良いだろう。日本は資本主義社会だ。悪く言えば、カネがすべてだ。順位が上の人間にしかカネは集まらん。じゃあ、順位が下の人間はどうするか。努力して努力して、順位を上げるしかないんだよ」
「努力って……。今から努力して、僕なんか間に合いますかね……」
「バカ言うなよ。君なんてまだ十代だろ? 間に合うも何も、まだ始まってもいないよ。これからこれから。おれだって、三十五の前科者だけど、まだまだこれからだぜ? 今、作曲の勉強をしてるんだ。ギターが弾けなくたって作曲はできる。いつか、みんなが腰抜かすような名曲作って、必ず音楽界にカムバックしてやるんだ。人生、死ぬまで勉強だよ。あ、これ、おやっさんの受け売りなんだけどな。ははは」
豪快に笑ったミノカツは、壁の時計を見るとスッと伝票を取って「じゃ、そろそろ仕事に戻るわ。頑張れ、少年!」と言って立ち上がり、稔の分まで支払いを済ませてネットカフェへと戻って行った。
おやっさんに助けてもらった命で第二の人生か。おれにも第二の人生ってあるのかな。いや、おれの人生はまだ始まってすらいないんだっけ。努力で順位の差って埋まるのかな。ミノカツさんか。制服の名札は〝美濃〟で、カツは〝勝〟ってなってたな……。
稔は、いつもの癖で自分の第二の人生が何なのかをインターネットに聞いてみようと思った。さらに、ミノカツという人がどういう人物なのかも調べてみようと、ポケットに右手を入れた。そこにスマホはなく、稔はハッとした。スマホは昨日、海に投げ捨てたというのに、反射的にあるべき場所にスマホがないと、いつも一瞬焦ってしまう。
「人ってそういうもんだよ」。先刻のミノカツの言葉が頭をよぎった。人には直接会わないと分からないことというものが必ずある。この人は怖そうだ、この人は優しそうだという感覚も、この人はうそを言ってそうだ、緊張してそうだ、演技してそうだなんて感覚も、会わないと分からない。この人は一度会ったことがあるような気がするなんてことは、そもそも一度会わないと味わえない感覚なのだ。人と直接会って話すということがいかに大事なことであるか。そう気付いた稔は、またもインターネットに頼ろうとした自分の右手をポケットから出し、苦笑いした。そして、そう気付かせてくれたのはミノカツだ。稔は野球部流に「あしたっ」と叫び、ネットカフェに戻っていくミノカツの後ろ姿に向かって頭を下げた。
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腹がふくれた稔は、もうほとんど、千葉のアパートに帰る気になっていた。だが、稔は駅には向かわず、再び東尋坊に足を向けた。帰る前にもう一回、日本海を見ておこうと思ったのもあったが、わざわざこんなにも遠くまで来たのだから、やはり死ななければカッコ悪いという思いも少しだけあった。もしもこのまま帰って、自分のSNSに「東尋坊まで行ったが死ねなかった」なんて書き込んだら、世界中から、「初めから死ぬ気なんてなかったくせに」とか「チキン野郎」とか、「口だけ野郎」、「電車代の無駄だ」などと、めちゃくちゃに批判されることが予想できたからだ。
崖に到着すると、まだ昼すぎだったせいか、観光客は前日よりも多かった。本当に死ぬとしたら、こんなに観光客だらけでは死ねない。稔は昨日見つけた、崖が見渡せる観光写真の撮影スポットまで行き、適当な岩場に座って、観光客がいなくなるのを待ってみた。
自殺の名所って言ってたけど、ミノカツさん、あの崖の先っぽから飛ぼうとしたのかな。海に落ちる前に岩に当たったら痛そうだな。ん? 海に落ちたら死ねないんじゃねえか? みんな、海に落ちる前に岩に当たって死んでるのか? 日本海の荒波って白いんだな。あ、あんだけ白く水しぶきが上がってるってことは、底は浅いのか? だとしたら、やっぱり海に落ちてイチコロか。プールで飛び込んで腹打っただけでもすげえ痛えのに、海面で腹打って、すぐに海の底の岩に当たるのか。それって地獄じゃん……。
そんなことを考えていると日も落ちてきて、観光客もボチボチと減り始めた。
映画やドラマなら、ここでカットが掛かって、次のシーンに移るのだろうが、現実にそんなことは起きない。崖から飛び降りるにしろ、アパートに帰るにしろ、自分で決断しないといけない。
さて、どうすっかな……。帰るにしても、スマホがねえから帰り道分かんねえしな。結構冷えてきたな。あのじいさんばあさんが帰ったら飛ぶか? ネットじゃみんな、おれに「死ね」って言ってたしな。でも痛そうだな。とりあえず崖の先っぽまで行ってから考えるか? 考えるって何を? 飛ぶか飛ばないかか? ミノカツさんはヤク中でわけ分からなくなってたから先っぽまで行ったのかも知れないけど、おれはヤク中でも何でもないぞ。崖の下なんかのぞいたら怖くなるんじゃないか? まったくのしらふで自殺する人って、すげえ勇気があるってことなのか? おれにはそんな勇気はない? ネットが言う通り、おれは口だけ野郎でチキン野郎ってことか? 勇気? 勇気だけであそこから飛べるもんなのか? 借金とかもあるんだろうけど、韓国みたいにネットが中傷しまくって自殺に追い込むって聞いたことがあるな。あ、今のおれってそうじゃん? じゃあ、このまま飛んだら、勇気を持って飛んだってわけじゃなくて、ネット中傷に飛ばされたってことになるんじゃないのか? ああ、何か考えるのも面倒くさくなってきた。考えるのも面倒くさい? ああ、そうか。勇気なんて関係ない。人生のいろんなことを考えるのが面倒くさくなって、「もういいや、飛んじまえ」って人もいるんじゃないのか……。
昨日と同じ夕日が東尋坊を赤く染めている。稔は観光客らしき老夫婦が帰ったのを確認すると、立ち上がって崖の先端に向かって歩き始めた。崖の先端に立つと、足元には崖、目の前には空と海と太陽しか見えない。両手を広げると、日本海からの風を感じた。崖の上で夕日に照らされた自分の姿を想像すると、映画やドラマの主人公にでもなったような気分だ。
人もいなければスマホもインターネットもない。ただ生きている。そう実感しながらも、稔は、
「ここでスッと飛べば、カッコいいのかな」
とつぶやき、崖の下をのぞき込んだ。はるか下の方で荒波が岩壁を激しく洗い、人間が来るのを拒んでいた。稔は一瞬、クラクラっと目まいがして、へなへなとその場に腰を抜かすように座り込んだ。
正気を取り戻して首を左右に振った稔は、
「何だよ、おれ。高所恐怖症だったのかよ。ググルーで自分を調べた時、そんなことどこにも書いてなかったぞ」
と言い、自分が実は高所恐怖症だったということに今初めて気付き驚いた。そういえば今まで、稔は高いタワーやビルに登ったことがなかった。
稔は少し気持ちを落ち着かせようと、座り込んだままの姿勢でいると、陸の方から、「おうい」と呼ぶ声がした。
稔が振り返ると、緑のキャップをかぶった老人がこちらに向かって歩いて来ていた。真っ赤なジャンパーの上から、交通安全協会の人が着るような反射材の付いたチョッキのようなものを着ている。一見して、何かの団体のユニフォームのようだ。
「君、もう危ないから帰りなさい」
老人は懐中電灯を照らしていたが、まだ日は沈みきっていなかったので、キャップの下の顔が確認できた。
「……御法川さん?」
その顔は、自宅近くの公園でウオーキングをしていた、御法川老人と瓜二つだった。
「ミノリカワ? わしゃ、ミノリカワじゃなくて蓑じゃが、お前さん、どっかで会ったかの?」
「ミノ? おじいさん、御法川さんでしょ?」
「いや、蓑じゃ。蓑笠の蓑に聡明の聡で蓑聡じゃ。富山に多い名字なんじゃが、お前さん、東京もんかい?」
「いえ、千葉です。田中稔と言います」
「ふうん。まあええ。とにかくもう暗くて危ない。陸に戻ろう」
蓑老人に連れられて陸に戻る途中、稔は隣を歩く蓑老人の顔をチラチラと見た。
「そんなに似てるかの? そのミノリカワって人に」
「あ、ごめんなさい。ホントにそっくりで……。蓑さん、生き別れた双子の兄弟とかいませんか? 何かミノリカワとミノで名字も似てるし」
「兄弟は八人おったが、まだ生きてんのはわし入れて四人だけじゃ。双子なんて一人もおらん。お前さん、千葉からって、観光かい? そうは見えなんだが」
「あ、ええと、はい。ボルガライスを食いに……」
「ボルガライス? ホントかね?」
「ホントっすよ」
「じゃあ何で、お前さんはきのうもこの東尋坊に来とったんじゃ?」
「え? きのうもっておじいさん、きのうも僕を見てたんすか?」
「わしゃボランティアで、毎日パトロールしとるんじゃ。ほら」
蓑老人はキャップを取って、書いてある文字を見せた。
「自殺防止ボランティア……」
「お前さん、高校生ぐらいじゃろ? 手ぶらだわ、携帯電話で写真撮ったりもしてなかったから、目立っとったぞ。今の若いのは、みいんな携帯電話でバシャバシャやるんじゃろう。どうした、携帯電話は?」
「携帯電話……。スマートフォンは海に捨てました」
稔は、もしかしたら昨日、スマホを海に投げ捨てるところも蓑老人に見られていたかも知れないと思い、素直に答えた。
「海に捨てたか……。よし、お前さん。体も冷えたろう。ボランティア小屋でへしこ茶漬け食っていかんか?」
「へしこ茶漬け?」
「へしこは福井の名物なんじゃ。あったまるぞう」
東尋坊タワーの駐車場の近くまで歩くと、工事現場に置いてあるような小さなプレハブ小屋があった。入り口には、木の看板に墨文字で「東尋坊自殺防止ボランティア連合会」と書かれてあった。
小屋は十畳ほどの広さで、中央のダルマストーブを囲むように、パイプいすが三脚だけ置いてあった。小さな台所と冷蔵庫もあって、部屋の隅に蓑老人が着ているのと同じボランティア用のキャップやジャンパーなどが積まれている。いかにもボランティアの休憩所という感じだ。
「すぐストーブ点けてやっから、ちょっと座って待っとれ」
蓑老人は、手慣れた感じでマッチを使ってストーブに火を入れ、その上に水の入ったやかんを置いた。ダルマストーブの威力は絶大で、狭い部屋があっという間に暖かくなったので、稔は着ていたジャンパーを脱いで、座っていたパイプいすに掛けた。
「お前さんは、年はいくつだね?」
蓑老人が、台所からコップと日本酒の一升瓶を持ってきて、パイプいすに座りながら聞いた。
「十八です」
「十八か。じゃあ、酒はまだ呑めんな」
やかんの水がグラグラと沸騰してきた。それを確認した蓑老人はまた台所に行き、冷蔵庫から取り出した栄養ドリンクを、稔に向かってポーンと放り投げた。
「こんなところじゃから、こんなもんしかねえんだが」
「あ、ありがとうございます」
稔が左手一本でキャッチすると、蓑老人はパックご飯と丼、冷蔵庫からへしこの入ったタッパーを持ってきて、パックご飯をやかんの中に放り込んだ。
「え? これであっためるんすか? 電子レンジとかって……」
「そんなものはない。わしゃあ嫌いなんじゃ、あの電子レンジってもんが。なんか変な電波が出てそうじゃろう、あれ」
「あはは。変な電波って、そんなもん、出てないっすよ」
「お? 笑ったね? わしゃ八十年間、一度も電子レンジってもんを使ったことがないのが自慢なんだが」
「あはは。八十年前なんて、そもそもまだ電子レンジないでしょ?」
「言われてみればそうか。ははは。まあええ。それにしても、お前さんも、ええ顔で笑うな。お? そろそろあったまったか」
蓑老人はそう言うと、やかんから温まったパックご飯を取り出して丼に開け、へしこを乗せて、たった今湯煎ゆせんに使ったばかりのやかんの湯をドボドボとかけた。お湯が茶色っぽかった。
あのやかん、錆さびてんじゃないか……。
稔は湯煎の湯をそのまま使ったことに目を丸くして不安になったが、あっという間に完成したへしこ茶漬けからは良いにおいがした。丼を差し出した蓑老人の優しそうな表情を見ると、文句は言えなかった。それよりも、他人に笑顔をほめられた経験は初めてだったので、こっちの方が少しうれしかった。八十年生きてきて、これまでに何百人、何千人と人を見てきた蓑老人にほめられたのだと考えると、何だか自信になるような気がした。
「ほれ。これがへしこ茶漬けじゃ。食ってみい」
蓑老人から素直に丼を受け取ると、稔は優しそうな蓑老人を気遣って、絶対に嫌そうな表情はすまいと心掛けながら、丼に口を付けてひと口、お湯をすすった。
「え? うまい! 出汁が効いてる! 何で? へしこって、あんな一瞬、お湯かけただけで出汁が出るの?」
稔が驚くと、蓑老人は、
「ははは。お湯かけただけじゃダメじゃよ。ほら。やかんには最初から昆布が入っとるんじゃ」
と言って、やかんの中をのぞかせた。稔が見ると、確かに分厚い昆布が一枚、中に入っていた。
「じゃあ、出汁でご飯、あっためたんすか?」
「お前さんたち若者は、こういうのを時短って言うんじゃろ? わしだって、時短ぐらいできるんじゃ」
世に言う〝時短レシピ〟とは少し違う気がしたが、蓑老人は得意げだ。稔はとりあえず気にしないことにして、今度はご飯とへしこをサラサラとかき込んだ。
「はあぁ、あったまる……。うまいっすねえ、これ」
ただのパックご飯を温めただけだというのに、心からうまかった。そのご飯も、水分子を振動させて温める電子レンジとはまったく違っていて、どこか本当の手料理の温かさのようなものを感じた。これが、蓑老人が言う、変な電波が出ていない温め方なのだろうか。
「このへしこって、そもそも何なんすか?」
「へしこか? それはサバのへしこなんじゃが、まあ、保存食じゃな。イワシとか、フグのへしこってのもある。漁師が獲ってきた魚を樽たるに塩漬けするんじゃが、それをこの辺じゃ〝へし込む〟って言うんじゃ。わしなんかはほら、茶漬けなんかにはせず、そのまま酒の肴さかなにしちまうんじゃがな」
蓑老人がタッパーからへしこをひと切れ指でつまんで口に放り込み、コップ酒をあおった。
それを見て、稔は夢中になって茶漬けをかき込んだ。本当なら自分から話し掛けて、楽しい食事風景を作らなければいけないと思ったが、そうしなかった。そんな大人ぶったことはしないで、子どもらしくそうした。理由は分からないが、どういうわけか、蓑老人の前では、それが許されるような気がした。
すると、稔はあっという間に茶漬けの丼を平らげた。
「はあ、うまかった! ありがとうございました! ごちそうさまでした!」
「もう全部食ったんか? さすがは十八歳じゃな」
「丼、台所で洗えばいいっすか?」
「その台所、水道管繋がってないから出んのじゃ。タワーのトイレで洗ってきてくれんか? 洗剤とスポンジは台所に置いてある」
「はい、分かりました」
稔は、他人の自分にこれだけのことをしてくれた蓑老人に対し、どうお礼をしたら良いのかが分からなかったので、野球部一年生の機敏さで丼を持ってタワーまで走り、丼を洗って全力で小屋に戻った。そうすると、丼は小屋に着くころにはすっかり水切りされていた。
「戻りましたぁ。丼、台所に置いておけばいいっすか?」
稔が息を切らせて小屋に戻ると、蓑老人はうまそうにたばこをふかしていた。
「おう、随分早かったな。うん、台所に置いといてくれればええ。寒かったろう。ストーブの前においで」
稔は台所に丼を置くと、そこに灰皿があったので、それを持って蓑老人の隣に座って手渡した。
「おう、ありがとう。どうじゃった、へしこは? お前さんも若いから、まだまだ知らない食べ物がいっぱいあるじゃろう?」
「あ、はい。うまかったっす。ごちそうさまでした。千葉では食べたことのない味でした」
「そうじゃろう。房総は気候も温暖で漁場も豊富じゃから、魚を塩漬けにして保存しようなんて発想はないからの。新鮮な魚を新鮮なまま食えるのは幸せなことじゃが、この辺の冬は厳しい。もうじき雪も降り始めるし、海も荒れれば漁にも出られなくなる。この厳しい冬を乗り越えるためにできたのがへしこじゃ。厳しい環境に置かれたからこそ、人間はこうやって知恵を絞って工夫して、いろんなものを作り上げてきたってことなんじゃ」
「なるほど……。食べ物にもちゃんと、生い立ちみたいなものがあるんすね」
稔が感心すると、蓑老人はたばこを灰皿でもみ消しながら、
「そうじゃ。食べ物だけじゃなく、どんな生き物にも生まれてきた理由てもんが必ずあるんじゃ」
と言って、稔の目を真っ直ぐに見据えた。
「生まれてきた理由……」
「お前さん、東尋坊に自殺しに来たんじゃろう?」
蓑老人は自殺防止ボランティアだ。当然、こういう話になって説教されるだろうと思っていた稔は、どう答えればその説教が少しでも軽くなるだろうかと考え、とっさに、
「え? あ、そ、そうっすけど、本気じゃないっすよ? ちょっと、崖の様子を見に来ただけっていうか……」
と答えた。恐るおそる様子を伺うと、蓑老人は穏やかに笑っていた。
「お前さんたちの言う、〝何となく〟ってヤツじゃな? 何となく死のうかなあなんて思って、何となく崖の上に立つ。そのまま、何となくで飛び降りちまう人間もいるにはいるが、まあ、そんなのは正気を失っとる人間じゃ。大半の人間は、何となくじゃ飛べやしない。どうしてか分かるか?」
「……いえ」
「人間は考えるからじゃ。飛ぶ直前、自分の人生はどうだったか、このまま生きていたらこの先どうなるのか、自分が死んだら誰が悲しむか、誰が喜ぶか、誰に責任を取らせるか。海に飛び込んで一瞬で死ねるのか、身体中を激しく打って溺おぼれ死ぬのか、風にあおられて岩に当たったら痛そうだ、痛いだけで死ねなかったらどうするのか。お前さんも、そうじゃったろう?」
「……確かに、岩に当たったら痛そうだなと……」
「先刻も言ったように、崖から躊躇ちゅうちょなく飛べるのは、正気を失った人間だけじゃ。お前さんのように、正気を失っていない人間は、簡単には飛べやしないんじゃ」
「で、でも、この国って、結構毎年、何万人も自殺してるってニュースでやってたような気が……」
「いいかい、稔……」
蓑老人に急に名前で呼ばれ、稔はドキリとした。稔を真っ直ぐ見据える蓑老人の目を見て、稔は返事をする代わりにうなずいた。
「生き物ってのはそもそも、自殺なんかしない。すべての生き物は、その種を残すために生まれてきたんじゃ。それが生まれてきた意味じゃ。こればっかりは、絶対に動かない。じゃあ、何で人間が自殺するか。病気を苦にって場合もあるにはあるが、そのほとんどは、周りの人間に自殺させられているんじゃ」
「周りの人間……ですか?」
「そう。借金だったり、いじめだったり、周りの人間がその人を徹底的に追い詰めるんじゃ。そうして、借金が返せないんだから死ぬしかない、みんなが死ねって言うから死ぬしかない、自殺すればいじめた人間に仕返しができる、なんて、死ぬ理由を探し出す。死ぬ理由なんてもんは、そんなもん、そもそもありゃあせん。だから、死ぬ理由なんてもんを探し始めたら、その人はすでに正気を失っとるんじゃよ。インターネットなんてもんは、その最たるものじゃ。世界中の人間から、お前なんかもう死んじまえなんて言われ続けてみい? 誰だって正気じゃいられなくなるもんじゃよ」
蓑老人にそう言われてみれば、稔は確かに、誰からも追い詰められていない。千五百件を超えるコメントで炎上した時は、少しだけ「おれは本当に死ぬのか」などと考えはしたが、それもただのネット上の話だ。実際に面と向かって千五百人から「死ね」と言われたわけじゃあない。ネットは人ごとみたいにしか思えないから平気だった。単に自分で勝手にこの世の中に嫌気が差して、自分で勝手に死んでやると考えて、しかるべき東尋坊という場所に来た。もしかしたらその行為をした自分に酔っていただけで、本当に死んでしまおうとは考えていなかったのかも知れない。だって、ちょっと福井に旅行しただけで、あんなにうまいボルガライスが食えたのだ。日本にはもっと、うまいものがたくさんある。それなら、世界にはもっとうまいものがあるはずだ。この旅行中、死ぬことなんかより、まだ見ぬうまいもののことばかり考えていたのだから。だが、稔にはまだ、分からないことがあった。
「生まれてきた理由と死ぬ理由ってのは分かりましたが、じゃあ、生きる理由ってのもあるんですか」
稔は襟えりを正して、真っ直ぐに蓑老人に聞いた。
「……稔。じゃあまず、稔は何で死のうと思ったんじゃ?」
蓑老人も持っていたコップ酒を床に置き、稔と真っ直ぐ向かい合った。
「それはほら、今のランキング社会ですよ。人でもモノでも何でも順位を付けるから、世の中はランキング上位の人たちだけで回ってる。ランキング下位の人間なんかは才能なしとされて相手にもされなくなってる。僕だって、自分にも何かしら才能があるはずだと思って、めちゃくちゃネットで調べました。それで、一番順位が良かったの、牛丼屋の店員っすよ? 勉強もダメ、野球もダメ、得意だと思ってたゲームですらダメ。就職しようと思っても、一流企業はみんな、ランキング上位しか採用しないからダメ。才能なしの僕なんかがなれるのは、牛丼屋の店員だけです。しかもバイトっすよ? 牛丼屋の店員になるためだけに生まれてきたなんて、バカげてます。それならいっそのこと……って、思っちゃったんです」
「才能がないから、自分はこの世に必要ないと思ったか……。ふん、バカバカしい。稔。そもそもお前さんには、初めから才能なんてものは何もない」
蓑老人に断言され、稔はハッとした。これまで稔たち子どもは、大人たちに「どんな人にも必ず一つぐらい才能がある」、「その才能を探せ」、「才能を見つけたらひたすら磨け」と教えられてきた。稔もそう信じていたのに、ググルー・ランクの登場がその思いを打ち砕いた。自分に才能がないことは自分でも認めざるを得なくなっていたというのに、面と向かってあらためて蓑老人に才能がないと断言されると、稔は返す言葉を失った。
「稔。誰にでも才能があるなんて考えは、逆じゃ。生まれた時から才能がある人なんてのはおらん。才能なんてもんは、生まれた後から身に付けるもんじゃ」
「で、でも、天才っているじゃないですか。メジャーに行った大谷とか。芸能人の子どもなんて、顔が似てるだけで俳優になったり、モデルになったりしてるし。あれって立派な才能なんじゃ……」
「稔は野球をやるのかの?」
「あ、はい。今年の夏で引退しましたけど……」
「じゃあ、それなりに練習はしてきたから、体は引き締まっとるの?」
「それなりに練習したのは去年までですけど、まあ……」
「同じクラスに太ってる子はいるかの?」
「肥田ってのが百キロいってますが」
「それじゃあね、稔。お前さんが大谷を天才だ、ずるいって言うのは、肥田君がお前さんを天才だ、ずるいって言うのと一緒だよ」
「僕が天才?」
「別にお前さんをほめようってんじゃない。じゃあまず、お前さんが学校で肥田君に『自分はこんなにも太ってるってのに、田中は生まれつき体が引き締まっててずるい』って言われたら、どう思う?」
「そりゃあ、こっちは毎日走り込みしてたんだ、ずるいって言うならおめえも走れよって……」
「そうじゃろう。じゃあ何で、稔は大谷のことを天才だ、ずるいなんて言えるんじゃ?」
「あ……」
「ええか、稔。大谷から言わせれば、お前さんはただのんべんだらりと練習に参加してただけじゃ。それは練習とは違う。ただの部活動じゃ。そもそも大谷は、稔の何十倍と練習しとるし、その練習も、例えばこの筋肉を鍛えれば球速がアップするとか、ここを鍛えすぎるとけがしやすくなるから、こっちも鍛えようとか、考えては練習し、練習しては確かめてと、何度も何度も繰り返しやっとる。その上、野球は感覚のスポーツでもあるじゃろう。ボールを投げる時の指の引っ掛かり具合とか、ボールを打つ時のバットのひねり具合とか、反復練習を繰り返して、その感覚を身につけようとしとるんじゃ」
「それは、僕でも分かりますけど……」
「分かるけど、稔はそれをせんかったから、今、才能なしになっとるんじゃろ? お前さんは、ただ走り込めと言われて走り込んで、ただ守備練習しろと言われて守備練習し、ただ打撃練習しろと言われて打撃練習をしただけ。だからお前さんはレギュラーにはなれなかったんじゃろ? 同じ練習をしてるのに、どうしてアイツがレギュラーなんだと思ったことはなかったか? そのレギュラーになった子ってのは、別に生まれ持っての才能があったわけじゃあない。大谷と同じ。お前さんよりもきちんと考えて、目標を持って練習してたってことじゃ。稔。人間、生まれ持った才能なんてない。きちんと考えて日々練習を繰り返す。経験の積み重ねが才能になるんじゃよ」
稔は、蓑老人が野球に詳しいことに感心したが、とにかく負けまいと、必死で食い下がった。
「で、でも、それで人間に順位を付けるなんて、やっぱおかしいっすよ。僕の上になんて何万人もいるのに、それをどうやってひっくり返すんすか」
「そんなもん、今からひっくり返せるわけがなかろう。お前さんがやっと練習の大切さに気付いて、今から時速百キロで追い掛けたって、大谷ははるか先を時速百キロで走っとるんじゃ。その上、絶対にスピードを落とさないどころか、引退するその日まで加速し続ける。どんな世界も、トップの人間ってのは、そういうもんじゃ」
「そんな……。じゃあやっぱり、僕の生きる理由なんてないじゃないっすか……」
「何じゃ? 大谷に追い付けないって分かっただけで、もう生きる理由がないか? じゃあ稔は、大谷にはどんな生きる意味があると思うんじゃ?」
「大谷にですか? そりゃあ、日本球界が送り出したトップ選手として、アメリカであれだけの成績を残してファンを楽しませてるんすから、生きる意味はあるじゃないっすか?」
「じゃあ、大谷がもしこの世に存在してなかったら、ファンは野球を楽しめんか? そうじゃないだろう。大谷がいなきゃいないで、野球ファンは変わらず、毎年野球を楽しむじゃろう?」
「そりゃあまあ、そうですが……」
「もし大谷がいなかったら、サイ・ヤング賞は別の選手が獲るに決まっとるし、ホームランだって、別に大谷が打たなくても別の選手が打つに決まっとる。トップの選手でさえ、代わりはいくらでもいるってことじゃ」
「百年に一人の逸材っすよ? 大谷の代わりなんて、いるわけないじゃないっすか!」
稔は、大好きな大谷選手のことをいなくてもいいなんて言われて腹が立ち、少し興奮して蓑老人にかみついた。
「まあ待て。わしだって野球は観るし大谷も好きじゃから、別に大谷がいない方がいいとは言っとらん。もしもいなかったとしても、代わりはいるって話をしとるんじゃ。稔は〝アリの巣の法則〟を知っとるかの?」
「アリ? そりゃあ、アリは知ってますけど……」
「アリの巣には、女王アリのほかに数千、数万の働きアリがいるのは知っとるな?」
「まあ……」
「そのうちの二割のアリはよく働く、六割は普通で、残りの二割のアリは、まったく働かんのじゃ。じゃがな、この働かない二割だけで新しい巣を作ってみると、面白いんじゃ」
「なまけ者軍団じゃ、巣なんて作れないでしょ?」
「それができるんじゃよ。今度はそのなまけ者軍団の中から、二割がよく働くアリになるんじゃ。六割がまた普通のアリ。残りの二割は、相変わらずまったく働かないままんじゃ」
「へえ……。確かに面白いっすね」
「この法則は、人間社会にも当てはまると言われとる。じゃから、よく働く二割の人間が組織からいなくなっても、残りの八割の中からよく働く人間が同じ比率で出てくるんじゃ。大谷がいなくなっても、第二、第三の大谷が出てくるってことじゃな。逆に、まったく働かない人間を追い出しても、また同じ比率でまったく働かない人間が出てくるんじゃよ」
稔は、初めて聞いたアリの巣の法則に興味を持ったが、やはり大谷がいなくなっても第二、第三の大谷が出るというのは納得ができない。
「大谷は百六十五キロ投げるんすよ? その大谷がいなくなったからって、今まで百四十キロだったピッチャーが百六十五キロなんて、投げられるわけないっすよ! ネットで日本の歴代球速ランキングを調べたら、大谷は、い……、あ、二位っすよ?」
稔はとっさに、ググルー・ランクで故人の金田正市が一位になっていたことを思い出した。
「大谷とまったく同じ能力の選手が同じチームから出るとは思わんで、大谷がいなくなれば、いなくなった後の球界には必ず、大谷のようによく働く選手が現れるぐらいに思った方がええ。ま、インターネットのランキングなぞ、わしゃあどうでもいいと思っとるが、球速だって人間が投げられる球速じゃ。いつか同じ球速を投げられる選手は必ず出る。そういうもんじゃ」
今からおれに、大谷を暗殺しに行けとでも言うのか? 大谷がこの世から消えたって、おれなんかがその代わりになんて、絶対になれっこないじゃないか……。
稔が返答に困っていると、蓑老人は、
「ランキングが低いからといって、稔にもちゃんと、生きる理由ってもんがある」
と、今度は稔が人生に希望が持てるような感じで断言した。
「生きる理由がある?」
稔は期待して答えを待つと、蓑老人が床からコップ酒を拾い上げ、グッとあおった。
「わしも稔も、大谷だって、同じ地球に生まれた同じ人間というただの生き物じゃ。すべての生き物は生まれてきた環境に適応し、進化して、その種を永遠に残していかねばならん。それが生きる意味じゃ」
蓑老人は、相変わらず優しそうな目をして言った。酒に酔っている様子はない。どうせ巷にあふれる演歌やポップソングのように、愛だの恋だののために生きろ、生んでくれた両親のために生きろとでも言うのかとでも思ったが、蓑老人はただ、地球上の生物として生きろと言った。
♪ミミズだ〜って オケラだ〜って アメンボだ〜って〜
頭の中に、はるか昔に歌った「手のひらを太陽に」が流れた。
そりゃあ正論だけど、人間ってそんなもんか? 自殺防止のプロなら、もっとほかに言いようってものがなかったのかよ……。この時間は何だったんだ……。
「……ありがとうございました。もう帰ります」
蓑老人に失望した稔は、ガックリと肩を落とした。
「おう。死ぬのはやめて帰るか。そりゃあ良かった。よし。そんじゃあわしが、駅まで送ったる」
「え? 何でですか? 大丈夫ですよ、一人で」
「お前さんは初めから死ぬ気はなかったんだから大丈夫だとは思うが、わしが死ぬのを止めた人間を一人で帰しちまって、後で帰り道にやっぱり死ぬなんて思われちゃいかん。ボランティアの仕事は、お前さんがちゃんと電車に乗るのを見届けんと終わらんのじゃ」
ストーブを消し、二人でジャンパーを着込んでプレハブを出ると、すでに辺りは真っ暗だった。空を見ると、今までに見たことのない無数の星がまたたいていた。満月がやたらと明るかった。
そうだ。ここは北陸だったんだ……。
稔は蓑老人と並んで、街灯がほとんどない駅までの道を歩き始めた。都会はどこに行っても街灯だらけだから、月明かりの道を歩くという経験は初めてだった。
「電気がなくても歩けるもんなんすね」
「電気だらけの都会じゃ、月もかすんどるか」
「はい。月がまぶしいなんて思ったことありません」
「月はずうっと昔から変わらずあの明るさじゃよ。かすむのが嫌なら、見る場所を変えりゃあええ……」
しばらく歩くと、蓑老人は、東尋坊タワーができる前に観望台だったという小高い丘に稔を案内した。とは言っても、階段は稔が蓑老人の手を引き、一段一段ゆっくりと上がった。
頂上に着くと、日本海に浮かぶ満月が東尋坊のゴツゴツした岩肌を煌々(こうこう)と照らし、水面には満月が光の道を作っていた。
「すげえ……」
稔は東尋坊の絶景に息を飲んだ。
「稔。野球でかすむなら、別のスポーツでもやればええ。お前はまだ若い。全員が未経験者でスタートするスポーツなんて、いくらでもあるじゃろう」
「そんなのありますかね?」
「家に帰ったら、仏壇に手を合わせて聞いてみればええ」
仏壇……? おれ、親父がいないなんて言ったっけ? 家に仏壇があるなんて、知ってるはずないよな? あ、もしかして、福井って、どの家にも仏壇があるのが当たり前なのかも……。
稔は仏壇と言われ一瞬戸窓ったが、一人で勝手に納得して、
「そうします」
と答えた。
「稔。ペンギンは飛ぶのをやめて泳ぎを手に入れた。人間も一緒じゃ。人間はどんな環境にも適応できる。飛ぶことに固執せず海に飛び込めば、そこで進化できるかも知れんのじゃ」
「ペンギン……ですか?」
「ペンギンに食いつくな。わしゃあ、良い話をしとるんじゃ」
「あ、はい、すいません」
「じゃからな、今がダメなら次、次がダメならその次、その次がダメならまたその次と、何でもやってみろ。どこかで進化ができるかも知れんし、進化せんでも、やってきたこと一つひとつが稔の経験になる。経験の積み重ねが、人間の厚みってもんになるんじゃ」
「経験の積み重ねが人間の厚み……」
「そう。何の経験もせんで、あれはダメ、これはダメなんて言う口だけの人間にはなるな。実際に経験した者にしか身につかんものがあるし、分からんものってのが必ずある。稔という文字には、穀物が実るって意味の他に、経験を積むっていう意味もあるんじゃ……」
ふと横を見ると、蓑老人は優しい目をして、海に浮かぶ満月を見つめていた。稔も満月を真っ直ぐと見据え、
「肝に銘じます」
と誓った。すると一瞬、日本海からの強い風が稔を襲った。稔が目をつぶって顔を風から背けると、蓑老人の方からボワっと、炎が一瞬燃え上がったような熱を感じた。風が止み目を開けると、なぜか蓑老人の姿がなかった。稔はあわてた。辺りや観望台の下、タワーまでの道やプレハブ、駅まで走ったが、どこを探しても見つからなかった。タワーの従業員、駅前の商店、駅員と会う人会う人にも聞いた。名前も年齢も知っているというのに、交番のお巡りさんまでも、「蓑聡なんて人は知らない」と口をそろえた。
階段を登ることもままならなかった八十歳の老人が、風が吹いたあんな一瞬で姿を消せるはずがない。それなのに、観望台周辺には老人の姿形すらない。汗だくになってタワーと駅とを往復し探し疲れた稔は、観望台のベンチに戻って考えた。
一体、おじいちゃんはどこへ行ったんだ。そういえば、顔がそっくりだった公園のミノリカワさんもあれっきりだ。蓑聡、ミノサトシ、ミノリカワサトル……。顔も名前もそっくりで、二人とも人生を説いて姿を消した。仏壇に聞けって言ってたな。未経験者が多いスポーツって、カーリングとか競艇とかって聞いたことあるけど。仏壇って……親父か? 親父の競輪か? 競輪も未経験者が多いのか? それを知ってたとしたら、おじいちゃんは……まさか親父か? 公園のおじいちゃんも親父なのか? 親父が天国から、おれに教えに来てくれたんじゃないのか? そうだ。最後におれの名前の意味まで教えてくれた。間違いない、親父だ。え? 親父? 父さん? パパ? あれ? そういやおれが三歳になる時に死んじゃったから、何て呼べばいいのか分からないや……。
「親父……。アリとかペンギンとか、わけ分かんねえよ……」
月を見上げると、ふっと穏やかな風が頬ほほをなでた。その瞬間、今までに感じたことのない、何かいとおしまれるような、包み込まれるような優しさを感じたような気がして、稔の目から涙があふれた。
(了)