氷は存外簡単に溶ける
「ここ、は……」
ゆるやかに目覚め、見覚えのない豪奢な天井を見たとき、アンナは静かに自分の死を悟った。
ひどく殴られたり真冬に外で寝ろと言われたとき、アンナはいつも死を感じながら眠っていた。最後に覚えているのは、窓から落ちてくる女生徒の背中。
きっと女生徒の下敷きになって死んだのだろう。でなければ、学院でもないこんな綺麗な場所に自分がいるわけがない。
「起きたのか? 怪我は治療させたが、痛むところはないだろうか」
部屋に入ってきたのは、アルベルト・キングストゥーリだった。
この国の皇太子であり、公平な目と柔和な笑みを持つ人物。絹糸のような金髪が揺れ、澄んだ菫色のひとみにアンナが映る。
「……殿下も死んだのですか?」
「私も、とは?」
「わたし、死んだのでしょう? 体も痛くないし、きっとここは神の膝上だわ。……まさか、殿下もあの女の下敷きに?」
わずかに目を開いたアルベルトは、思わず吹き出した。
「私も君も死んでいないよ。今回は私のせいで怪我をさせてしまったね。詫びに、出来うるかぎり君の望みを叶えよう」
「あれは殿下のせいではありません」
「そうか、君は寝込んでいたから……。君を押しつぶした女は隣国のスパイだ。正体を突き止めるのは、私とグラツィアーナに陛下から課せられた試練だった」
「わたくしからもお詫びを。巻き込んでしまってごめんなさい」
気づくと、アルベルトの後ろに美しい女性が立っていた。
グラツィアーナ・マグリーニ。アルベルトの婚約者で、貴族からも民からも評判もいい才色兼備の女性だ。
グラツィアーナは派手になりがちな赤毛を上品に編み込み、赤みがかった薄茶の目に心配を浮かべていた。
「関係のないアンナを巻き込んでしまったのは、わたくしたちが未熟だからです。あなたはとても危険な状態で、3日も意識が戻らなかったのよ」
アンナは何度かまばたきをして、ようやく事実を飲み込んだ。
「つまり……死んでいない?」
「死んでいないよ」
アンナは勢いよく起き上がり、ふらついて倒れ込んだ。アルベルトの側近が慌てて背を支えてくれ、アンナが起き上がるのを手助けしてくれた。
「横たわったまま、このような姿で申し訳ございません。この無礼が許されたうえで褒美をいただけるのなら、報酬は我がワーズワース家ではなく、わたし個人にいただきたいのです」
アンナはベッドにひれ伏して願った。
「そして、わたしとゲーデル家ギュンターの婚約を破棄してください!」
・・・
アンナの人生は惨めだった。
政略結婚で結ばれた両親の間には、愛と名のつくものは何ひとつ芽生えなかった。子をひとり、そのスペアとしてもうひとり産めば好きにしていいという契約のもと産まれた時点で、次女のアンナの人生は日が当たらないと決定していた。
長女が7歳を過ぎ健康に育つと、3つ下のアンナは虐待を受けるようになった。父は無関心、母は姉と共に負の感情をすべてぶつけてくる。
子を産ませるために腹は狙わないが、そのほかは容赦なく痛めつけてくる。
頬を張られ、手足を扇でしたたかに打たれ、アンナは体が傷まない日はなかった。
「あんたの駄目なところを100個挙げなさい。あんたはいいところなんてないから、言うのは簡単でしょう? 終わるまで食事は抜きよ」
座って優雅にティータイムを楽しむ母と姉の前で、アンナがそう言われるのも珍しくない。姿見の前でみすぼらしい自分を見つめながら、自身を否定する言葉を吐く。
それは想像以上にアンナの心を蝕んだ。
10歳までそんな生活は続いたが、それより先はさらなる地獄だった。
アンナに婚約者ができたのだ。
ギュンター・ゲーデル。アンナの家は子爵で、侯爵であるゲーデル家と繋がりがもてることを喜んだ。
ギュンターはアンナより2つ上の12歳で、とっくに婚約者がいてもおかしくなかったが、性格に難があり婚約がまとまったことはなかった。
これ以上よくない噂が広がる前にと目をつけられたのがアンナだった。
ギュンターは非常に加虐的だった。暴言や体罰を与えることは日常となっており、父親はそれを咎めるどころか増長させる。
ゲーデル家は代々、男性が暴力をふるい女性が耐える家系だった。
ゲーデル家の男性は、外では爽やかでユーモアがあると通っているが、すべての噂は隠しきれない。ゲーデル家が代々格下の家から妻をもらっている理由だった。
家族から大切にされていないアンナは好都合で、ギュンターは婚約者に会いに行くという名目を得て、喜々としてアンナをいじめた。
男の力は強く、アンナは拳で顔を殴られたときに奥歯がなくなった。ギュンターが来るときはオットマンになれと言われ、床に這いつくばらなければいけない。
常に使用人が見張り、死ぬことも許されなかった。
「アンナ様、お辛いでしょうが絶望してはいけません。一緒に……一緒に頑張りましょう」
アンナが耐えられるのは、メイドのララがいるからだった。
ララには病気の弟がおり、ワーズワース家の主治医がときおり診察に行き薬を出していた。ララには治療代を差し引いた額を給金として渡され、ほとんど手元に残らなかった。
アンナの味方をするララもいじめられることが多かったが、弟のため、アンナのために仕事をやめることはしなかった。
ふたりで寄り添い、支えながらやっと生きていくふたりに束の間の平穏が訪れたのは、姉とギュンターが学院へ入ってからだった。
14歳になった貴族は王都にある学院へ入ることを義務付けられている。魔法について学びながら寮生活を送り、社交界デビューするための準備を整えるのだ。
学院はプチ社交界だ。どのように振る舞うか、どのように知識を使うか学んでいく。
虐待は母からだけになり、アンナとララは僅かだが心休まる時間を得た。
休暇でギュンターと姉が帰ってきたときは以前より酷い暴力を振るわれ何度も意識が飛んだが、回数が減ったぶん楽だった。
それに、長い休暇となる夏と冬は、王都で社交が盛んになる時期だ。社交に連れて行かないのが罰だと置いていかれたが、アンナにとってはご褒美だった。
・・・
アンナが14歳になると、学院へ入らなければならなかった。手入れしていないせいで髪と肌は荒れ、痩せこけた体はみすぼらしい。
学院では人目があり殴られなかったが、誰かと喋ると怒鳴られるので始終口を閉じていた。
おかげで友人もおらず、姉のクラリーチェとギュンターが吹聴する悪意ある噂のせいで、アンナの評判は最低だった。
ララのことだけが気がかりで毎日を過ごしていたアンナは、ある日エレナ・リドマンに出会った。
リドマン子爵の一人娘エレナは、ひとりぼっちのアンナでも聞いたことがあるほど有名だった。
金髪に桃色のひとみを持つエレナは非常に愛らしい外見をしていて、皇太子であるアルベルトの行く先々にあらわれる。
情報が漏れていると言われるほどピンポイントに出現し、手作りのお菓子を渡していくのは不気味ですらあった。
「あれ、あんた……辛気臭い顔の、誰だっけ。まあいいか、あんた喋れないのよね? ちょうどいいわ」
放課後、クラリーチェに見つからないようにひっそりと隠れていたアンナを見つけたエレナは、にんまりと笑った。
アルベルトの前でふりまく可憐さはどこにもない。
「わたしに向かって魔法を撃ってみてよ。火魔法だとわかりやすいんだけど」
エレナからは、ギュンターと同じく人を傷つける者のにおいがした。
震えながら首をふるアンナの腕を乱暴にねじりあげ、襟元についたブローチの色を確認したエレナは鼻で笑った。
「茶色……あんた、土属性なの? 道理で陰気くさいわけだわ」
「や、やめて……」
「まあいいわ、土は操れるんでしょう? アルベルトの前でわたしの足に土でも巻きつけてちょうだい。わかったわね」
乱暴に蹴られて息が止まったアンナを、エレナは冷たい眼差しで見下ろした。
「やらなかったらもっと酷いことするから。わたしは水魔法が使えるのよ。水責めは拷問に使われるほど苦しいけど、乾いてしまえば証拠は残らないもの」
久々の痛みにもだえるアンナを置いて、エレナは去っていった。
震える拳を握りしめる。
「どうして……どうしてわたしばかり!!」
産まれただけで、なぜここまで蔑まれ暴力を振るわれ続けなければならないのか。
逃げたかったが、アンナが逃げ出したり誰かに助けを求めれば、ララの弟の面倒はみないと、はっきり宣言されている。
ララの弟は病弱で一日のほとんどをベッドで寝て過ごす。ワーズワース家からの薬と、ララの給金がなければ生きていけないだろう。
アンナの唯一の心の拠り所であるララを苦しめることは、アンナには出来なかった。
「うっ……うぅ……もう嫌……はやく、はやく……」
その先は言葉にならなかった。薄暗い階段に、アンナのか細い泣き声だけが響いていた。
それからエレナは自分に意地悪をするよう言ってきたが、アンナが実行することはなかった。そのたびに蹴られ、息ができないよう顔を水で塞がれた。
意識が薄れる寸前で解放することを繰り返す。
「あはは、きったない顔! 涙? 鼻水? 貴族のする顔じゃないわ!」
「うえっ! ごぼっ!」
「アルベルトの前でわたしをいじめるの。わかった?」
「や、やらないっ……!」
「あらそう。まあいいわ、あんたちょうどいいサンドバッグだもん。生意気な目を絶望で染めたくなる」
ギュンターやクラリーチェにも言われたことがある言葉だった。
どんな目に遭わせてもひとみに炎を燃やすアンナは、いじめる者の加虐心を煽った。
「母親にも嫌われてるんでしょ? わかるわ、あんた気持ち悪いもの」
母のヴァレリアーナは、アンナが成長するにつれ憎んでいる姑に似てくると、率先して虐待するようになった。
「家族に憎まれて」
姉のクラリーチェは母の思想を継ぎ、アンナを好き勝手にいじめる。跡が残らないように陰険に、しかし心身に傷はしっかりと残していく。
「婚約者もあれでしょ? あんたの人生終わってるわね」
いまはまだ婚約者だからこの程度で済んでいるが、嫁いで子を産めば、用済みのアンナはもっと酷い目に遭うだろう。いくら殴っても傷が残っても、ギュンターにとっては構わないのだから。
「わたしはアルベルトに見初められて王妃になるの。あんたを取り立ててやってもいいわよ」
にやりと口が歪む。
「ストレス発散の相手にしてあげる。そうそう、もうすぐしたらわたしは窓から落ちるから、グラツィアーナが落としたって言いなさい」
「なっ、なんてことを!」
「うるさい!」
「ぐぅっ!!」
腕が鈍い音をたてた。うずくまって脂汗を流し、あまりの痛みに声さえ出せないアンナの背に痛みが走る。
「しくじったら、今度こそ殺す。死体が見つからなかったら、逃げたとでも思われるでしょ。あんたを探す人はいない」
事実が冷たくアンナに染み込んでいく。
「ううん、やっぱりなんでもありの娼館に売ろうかな。手足を斬っていいプレイって高いんだって。稼げていいじゃない」
逃げたい。
こんなときでも気がかりなのはララだけだ。痛みで思考がまとまらなかった。
・・・
エレナに脅されて数日後、ララに連絡をとる間もなくエレナに呼び出された。
「あんたはここに立ってなさい。いい?」
エレナの魔法の素質は高い。水を凍らせてアンナの脚を固定すると、さっさとどこかへ行ってしまった。
固定されたのは靴だけだが、氷を履かされたように冷たい。もうすぐ夏になるせいであたたかいのが幸いだったが、溶ける気配はなかった。
「……このままどこか遠くへ行けたら」
つぶやくアンナの上に、悲鳴が落ちてくる。
「なにをなさるの、グラツィアーナ様! きゃああああ!!」
落ちてくるエレナを避けようとしたが、動かない靴が邪魔をした。急いで脚を引き抜くが、完全には避けきれない。
下半身に衝撃を感じ、痛みが襲ってくる前にアンナは気を失った。
・・・
王城の一室、王族に次いで厳重に警備された一室を後にしたアルベルトとグラツィアーナは、しばらく口をつぐんでいた。
婚約破棄の願いにアルベルトが頷くと、アンナは気絶するように眠りについた。
「わたくしたちは……本当に未熟ですわ」
「……今回のことで痛感したよ」
アンナが学院の医務室に運ばれたときのことを、今でもよく覚えている。魔法で抵抗するエレナを取り押さえるのを第一とし、アンナは側近に任せた。
その側近が急いでやってきたのは、エレナを取り押さえて魔法を封じる腕輪をつけ、自身の近衛へ引き渡したあとのことだった。
「テオ、アンナ嬢の具合は?」
「侍医がすぐに来ていただきたいと」
「なにかあったのか?」
「はい。グラツィアーナ様にも来ていただきたいそうです」
「今行く。グラツィアーナ、行けるか?」
「ええ」
医務室へ行くと、侍医が目を怒りで燃やしながら待ち構えていた。
この侍医は元は王城で働いており、小さいころからアルベルトを診てきた。厳格で患者を第一とする性格で、細いフレームの眼鏡をあげてアルベルトを見据える。
「エレナ・リドマンが接触している女生徒がいるのを知りながら泳がせていましたね」
「ああ。エレナ・リドマンが脅迫していたことは知っている」
「詳しくは後で魔法で見ればいい、ですか?」
王家には代々伝わる秘術がある。
王家の血を継ぐ紫の目をもつ、魔法の素質が高い者にしか使えないものだ。
秘術の前では、どんな人物でも何を見聞きしたか隠せはしない。術者の脳内に対象者の視線で映像が流れ、自身が経験したようにすべてを感じ取れる。
いまは改良され、魔石に映像を込めれば誰でも見られるようになっていた。
「殿下はせめて腕だけでも見てください」
ぼろぼろになった服をまくって現れた腕に息を呑んだ。
不健康にやせ細った腕は、黄色や紫のあざに覆われている。
「骨折しているところだけ治しました。骨が修復をはじめていたので、数日前につけられたものでしょう。……どれだけ痛かったか」
「これを……エレナ・リドマンが?」
「それを知るのは殿下の役目です。この先はグラツィアーナ様にお願いいたします」
医務室に残されたグラツィアーナは、アンナの背に残されたひどい傷跡に言葉を失った。鞭で叩かれたあとや火傷など、拷問をうけたような背はとても貴族とは思えない。
「……かなり古い傷もたくさんあります。すべてがエレナ・リドマンがつけたものではないでしょう。アンナ・ワーズワースをここで治療し、家族が引き取りたいと言えば拒否できません。聞き取りがあるとして王城へ連れていくのがいいかと存じます」
「ええ……ええ」
グラツィアーナはくちびるを噛みしめた。
「なんてこと……身近にいるたったひとりの民すら救えないなんて……」
「それは今からのグラツィアーナ様の行い次第です。アンナ・ワーズワースを家族に会わせないようお願い申し上げます」
「アンナは、わたくしたちと共に王城へまいります。アンナは動かしても?」
「治療後は構いません。かなり衰弱しているので、目覚めるとしても時間がかかるでしょう」
侍医が手をかざすと、触れたところからアンナの傷が治っていく。貴重な癒やしの魔法がアンナを包み込んだ。
「……いまの私は学院に属する者です。命の危険がないかぎり、ほかの生徒のために魔力は温存しておかねばなりません。あとは王城にてお願いいたします」
「バートでも治せないの?」
「古傷を治すには魔力を多く使います。ここ一ヶ月ほどの傷なら治しましたが、歪んだままの骨なども治すのなら、かなりの魔力と時間がかかるでしょう」
「……わかりました」
この細い体に、治せないほど多くの傷が蓄積されているのだ。
グラツィアーナは、きれいになった腕にそっと触れた。15歳にしてはあまりに細く、青白かった。
アンナと共に転移陣で王城へ戻ったアルベルトは、エレナの件でざわつく空気を感じ取った。アルベルトに気付き頭を垂れる者たちに声をかける。
「一番厳重な客室を用意してくれ。私の許可した者以外立ち入ることは許さない。テオ、侍医を頼む」
「かしこまりました」
アンナを抱えたテオは、両手がふさがったまま器用に礼をした。
「侍女の選別はわたくしにお任せください」
「頼りにしているよ、グラツィアーナ」
アルベルトは青白い顔をしたアンナを見て、顔をそらした。今からエレナの尋問をしなければならない。
アンナがひどい目に遭っていることを知りながら助けなかった。こちらが探っていることを、エレナに微塵も気づかせてはならなかった。
アンナを犠牲にすることを、自らの意思で選んだ。王になれば、絶え間なく似たような選択をしなければならないだろう。
だが、それに慣れるつもりはなく、犠牲にした代償に見合った褒美を用意するつもりだった。
横でグラツィアーナが微笑む。
「わたくしたちの選択です」
「……ああ。頼りにしているよ、グラツィアーナ」
婚約破棄の要求に応えるべく、まずはアンナの身辺調査をするように命じたアルベルトは、眉をひそめて報告書に目を通した。
「……日常的に虐待があったのか」
報告書を差し出したテオは、目を伏せて肯定した。
美しいという言葉が似合うアルベルトと違い、テオは茶髪に茶色い目と平凡な容姿をしている。それが親しみを感じさせ情報収集に適しているので今回も任せたが、心優しいテオにはつらかったようだ。
「……火傷跡はギュンター・ゲーデルの魔法か。道具を使った傷は母と姉、打撲はゲーデル。……アンナ嬢の歯がないのは?」
「使用人いわく、ゲーデルに殴られたときのものだと」
「まともな神経をした使用人は辞めていったんだな。残っているのはララというメイドか」
か細い声で、必死にすがってきたアンナを思い出す。
「どうか、どうか婚約破棄をする前にわたしに褒美をください。そして、我が家のララというメイドに渡してほしいのです」
褒美をすべてか、と聞いたアルベルトに、アンナは迷いなく頷いた。
「すべてです」
そのあと自分自身はどうする、と問いたかったが、口をつぐんだ。
「アンナ嬢の体調は?」
アンナが王城に来て10日たっていた。アルベルトは休む間もなく働いていて、グラツィアーナも根回しなどに忙しい。
「かなり回復しております。アンナ様は……気高く向上心の強いお方です。ひどい目に遭われたのに、それを感じさせず日々精力的に動かれております」
テオの言葉に、アルベルトは微笑んだ。
「悲劇の姫君かと思いきや、中身はしなやかで強い。だからこそ耐えられたのだろう」
自身の境遇を嘆き、枕を濡らす……アンナはそんな人間ではなかった。
たっぷりと寝て好きなものを食べ、回復魔法を浴びたアンナはみるみる元気になっていった。
日に一度は訪れるグラツィアーナとも仲良くなり、昨日はこんな話をしたと聞いた。
「ララがいるから耐えていましたし、嫁いだらクソやろ……あら失礼、人間と名乗るにはおこがましいモノを葬ろうと思っておりました。そのままゲーデル家を乗っ取るか隣国へ行こうと」
「そんなことを考えてらしたの?」
「グラツィアーナ様も、わたしの傷をご覧になったでしょう? 誰でも逃げますよ。わたしの属性が火魔法だったら、ゲーデル家とワーズワース家の屋敷を燃やしていたのですけど、土魔法だったので……」
「まあ……」
「屋敷の下の土を抜いておきました! わたしの魔力で保っていますので、魔力を送るのをやめたら屋敷は地下に沈み崩壊します!」
「まあ……」
グラツィアーナからこの話を聞いた時、アルベルトは久々にお腹を抱えて笑った。
「そろそろ大丈夫そうだね。明日、グラツィアーナと一緒にアンナ嬢を訪ねるとしよう」
午後のお茶の時間に訪ねてきたアルベルトとグラツィアーナを、アンナは初めてベッドから出て出迎えた。いままでグラツィアーナの命でベッドから出られなかったが、そろそろリハビリを始めていいと言質をもぎとった。
「わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
テーブルには軽食やお菓子が並べられ、紅茶の香りが部屋に満ちている。
外は暑いが部屋の中は涼しく一定の温度で保たれていて、アンナの顔色もいい。
「体調はよくなったようだね」
「貴重な回復魔法をかけていただき、ありがとうございました。古傷も治りまして、あとは体力をつけるだけにございます」
「よかった。褒美の一部として、先にアンナ嬢に会わせたい人がいるんだ」
テオがドアを開く。その先に立っている人物を見て、アンナは思わず立ち上がって駆け寄った。
「ララ!」
「お嬢様! ご無事で……!」
「ララこそ怪我はない? 食事はちゃんと食べたの? ああ、こんなに痩せて……!」
「お嬢様を心配してのことです。お嬢様がひどい怪我を負って意識が戻らないと聞いて、どんなに心配したか……!」
涙をこぼすララを抱きしめ、アンナは熱くなった目をぎゅっとつむった。
「わたしはいいのよ。ララが無事であれば」
「馬鹿なことを言わないでください! お嬢様がいるからこそ耐えられるのです」
むせび泣くララを抱きしめたまま、アンナはアルベルトを見上げた。夜明けを連想させる薄青の瞳は、しっとりと潤んでいる。
「王城にメイドとして入るのならば、ワーズワース家との契約を終え、王家と契約しなければならない。ララはワーズワース家から解放された。弟君も王城へ移っているよ」
「ありがとうございます……! どうお礼を申し上げればいいか……」
「エレナ・リドマンの証言をしたアンナ嬢への褒美だ。遠慮せず受け取るといい」
アンナをいじめる時、エレナはよく自身の計画を語っていた。誰がどのような過去を持ち、どういう言葉をかければいいかわかっていると、それはもう自慢げに。
アンナの耳元で喋っていたため、エレナを見張っている者も聞き取れなかったそれを、アンナは証言した。
獄中にいるエレナがどこまで人の弱みを握っているか把握する、大事な証言だ。
アルベルトは微笑んだ。
「ここからが本題だ」
・・・
その日、フィリップは機嫌が悪かった。
フィリップの内情も心情も知っているアルベルトが、ひとりの令嬢を紹介すると言ったからだった。
大きな大陸に、大きさも武力も均衡した3つの国がある。そのうちの一つがアンナが住む国、クレヴァリアンだ。
昔は大小さまざまな国があったが、長い年月をかけ三国になっていった。三国はときには隣国と手を組みながら互いに戦争をしかけあったが、500年以上たっても決着がつかなかった。
幾度となく繰り返される戦に、国は疲弊していく。国力が落ちていくあいだに、海を隔てた遠い地から兵が攻め入ってきた。
この時ばかりは三国は協力して戦い、なんとか勝利した。
この戦は三国に脅威を抱かせるにはじゅうぶんだった。貿易もあまりしてこなかった国は造船が遅れており、次に攻められたら勝てない。
こうなってからようやく三国は協定を結び、国の安定と発展に力を入れた。
しかし、先祖代々の悲願は、そう簡単に忘れられるものではない。三国から武と知に優れたものをそれぞれ5名ずつ選出し、模擬戦で競わせることにした。
星辰の儀と名付けたそれは、国力を争い経済を回す、大陸で最も大事な政だ。
他国へ備えると同時に、隙あらば隣国を乗っ取ろうとする、昔と比べればだいぶ平和な戦争だった。
フィリップ・フィアラークは、武においてここ5年負けなしの英雄だった。フィリップのおかげでクレヴァリアンは優位を保てている。
(私の状況を理解してなお、令嬢を紹介するとは)
フィリップはアンナについて少しだけ聞かされていたが、特に興味はもてなかった。虐げられているのなら、逃げ出すなり叩きのめすなりすればいい。
努力もせずにうずくまっている人間は、フィリップにとって最も嫌悪する存在だった。
指定された部屋へ行くと、ドアの外にいたアルベルトの側近がドアをノックした。返事を聞くと、テオがドアを開け、フィリップが入るなり素早く閉めてしまった。
殿下が使うにはあまりにこじんまりしたテーブルに、10代半ばの見たことのない女が座っていた。
長い茶色の髪はゆるくウェーブして、窓から入る光を反射して淡く光っている。あまりに細くて小さく、小柄を通り越して不健康に見えた。
深海のような青い瞳はまっすぐフィリップに向けられている。
媚も憧れもない、赤ん坊のような瞳だった。
好意も嫌悪も、好奇心すらない視線は初めてで、フィリップはわずかに戸惑った。
「お呼びに馳せ参じました。アルベルト殿下、お久しぶりです。グラツィアーナ様も麗しく」
「呼び出してすまなかったね。椅子に座ってくれ」
いつもの四角いテーブルならば下座に座るのだが、目の前にあるのは丸いテーブルだった。
一脚しかあいている椅子がなく、内心戸惑いながらも、顔には出さず腰かける。
「アンナ嬢、こちらはフィリップ・フィアラーク。我が国の英雄だ」
噂に疎いアンナでもよく聞く名だった。
目の前の青年はおそらく20代後半で、鍛えている身体に鋭く光る黒い目が印象的だった。細くて柔らかそうな銀色の髪を後ろへなでつけ、後ろでひとつに結んでいる。
アンナは驚いてフィリップを見つめてから、慌てて頭を下げた。
「アンナ・ワーズワースと申します」
(しまった、立つべきだった!)
挨拶してしまったあとでは、もう遅い。
アルベルトはふくみ笑いをしながら、話を続けた。
「フィリップ、アンナ嬢は世間に疎いところがある。フィアラーク家のことを説明するが、いいだろうか」
「殿下の御意のままに」
フィリップの事情は、貴族にとって公然の秘密だった。
「フィリップは、フィアラーク本家の実子ではない。分家からの養子だ。本家の嫡男が成長して家督を譲り受ければ、フィリップに新たな爵位を与えることになっている。
フィリップは英雄だ。そのまま本家を継ぐべきという意見も多いが、義理堅いフィリップはそれを良しとしない。フィリップを跡継ぎにと推す者は多く、このままでは望まぬ婚約者を得て、そのまま跡継ぎに押し上げられるかもしれない。ここまで質問は?」
「ありません」
「次に、フィリップにアンナ嬢の事情を説明しても?」
「……はい」
まったくもって良くはなかったが、頷くしかない。
「アンナ嬢は先日、隣国からのスパイを捕獲する際に多大な貢献をしてくれた。その褒美として、暴力を振るう婚約者との関係を白紙に戻し、虐げる家族から匿った。
婚約破棄はすぐに出来るようしてあるが……彼らの性格をよく知るアンナ嬢に尋ねたい。婚約破棄をしたとして、彼らはアンナ嬢を手放すだろうか?」
アンナは力なく首をふった。
冷たく震えるアンナの指を、グラツィアーナが優しく包み込む。
「婚約破棄をしても、もう一度ゲーデル家から婚約の申込みを受ければ、ワーズワースは受けるでしょう」
「アンナ嬢をグラツィアーナの侍女とすることも考えた。ワーズワース家との接触は減らせるが、面会を希望されたら王家としてすべて却下するわけにはいかない。婚約も同様だ」
「はい……」
「アンナ嬢にとっては非常に不本意だろうが、子を望めない体になったと噂を流すこともできる。それでゲーデル家は諦めるか教えてほしい」
「諦めません。ギュンター・ゲーデルがわたしを逃がすとは思えません」
アンナはひとつの可能性に気づいて震えた。
もし子が産めないとなっても、ギュンターが外向けの顔で、愛するアンナと結ばれたいと言ったなら。
跡継ぎをもうけるために、公然と妻をふたり娶ることとなる。いや、アンナは愛人以下としてゲーデル家へ行くことになる。
孕むことを気にしないでいいのなら、これから先もっとひどい扱いを受ける。おそらく……拷問に近いことを。
「そこで、ふたりに婚約を提案する。フィリップとしては、中立の家の娘を婚約者とし、新たな爵位を授かってから婚約解消をするのが望みだ。アンナ嬢は実家と婚約者から逃れ、メイドとその弟を連れて遠い地で暮らせる。フィリップと婚約解消をした後は、生きていくに困らない金銭が与えられると約束する」
フィリップにとって、悪い話ではなかった。
見知らぬ娘に、子が出来たから責任をとってくれと言われるのも時間の問題だった。知らぬ間にフィアラーク家当主にさせられていることも考えられる。
フィアラーク家の中ではまだ抑えられているが、外部からフィリップ派が介入してくれば均衡は崩れるだろう。
フィリップが求めているのは、爵位が低く発言力がない家の、間違っても自分に懸想しない、手を煩わせない娘だった。
フィリップに憧れている娘はあまりに多く、家柄は当てはまるが恋はしないという娘がなかなかいなかった。
「仕方ありません。そのように進めてください」
フィリップは、いままで選ぶ側だった。
実力も爵位もあり、自分が肯定すれば終わるものと考えていた。
「……嫌です」
だから、アンナの低い声に心底驚いた。
「嫌です」
しかも、二回言われた。
「わたしは婚約破棄をしたあと逃げ出して平民として暮らそうと思っていました。貴族のままでは実家からもゲーデル家からも逃げられないでしょうが、平民として逃げれば別ですから」
衝撃から立ち直ったフィリップは、青ざめたアンナに尋ねた。
「平民として暮らしていけるのか?」
「今まで一般的な平民以下の扱いを受けてきましたので」
「君が?」
フィリップは鼻で笑った。手入れされた髪といい物腰といい、どう見ても教育を受けた貴族だった。
「平民は、日常的に殴られたり背中に火を押し当てられるのでしょうか?」
「それは卑劣な罪を犯した奴隷の扱いだ」
「でしたら今までより、よっぽどいい状況です」
向けられた強い瞳にフィリップは怯んだ。
戦いでどんな憎しみに満ちた目で睨まれても受け流していたのに、この少女の内に潜むものは計り知れなかった。
「アンナ嬢、急に言われて混乱しただろう。だが、褒美はすべてメイドに渡してしまった。これからどうやって生きていくんだい?」
「殿下、わたしはララさえ健やかでいてくれればいいのです。残飯を食べるのは慣れていますし、どこかで仕事を探します」
「体を売るしかなくなるかもしれないよ」
「拷問で死ぬよりマシです」
ここでようやく、フィリップは自分が思い違いをしたのではと思い至った。
アンナの言葉を信じるならば、確かに平民以下の、劣悪な状況にいる奴隷の扱いだった。そんな状況で、初対面の男の婚約者になりたいわけがない。
「アンナお願いよ、そんなこと言わないでちょうだい。わたくし、初めて友と呼べる人ができたの。友人がそんな状況だと知って生きていけないわ」
「グラツィアーナ様……」
完璧を求められるグラツィアーナにとって、アンナは初めて心やすらぐ会話ができた人間だった。
派閥も、言葉の裏の含みも、なにも気にしなくていい。フィリップの婚約者となったなら、グラツィアーナといることは自然であり、これからももっとたくさん話ができる。
英雄を自国につなぎとめる楔は、多いほどいい。
「フィリップは望まないことはしない人間よ。暴力なんてふるわないし、ワーズワース家やゲーデル家より爵位が上だから、アンナを守ることができる。婚約は……10年ほど続くかもしれないけれど、そのあいだ市井でも生きていけるように準備すればいいわ。そうだ、そのあいだにメイドの弟君の病気も完治するのではないかしら! そうしたら3人で生きていけるわ!」
アンナの目が揺れた。
「アンナ、お願い。このまま市井に下ってそのような暮らしをするのなら、ほんのすこし我慢して、じゅうぶんなお金を持っていってちょうだい。わたくし、そのためならいくらでもお願いするわ」
グラツィアーナにそこまで言われると、アンナに拒否権はなかった。
渋々フィリップを見やる。
「……わたしを心身ともに傷つけず、婚約解消後に平民としてしばらく生きていけるだけのお金をくださるのなら、婚約します」
「……ああ」
フィリップの返事を聞いてアンナの胸に渦巻いたのは、安堵でも諦めでもなく、激しい怒りだった。
いつか逃げ出そうと耐えて、耐え抜いて、結局は男にすがらなければいけない自分が憎かった。自分ひとりでは何もできない事実に、怒りが燃え盛る。
「うっ、ぐ……!」
アンナの胸のなかで、なにかが熱く暴れまわる。激しい痛みに、アンナは胸を押さえてうずくまった。
戦の経験があるフィリップは、アルベルトを守りながら立ち上がった。
「魔力暴走です! おふたりとも急いで部屋を出てください!」
魔力暴走は、名前どおり魔力が暴走し制御できなくなる病だ。魔法を使いすぎたり溜め込みすぎたり、激しい精神的苦痛を与えられたときになると言われている。終戦した今では滅多に起こらなかった。
魔力が尽きれば終わるが、甚大な被害をもたらすので、本格的に暴走する前に魔石で魔力を吸い込まなければならない。
フィリップは万一のときのために身につけていた、空っぽの魔石をアンナへ放り投げた。魔力がうねり、魔石へ吸い込まれていく。
「駄目だ、足りない! 殿下、グラツィアーナ様、お早く!」
「フィリップ、これを!」
「これは殿下の魔石です!」
「命令だ、使え!」
「っ、はい!」
アルベルトが持っている魔石はかなり大きく、身につけられるよう細やかな装飾がついている。それらを惜しむことなく、フィリップは魔石を投げた。
魔力は滝のように魔石へ流れ込んでいき、大部分は収まったものの、まだ残滓が行き場を求めていた。
「エマ、わたくしの魔石も使いなさい。命令です」
エマと呼ばれた侍女が魔石を放る。整いすぎて恐れさえ感じるエマの顔は無表情だったが、グラツィアーナを背に庇いながら、じりじりと後退していた。
アンナの体に残る魔力もすべて魔石に吸い込まれると、ようやく魔力暴走が止まった。
意識を失って崩れ落ちるアンナをとっさに受け止め、フィリップは分厚い手を小さな口にかざした。
「……息はしています。おそらく命の危険はないでしょう」
空っぽの魔石がなく、魔力を無理に抑え込もうとすると死に至ることもある。
小さな体にこれほどの魔力が溜め込まれているなど、思ってもいなかった。
「アンナ嬢に有り余る魔力があれば、余計に家から逃げられない。おそらく、無意識に抑え込んでいたのだろう」
「ああアンナ……どれほどつらい人生を歩んできたか」
グラツィアーナはアンナの頬にふれ、キッとフィリップを睨んだ。
「アンナを少しでも不幸にしたら許しません」
「肝に銘じておきます」
「フィリップ、そのままアンナ嬢を運んでくれ」
「かしこまりました」
フィリップはアンナを抱き上げ、あまりの軽さに驚いた。エマの案内に従って部屋を出ようとしたところで振り返る。
「おふたりを危険にさらした咎は、あまんじて受けましょう。おふたりも、きちんと叱られてくださいね」
アルベルトはドアの外で控えていたテオに、グラツィアーナはエマに、それぞれ鋭い視線を送られていることに気づいた。
アルベルトとグラツィアーナを守りつつ逃げるように言ったフィリップに諭されては、素直に頷くしかない。フィリップは魔石を預け、大股で出ていった。
部屋には、やけに神妙な顔で、グラツィアーナより一足先に小言を並べられるアルベルトが残るのだった。
あまりに軽いアンナを客室へ運んだあと、フィリップは青ざめて横たわる少女を見下ろした。
フィリップは養父と養母に多大な恩義を感じており、脇目も振らず己を鍛えてきた。いままで女性にうつつを抜かすどころか、ふたりきりになったことさえ数える程度しかない。
フィリップは多少眼光が鋭いものの整った顔立ちをしていたし、周囲も美しい顔を褒め称えた。鬱陶しい異性も、いくら冷たくしても寄ってくる。
だからフィリップは、アンナは自分との婚約を喜ぶと思っていたのだ。
(まさか、魔力暴走するくらい嫌だったとは……)
多少、結構、かなり落ち込んだフィリップは、慌ただしく侍医がやってきて診察するのをぼうっと眺めていた。
「命の危険はございません。アンナ様の空となった体に魔力が満ちるには、一週間から10日ほどかかると思われます。ゆっくりと魔力を取り込んでおりますので、無理に動かしたり魔力を注入しようとせず、自然と目を覚まされるまでお待ちください」
ほかにも細々としたことを挙げた侍医は、礼をして去っていった。
ララが泣きそうな顔でアンナの世話を始める。着替えをすると言われ、フィリップはおとなしく部屋を出た。
「フィリップ、あなたとアンナは仮とはいえ婚約者です。本来なら本人に承諾を得てからがいいでしょうけれど、あなたは読んだほうがいいわ」
グラツィアーナから渡された紙の束を受け取り、ぱらぱらとめくってみる。
「これは……!」
「いままでアンナがどのような扱いを受けてきたかが記されているわ。小さいころから行われていて、わたくしたちでも全てを知ることはできなかったの」
グラツィアーナのあたたかな茶色の目に、心配が詰まっている。
「アンナは、あなたが嫌うような人間ではないわ。もし……アンナが婚約を続けたいと言うならば、謝罪する機会もあるでしょう」
去っていくグラツィアーナに言える言葉は、なにもなかった。
(きっと彼女は、婚約はやめると言うだろう)
王城に与えられた自身の客室へ行き、じっくりと報告書を読む。
記されているのは、奴隷のような生活の日々だった。
アンナのつらい生活を追っていくうちに、平民にしては美しく字が読めるララが雇われてアンナの世話をするようになると、意外なことにほっとした。
そこには、ララがアンナの支えになっていることが書かれていたからだ。
ララは病気の弟がいてワーズワース家に人質とされていた。弟が患っているのは完治する病なのに、症状が悪化したときのみ薬を飲ませ、ララを縛り付ける。
アンナはララとその弟のために、自ら地獄にいることを選択した。逃げればララが殺されると知っていたのだろう。
「……強い少女だ……それなのに私は……」
貴族であるというだけで今まで接してきた女と同じだと思い込み、ひどい態度をとってしまった。
アンナは、家族と同じく傷つけるだけの人間だとフィリップを認識しただろう。
それから鍛錬の合間に毎日、日に何度もフィリップはアンナの元を訪れた。
そのたびに、コルセットが必要ない細すぎる体と、傷ついているであろう心を痛々しく思う。
アンナが目を覚ましたのは、倒れてから12日後だった。
「まことに、まことに申し訳ありませんでした!!!」
目覚めてから経緯を聞いたアンナは、床に這いつくばって謝罪するしかできなかった。
王族を傷つけるところだったのだ。首を切断などいいほうで、拷問されて殺されても文句は言えない。
「アンナ、気にしなくていい。私もグラツィアーナも傷ひとつなかった」
「傷がなければ許されることではありません!」
「性急にことを進めた私の責任でもある。グラツィアーナの初めての友人を処刑して恨まれたら、私は非常に困るんだ」
「友人……?」
この場にふさわしくない単語が聞こえた気がして、アンナは思わず顔を上げる。薔薇のように咲き誇るグラツィアーナの笑顔が、そこにはあった。
「わたくしの初めての友人です。それに魔力暴走は、意図して起こるものではありません。アンナに傷つける意思がないのはわかっていてよ」
「……わたしは自分で自分が許せないのです」
「それなら、アンナのぶんまでわたくしが許すわ。お友達と思っていたのは、わたくしだけなのかしら」
「そんな……ことは」
アンナはくちびるを噛みしめた。
「こんな状況なのに、初めての友人ができて嬉しく思ってしまうわたしを、許してくださるんですか?」
「もちろん。わたくしとアルベルト様がいいと言えば、いいのよ」
このように権力を使うなど滅多にないグラツィアーナが胸を張ると、なんだか子供のように見えて微笑ましかった。
「アンナ嬢の魔力は、王城の強化に使わせてもらうよ。星辰の儀に向けて、土の魔力はいくらあっても足りないからね」
大陸で一番大事な星辰の儀の前に、英雄と王族を傷つけてしまったかもしれないと思うと、アンナは何度目かわからない吐き気を覚えた。
「アンナ嬢、本当に気にしないでくれ。フィリップに逃げるよう言われたのに、あの場に残ったのは私たちの意思だ。私たちが悪いのだよ」
アルベルトはアンナを立たせ、椅子へ座らせた。この話は終わりだと言わんばかりの態度に、アンナは謝罪を飲み込む。
これ以上謝ったら、ただの自己満足だ。殿下をそんなことに付き合わせるわけにはいかない。
「婚約の件だけれど、魔力暴走するくらい嫌ならば取り止めるよ」
アルベルトの言葉に、アンナは首をふった。
「婚約のせいではありません。好き嫌いで言えば即答するくらい婚約は嫌ですけど、あのときはあまりに自分が情けなくて」
アンナの目に悔しさが浮かぶ。
「いつかララとその弟を連れて逃げることを考えていました。それなのに結局、他人の手を借りなければどうにもならなくなってしまいました。自分に力がないのが情けなくて悔しくて……」
「アンナ……」
「いつか家族とギュンターを魔獣の群れに放り込んでやろうと思っていたんです! 奴隷として売り払うとか! それが出来なくなったかもしれないと思うと心底悔しいんです!!」
「アンナ……」
グラツィアーナの顔が、なんともいえない表情へと変わる。
思ったよりたくましいアンナに驚きつつ、フィリップは口を開いた。
「私でよければ手助けしよう」
「結構です。自分の手でしたいので」
きっぱりすっぱり断られ、言おうとしていた言葉がのどに詰まる。
「あなたがわたしによくない感情を持っていることは知っています。お互い人前でだけ仲睦まじくしましょう」
「違う! 確かに初対面の私は印象が悪かっただろう。それは私が愚かだからだ」
フィリップに話しかける口実として、今の生活がつらいと言う令嬢は幾人もいた。
刺繍をしなければならないのに肩が凝ってできず怒られただの、勉強が進まないだの、甘ったれたことしか言わず媚を売ってくるのはうんざりだった。
「苦労を知らず苦労したと言う人間を見てきた。きみのことを知らずに決めつけて申し訳なかった」
こうべを垂れるフィリップに、アンナはあっさりと頷いた。
「許します」
「え?」
「魔力暴走したわたしを、殿下とグラツィアーナ様は許してくださいました。そのわたしがフィリップ様を許さずにいるなど、どうしてできましょう」
「だが……私の態度は」
「確かに、高圧的でいけ好かなくて好意などみじんも抱けませんでしたね。でも、謝罪してくださいました。それでも足りないと言うのなら、今からの態度で表してください」
アンナは微笑んだが、それだけだった。フィリップが嫌う、媚や見返りを求めるものは、なにもなかった。
「……本当に、申し訳ない。きみは敬うべき人間だ」
「そこまでの者ではありません」
「私は、努力してきた人間に敬意を払う。きみの努力を、涙を、汗を、それらを積み重ねてきた精神を尊敬する」
アンナはぱちりと大きな瞳をまたたかせ、くしゃりと笑った。
「そんなことを言われたのは初めてです。レディを人前で泣かせてしまったら、どう責任を取るおつもりですか」
「きみさえよければ、婚約後に結婚しても構わない」
「あはは! 嫌です!」
あっさりと明るい声で拒否され、フィリップは固まった。話すたびに何かしら拒否を(しかも女性に)されるのは初めてで、どう返していいかわからずいるあいだに、アルベルトとグラツィアーナも笑い出した。
「いまのは断られるよ。さすがのフィリップも女心ばかりはわからないらしいね」
「あんな言葉で求婚されて嬉しい女性がいるはずがないのに」
「まったく嬉しくなかったです。確かにわたしの評判は最悪ですが、わたしだって伴侶を選びたいですよ」
「つまり……私は伴侶として値しないと?」
「婚約者としてはじゅうぶんですよ」
さりげなく肯定され落ち込むフィリップを物珍しく、しかし抑えきれない笑みを浮かべて見ていたアルベルトは立ち上がった。
「この先はふたりで話し合うべきこともあるだろう」
「アンナ、また明日お茶をしましょうね」
立ち上がってふたりを見送ったあと、残されたふたりは沈黙を持て余したあと、どちらからともなく先程の席へ腰を下ろした。
給仕としてララのみが残り、新しいお茶がカップに注がれる。
先に口を開いたのはフィリップだった。
「体調はいいと聞いたが……痛みなどないだろうか」
「ありません。寝たきりだったので、体を動かす練習から始めなければいけませんが」
実際、半分ほど紅茶が入ったティーカップをつまむのもきついほどだった。
「あのときは勢いで決めてしまいましたが、婚約相手がわたしで本当にいいのですか? わたしは子爵の出で、評判もよくありません」
「権力を持った家と婚約すると、また要らぬことを言う人間が出てくる。私がこれ以上の権力も富も、フィアラーク家当主の座も望んでいないと知らしめたい」
ワーズワースは小さな土地を治めるのみで、森の木を売ったお金と、民からの税金で暮らしている。
有力貴族にとってワーズワースと付き合う利点はない。ワーズワースは権力に固執しているが、繋がりはわずかしか持っていなかった。
「評判も、きみの姉と元婚約者が吹聴したものだ。その噂は消えるから心配いらない」
「何かされたんですか?」
フィリップは薄く微笑むのみで答えなかったが、それでじゅうぶんだった。
「姉たちが言うのは本当のことです。勉強はできないし、魔法も上手ではありません」
「いい成績をとると暴力をふるわれるの間違いだろう。それに、きみの魔法は素晴らしい素質を秘めている」
(実技でいい成績をとったことがないのに?)
アンナは今まで、大した魔法を使えたことがない。
「ワーズワースとゲーデルの屋敷の地下に、魔力を張り巡らせていると聞いた。確認に行かせたが、魔力暴走でも揺らぐことなく、いまだ健在だ」
「あのときは……無関係の人を巻き込みたくないと必死で」
特にゲーデル家では、脅されて働いている女性が多かった。家族への危害をほのめかされ、やめられないのだ。
「あの場にいた方々は巻き込んでしまいましたけど……」
「よく抑えたのだから、気にしなくていい。私が言いたいのは、魔力量が極めて多く、訓練すれば一流の技を身につけることも可能という事実だ」
「え……ですがわたしは……」
アンナの脳内に、いままで投げつけられた言葉が渦巻く。
ーーあんたなんか何をしても出来損ないなのよ
ーー殴られるだけが存在理由だろ! 抵抗するな!
ーー死んだって誰も探さないし泣きもしない。惨めね!
ーーおいカス、はやく死んでみせろよ
「きみには素晴らしい可能性がある。きみが望む輝かしい未来のために、私の持ちうる全てを惜しまず使うと約束する。ーーきみが、それを望めばだが」
フィリップの声は淡々としていて冷たくも聞こえるが、そのなかに確かな優しさと、心配されていることをアンナは感じ取った。
いまだにアンナの心を蝕む棘が、優しく溶かされていく。
「屋敷を崩壊させる女でもですか?」
「それくらいで済むことを感謝されるべきだな」
「ふふっ、フィリップ様は変わっていますね」
「……そうだろうか? ああそうだ、屋敷を壊すときは、先に奴らの評判を存分に落としてからにするといい。今のままだと、どこかの貴族が金を流すかもしれない」
「それはいけませんね。路頭に迷ってもらわないと」
「追い詰めすぎるのも勧めない。敵はあまりに後がなくなりすぎると、捨て身の行動に出ることがある。聞くかぎり、ワーズワースは何かしでかしそうだ」
「おとなしく這いつくばってくれないでしょうね」
でも、それでいい。簡単に心が折れてしまっては、復讐のしがいがない。
上機嫌で紅茶を飲んだアンナは、ケーキに手を伸ばした。ひとくち食べるごとに、おいしさに目を丸くしたり、うっとりと味わったり、休めることなく手を伸ばしたりと、見ていて飽きない。
「……きみが望むのなら、ワーズワースと親子の縁を切ることができる。書類も用意させた」
「それは……とても嬉しいです。でも、簡単にできるとは思えません」
「きみには意図的に知らされていないかもしれないが、子を虐待すれば罪に問われる。きみが口外しないことと引き換えにすれば、サインさせられる」
アンナの青い目が、水底から見た水面のように、きらきらと輝いた。
「縁を切りたいです! あ、でも……そうなるとフィリップ様は平民と婚約することに」
「フィアラーク分家の養女となればいい」
フィリップは目を伏せた。初めて自由を得て羽ばたきたいアンナを縛り付けるのは、心苦しかった。
「……最短で5年、長ければ10年以上婚約してもらうこととなる。きみの婚期を逃してしまう。恋愛をするなとは言わないが、その相手と結ばれるのは遥か先だ。……きみこそ、婚約していいのか?」
「フィリップ様は、わたしのことを調べたのでしょう?」
アンナは心底不思議だと首をかしげた。
「あんな目に遭って、まだわたしが結婚を望むと思っているんですか? 本気で?」
「だが、よっぽどのことがないと……」
「わたしにとって、今までの日々は『よっぽどのこと』だったんです。すべての男性が息を吸うことすら不快な存在だとは思いませんが……夢見る時期は過ぎたんです」
「……そう、か」
「そうです。フィリップ様と婚約解消したら、平民の寡婦として遠くで暮らす予定なのでお気になさらず。たっぷりお金をくださいね」
場の空気を変えるために茶目っ気たっぷりに笑ってみせるアンナに、フィリップはかすかに微笑んだ。
「約束しよう。忘れないうちにこれを渡しておく」
フィリップが取り出した箱はビロードで覆われており、見るからに高いものだった。恐る恐る受け取ったアンナは、中を見て驚きでかすかな悲鳴をあげた。
中に入っていたのは、アンナの手のひらに乗る大きさの、色付きの魔石だった。透明に青く光るそれは、周囲に宝石や小さい色付きの魔石が散りばめられており、非常に豪華だった。
「これほど大きい色付きの魔石だなんて……こんな高価なものいただけません」
色付きの魔石は非常に珍しく、大きな魔獣を倒しても滅多に出ない。王家に献上してもおかしくない品が自分の手の上にあるのが、アンナは恐ろしかった。
「これは私が退治した魔獣から出てきたものだ。まだあるから遠慮せずつけてくれ」
「壊したら弁償できません!」
「あげたのだから好きにすればいい。空の魔石だから、できるだけ身につけていてくれ。万が一魔力が暴走しても大丈夫なように」
フィリップが立ち上がり、アンナの手からネックレスを取る。
フィリップが後ろへまわってネックレスをつけるのを、アンナは困惑しながら受け入れた。
フィリップから、ほんのりと草木のようなみずみずしい香りがした。長く絹のような銀の髪からは、シトラスの香りが。
ギュンターにいじめられる以外、異性とこんなに近くにいたことはない。どきどきしながらララが用意した鏡を見ると、上品なきらびやかさでデコルテが彩られていた。
「ありがとうございます。……こんな素敵なものをいただけるなんて」
「婚約者への贈り物だ。受け入れてくれて感謝する」
フィリップは自分の手を握りしめた。
指先にふれてしまった、アンナの白く柔らかな肌の感触が忘れられない。
「もし本人が望むなら、ララとその弟も一緒に領地へ来るといい」
「ありがとうございます。でもトト……ララの弟は、もうすぐ完治すると聞いています。ねえララ?」
アンナとララの目が合った。ララのひとみは凪いでおり、静かな決意をたたえていた。
「ご配慮に感謝いたします。弟と一緒にまいります」
「では、そう手配しておく」
「ララ、だめ! ようやくトトと一緒に暮らせるのよ!」
「ええ、アンナ様もご一緒に。ここにいては、ワーズワースに何をされるかわかりません。……アンナ様さえよければ、また一緒にいてもいいでしょうか?」
「っ、いいに決まってるじゃない……!」
飛び出そうとしたアンナは一度は衝動を抑えたが、フィリップに優しく頷かれ、駆け寄ってララを抱きしめた。
「本当にいいの? お友達は?」
「早くから働いていたのでいません。トトも隔離されていたので、親しい人間がおりません。お気になさらないでください」
「ララ、あなたがいてくれるだけで、どれほど心強いか!」
その後フィリップはアンナと細かなことを決め、部屋を出た。
自分の客室へ向かう途中でグラツィアーナと会い、しばし一緒に歩くこととなった。
「アンナと話はできて?」
「……魔石より、あのメイドが共に来ることを喜んでいました」
珍しく拗ねた声色のフィリップに、グラツィアーナは声をあげて笑った。
「あなたが毎日何度も、アンナを見舞っていたことを知らないのよ」
「知っていても変わらなかったかと」
「あなたのそんな顔、初めて見たわ。氷の貴公子も意外と素直に恋に落ちるのね」
「……からかわないでください」