箱庭と想い出のアップルシナモンロール2
どこからか穏やかな川のせせらぎのような、岩の隙間から水がチョロチョロと流れ出る音が聞こえる。
お母さんに抱き締められているかのように程よい体温と心地よいリズムでトクン、トクンと心臓の音が聞こえた。
「大丈夫か……?」
カンナは瞼を少しずつ開ける。
神秘的で深く澄んだ色コバルトブルーの夜空に、細く柔らかい金色の絹糸の青年がこちらを見つめている。金色の長い睫毛に空に浮かぶ星に負けないくらい綺麗な瞳。瞳は瞬きをすると一層潤いを増し、キラキラと七色に輝いていた。
大きなお城に住む、見たこともないくらい綺麗な男性。
カンナは自然と彼のことを「王子様」と呼んでいた。
アイリスはソファーに深くもたれ掛かりながら、自分の膝にカンナを寝かせていた。夜は冷えるので風邪をひかぬよう毛布をかけ、小さな子供を安心させるかのように頭を撫でた。
「私の名はアイリス。王子様ではなく、アイリスと呼んで欲しい」
カンナは小さな唇をゆっくりと開き、彼の本当の名前を呼んだ。
「アイリスさま……」
彼女の表情を上から除き混むように、優しくアイリスは微笑む。
「寒くはないかい?」
「はい」
カンナは自分の置かれている状況に恥ずかしくなり、毛布を首まですっぽりとかぶり、顔を半分隠した。
温室にはアイリスが大切に育てた「花たち」が咲いている。お庭程広くはないこじんまりとした温室は「秘密の箱庭」と呼ぶのに相応しい。暖かな場所でないと育たない熱帯植物や観葉植物がすくすくと育っていた。中でも目立つのが「洋蘭」だ。
側のテーブルにはカンナが持ってきたアップルシナモンロールがお皿に盛られている。
カンナの顔色は段々と回復し、再び「ぐうう」とお腹が鳴った。
「やれやれ……」
アイリスはお皿からアップルシナモンロールを手に取ると、一口分の大きさにナイフで切り分けカンナの口元に差し出す。
「ひ、一人で食べれますから」
「……だめ」
カンナはアップルシナモンロールを少しずつ口に入れる。
幼心ながらもアイリスの長く細い指が唇に触れるか触れないかドキドキとした。
「おいしい?」
カンナは顔を赤らめながら、黙ってうなずく。
口の中は甘い蜂蜜に包まれ全身がとろけそうになる。
「もう遅いから今日はここでおやすみ。お礼の花は後日私が厳選し直接おうちへ送っておこう」
「え……?」
「安心しなさい、朝が来るまで私もずっとここにいるから」
「ええ……?」
「私とじゃ不安……?」
「いえ、そんなことは……」
「じゃあ、なんだ……?」
カンナが言葉に詰まると、アイリスは軽く拒否されたことに不満を持ち、そっと耳元で囁いた。
「……それとも、私の部屋で一緒に眠るか?」
カンナはその言葉の本当の意味は理解出来なかったが、囁かれた耳元がくすぐったく、頭まですっぽり毛布をかぶって顔を隠す。
その純粋で可愛らしい仕草にアイリスはにっこりと微笑んだ。
***
姉が奏でる鉄琴の音を聞きながら、カンナは再びベッドに横になった。
(アイリス様……アイリス様は、私にとって恐れ多い存在なのです。私には「お菓子売り」を口実にアイリス様に近寄ることしか出来ません。それでも、私にとってアイリス様と過ごす時間は何事にも変えがたい大切な時間……)
アイリスから貰った花びらの小瓶を胸にぎゅっと抱き締める。
(私はたまにアイリス様に逢えるだけで充分恵まれている。だから……この胸内にある想いは私の中でずっと閉まっておきます。
アイリス様…………私はアイリス様のことが……好きです。)




