Day5
Day5
あたりのさわがしさに、カナは目をさました。
時計を見ると、時刻は午前零時を過ぎたあたりで、夜明けまではまだかなりある。
ざわついている外の様子に、何があったのかと、窓から下をのぞくと、そこにはあわただしく動き回る従業員らの姿があった。
下に降りて、偶然通りかかった従業員のひとりに、何があったのかたずねてみる。
「窓から落ちたんだ」
「え?」
誰が?
しかしそれ以上、聞く必要はなかった。
数名の従業員にかかえられ、ちょうど館内に運ばれてきた、その人物。担架上にある体はぐったりとして、もはや死んだように動かない。それは杏の姿だった。
いや、しかし。それは本当に杏なのか?
髪は真っ白に変わり、干からびたシワだらけの顔はまるで、ミイラだ。
教授を先頭に従業員ら一同は、例の桑原が安静にしているという医務室に杏を運び入れると、またドアを閉ざしてしまった。
この館で何が起こっているのだろう。異常事態が続いていた。短い間に滞在者が、続いて不審な事故にあっている。
あの姿を見れば明らかだ。おそらく杏は死んでいる。とすれば、やはり桑原も……。
ゾクリ、と背筋にはしる、戦慄。ここにいる生徒、残らずみんな、最後には死んでしまうんじゃないだろうか。
前日にたまたま読んだミステリーの本。内容は嵐の山荘ものと呼ばれるものだった。天候災害によって、人里はなれた洋館に籠城せざるをえなくなった登場人物のあいだに、次々とおこる連続殺人。今の状況はまさにそれと同じだった。
次は……誰が……。自分かもしれないし、それとも。玲子。
そういえば彼女はどうしたんだろう。もっとも神経過敏そうな玲子が、この騒ぎのなか、起きてこないのは不思議だった。まさか。
階段を駆け上がり、玲子の部屋へ急いだ。
「ねえ、起きてる?」
ドアをたたき、そう呼びかけるも返事はなく、ノブをまわすとスーッと、音もなくひらいた。鍵はかけていなかったようだ。
すると暗い部屋の真ん中に直立不動で立っているシルエットが見えて、一瞬ドキッとする。それは玲子にちがいない。けれど。
「どうしたの?」
呼びかけても返事はなく、その様子は明らかに異様だった。ドア脇のスイッチをおして、灯りをともした。
両手をだらりと下げ、呆然と立っている玲子は、その格好のままで、眠っているようだ。
夢遊病のようなものだろうか。うっすらと閉じたまぶたは、ピクピクと細かく振動して、その下にある眼球がはげしく活動しているのがわかった。玲子の意識は今、夢の中をさまよっているのだ。
※
わたしの体は宙に浮いていた。上下もわからない、何のさえぎるものもない、無の空間に。
今私の中にあるのは、怒り。どこからか、次々と湧きあがって、とどまることをしらない、怒り。
それは身体中をいっぱいに満たして、もう吐き出してしまわなければ、気がくるってしまいそうな限界の状態にあった。
ついに体から、モヤモヤとした気体、蒸気のようなものが立ちのぼる。それは……オーラと呼ばれるものにちがいない。
漆黒の色をしたオーラは、怒りの感情と比例するように、大きく広がっていく。それは、怒りをぶつけるべき相手、獲物を探しているのだった。
わたしの意識は、いつしか体をはなれ、伸びていくオーラの先を追っていた。
何もない空間に、現像から画像が浮かび上がるように、風景が現れ出てくる。見覚えのある眺め、それは滞在している洋館の廊下だった。
すべるように廊下を進み、いくつかある部屋のうちのひとつ、そのドアの前で停止した。
わたしにわかっていた。このドアの向こうに怒りをぶつけるべき対象がいることを。その人物はそうされて当然のことをわたしにしたのだ。
オーラはドアの隙間から、易々と室内にはいっていった。同時にわたしの意識も中へすべりこむ。
毛布を頭からかぶり、ソファに身を縮こませ、ひどくおびえた様子の女性がそこにいた。
杏。そう、彼女の名前は、神宮寺杏。
憎悪にゆがんだ醜い表情もあらわに、杏がさけんでいる。
「化け物、こいつは化け物だ!」
彼女から放たれた凄まじい悪意は鋭いナイフとなって、わたしの心を切り刻んでいく。
そう。すこしもためらうことはない。彼女はわたしをひどく傷つけたのだ。今度はこちらが仕返しをする番だ。
するとオーラが何か形を、なし始めた。ゆらゆらとうねり、伸縮し、それは人間の姿へと変化していく。
わたしだった。オーラはわたしの姿になって、杏の前に立ち、せまっていく。そして窓を背に追い詰められた彼女の首に、手をのばす。
死……死……死……。
「死ね!」
心の中にあるのは、殺意、だけだった。
わたしの姿になったオーラは、まるで質量があるかのように、杏の首をぎりぎりと締めあげていく。
「死ね! 死ね! 死ね!」
こめかみに血管を浮かびあがらせ、血走った目を見開いて、酸素をもとめて開いた口から舌をうごめかせ。涙を流し、もだえ苦しむ杏の顔を見ながら……わたしは笑っていた。わたしは心から、その行為を楽しんでいた!
必死でのばした手で窓をあけると、杏は最後の力をふりしぼって、逃げた。何もない窓の外へと。
断末魔の悲鳴をあげ、落下していく杏の体。
グシャッ。
頭蓋骨がトマトのようにつぶれる音を、わたしは恍惚とした思いで聞いていた。これほど充足した気持ちになったは、多分生まれてはじめてだ。
……。
それで満足したのだろう。わたしを満たしていた怒りは急速にしぼんでいき、同時にまわりの景色はかすれ、消えて、また静寂がもどってきた。
虚空にひとり、浮かんでいるわたしの体。からっぽになった心に、代わりに流れ込んできたのは、後悔の念?
何? わたしはいったい何をしたのだろう?
戻りつつある理性が、わたしに自問をうながしている。
断末魔の悲鳴。闇の底へと落下していく、杏の丸い体。
わたしは……人を……殺してしまったの?
自分のしたことが信じれらない。
あれは……あんな殺意をわたしが持っていたなんて。
苦しみあえぐ、杏の顔。
取り憑かれてしまったみたいに。
鬱血し、目を血走らせて。
でも、あの時、たしかに。
酸素をもとめ、開けた口からはうごめく舌がのぞいて。
わたしは楽しんでいた。
杏の死にゆく様子に、全身がふるえるような快感をおぼえていた!
いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!
※
直立不動のまま、夢を見ていたらしい玲子の唐突な絶叫に、カナはただ驚くばかりだった。
玲子の表情は今、苦悩にゆがみ、身を切り裂くような叫びの中には、深い悲しみがまじっていた。
おもわず、カナは駆け寄って、両腕をひろげて抱きかかえた。
誰にも言えない深い苦悩をかかえているらしい玲子の、その悲しみを少しでもやわらげてあげたい、そんな恋情に突き動かされて。
※
七海の身に思わず緊張がはしったのは、全く微動だにせず、瞑想していた男。おそらく西行寿三郎の息子か孫、らしき彼のまぶたがピクピクと痙攣し始めたのに気づいたからだった。
男は意識を取り戻そうとしていた。電流がはしったように全身がかすかにふるえ、そして発光するように白くかがやいた。ような、そんな錯覚におそわれる。
神々しい、とまでいったら大げさかもしれない。けれど今、目覚めつつある、男の姿は精気を取り戻し、周囲をあっとうするような存在感を放ちはじめていた。
と同時に命の危険さえも覚えるような、いいしれない恐怖が押し寄せてくる。
そう。恐怖をおぼえて当然だった。どうした理由によるものかわからないが、男と同じ部屋にいた女性は今、変わり果てた姿で瀕死の状態にあるのだ。これが彼の仕業でなくて、なんだろう。
逃げなければ、自分もまた、このような姿にされてしまうにちがいない。
出入り口であるドアに向かって、駆け出そうとしたその時、七海は廊下を走ってくる靴音を聞いた。
誰かがやってくる。
ドアがひらき、はいってきたのは、麻木教授だった。
「西行会長、おめざめですか」
男はついに目をさましたらしい。
「彼女、白河玲子はやはり本物のようです。しかも私たちの予測より、はるかに強い力をもっている」
教授の報告を聞いて、男が答える。
「私も感じたよ。彼女の強い波動に感応して、しばらく意識をうばわれていたほどだ」
「西行会長ほどの人が?」
「ああ。で、今、玲子はどこに?」
「部屋にいるはずです」
「直接、会ってみよう」
とっさに隠れる場所をさがし、七海が反射的に逃げこんだのは、ベッドの下だった。
つまりすぐ頭上には、厚いマットレスととおして、西行が座っているというわけだ。
会話が済んだらしい。
西行は立ち上がると、素肌にガウンをはおった。
そして椅子にすわっている例の女に、恋人同士が別れ際にするように、軽くキスをすると、教授をともない出ていった。
歩き去っていくその足音が消えたのを確認して、ベッドから這い出て、七海は見た。椅子にすわっていた女性が力をうしない、ズルズルとすべりおちて、床に倒れていく様を。
開かれたままの虚ろな瞳は完全に光をうしなって、すでに女性がこと切れているのを伝えていた。
ためしに心をのぞいても、まったくの無があるばかり。
ミイラのように干からびた、若い女の死体をそのまま残し、何事もなかったように平然と出て行った西行と麻木。
つまりこうしたことは日常茶判事、彼らにとってはよくあることなのにちがいない。とそう考えいたって、あらためて怖くなる。
何かとんでもない異界にまぎれこんでしまったのかもしれない。まだ死にたくないのなら、一刻も早くここから逃げたほうがいい。
西行の正体、会話の中に出てきた玲子のこと。気になることはいくらでもあるが、それらを追求している余裕は、もはやなかった。
※
あああああああああああああああああっ。
するどい叫び声にわたしは目をあけた。
そして……叫んでいるのが、他ならぬ自分であるとわかって、口をとじる。
冷たい床にすわりこみ、となりには、まるで私を守るようにして腕をまわしている人が……。
誰?
そして気がつく。
「だめっ、はなれて!」
身をひくと、グラリ、と支えをうしなって、人形のように力なく、倒れてしまう。
カナ……さん?
それはおそらく、カナだった。確信がもてないのは、横たわる彼女の顔や手が、干からびてシワがより、まるでミイラのような姿に変わり果てていたからだった。
死んでいる? 死んでしまったの?
倒れたまま、まったく動かないその様子を前に、わたしの頭は混乱し、怖くなって震えだす。
そんな……こんな姿になったのは……わたしに、さわったからなの? そのせいなの?
違う! そんなつもりはなかった。
殺したのはわたしじゃない!
でも。唐突に直前に見ていた悪夢が頭をよぎる。
わたしは殺した。杏を殺してしまった。
でもあれは夢。そう、夢だった。
でも本当に?
夢だったの?
もしかして、夢に見た通り、現実に、杏を殺してしまったのでは?
自分の手を見る。血まみれになっているような気がして。
そう。多分、杏もまた死んでいる。
わたしが、やったのだ。
桑原、杏、そしてカナ。
わたしに触れた人たちはみな、死んでいく。
人殺し。
わたしは人殺しだ。
階段をのぼってくる、複数の足音がきこえた。
化け物! 化け物!
顔を憎悪でゆがめ、怒りの声をあげて、追いかけてくる群衆の様子が、唐突に浮かんだ。
あの女は人間の敵、化け物だ、つかまえて、吊るしあげろ!
本で得た知識だ。中世のヨーロッパで、一時期、実際にあったとされる魔女裁判。
あやしげな魔術をつかったと誤解され、集団妄想につかれた群衆らによって、数十万人およぶ女性が処刑されたという。
ほかにもヒットラーひきいるナチスドイツによるユダヤ人迫害。黒人、有色人種を弾圧し、暴行殺人をおこなっていたアメリカの秘密結社、KKK団など。
いつの時代でも、人間は自分と違う存在を忌み嫌い、排除しようとする。そうした集団は消えてなくなることはない。
そう。わたしのように、異様な力を持つものは、いつの時代であっても、人々におそれられ、追われる身となるのだ。そしてつかまったら最後、処刑され、闇に葬りさられてしまう。それがわたしを待っている、残酷な未来。
廊下をこちらへ向かってくる足音はさらに大きく、ここへ迫っていることをつたえていた。館にいる残りの人々は、わたしが化け物であると気づいたのだ。
早く……逃げなければ……。
しかしドアから出たら、すぐに彼らと鉢合わせしてまう。ほかに……どこか。
窓があった。開けて下を覗き込む。けれどここは三階だった。飛び降りたら、最悪、死にはせずとも、大怪我はまぬがれないだろう。
どうしたら……。窓枠にまでのびているつる草に目がいった。洋館の壁、全体をおおっているつる草。これを利用すればあるいは。しかし決して太くも強さもないそのつるが、自分の体を支えてくれるのだろうか。しかし迷っているひまはなかった。
窓をこえて、足をかけ、手でつかむと、つる草をつたって、下へ降りていく。何度か滑り落ちそうになり、肝をひやしたものの、どうにか地面に降り立つことができた。
途中、すりむいたのだろう、手のひらや、すねのあたりが傷んだが、かまってはいられない。
今度は中庭をつっきり、森の中を必死に走った。どこへいけばいいのか。考えている余裕もなかった。とにかくひとけのない方向へと、勘で進むしかない。
夜、しかも月もかくれて見えない、森の中を走り抜けるのは、あまりにも危険だった。折り重なる木々の枝に体を鞭うたれ、背丈ほどものびた雑草の鋭い葉先に、足や腕を切り裂かれた。
体力はまたたく間に消耗し、ほどなくして、わたしは座り込み、動けなくなってしまった。脇腹がさしこむように痛み、はち切れそうなほど心臓が脈打っている。
振り返ると、木々の間から、サーチライトのように、いくつもの光の筋が差し込むのが見えた。従業員らが総出で、わたしを追っているのだろう。
つかまったらどうなるのか。精神もすでに極限の状態にあるのか、本で見たことのある挿絵、中世魔女狩りで行われたという処刑のシーン。十字架にはりつけにされ、業火で全身を焼かれ、水責めをうけ、鞭打たれ。そんな映像ばかりが先ほどから頭に浮かんで、消えない。
どうしてもそれに自分の姿を重ねあわせてしまう。そんな目にあいたくなかった。なんとしても、逃げのびなければ。
先へ進もうと立ち上がる。しかし頭ではそう思っても、限界に達した体はまるで言うことを聞かない。思うように歩くこともままならず、足をすべらせ、薮下の斜面を滑り落ちて、這いつくばったその場所は、顔をあげると、道の上だった。
何のことはない。人のいない森の奥へと逃げているつもりが、もっとも見つかりやすい場所に転がり出てしまったのだ。
そして間が悪いことに、屋敷の方からこちらへと、黒い影が近づいていた。それはヘッドライトを消した車だ。
逃げなきゃ。しかし、したたかに腰をうって、だめだ、立ち上がることができない。
※
逃げなければ。
七海が、死ぬ間際の女性から読み取った内面から、彼女がここまで車できたことはわかっている。
車庫は? この部屋を出た短い廊下の両壁にあった黒いドアの部屋、そのどちらかが車庫へ通じているであろうことは間違いなかった。
しかしいずれもがしっかりとロックされ、あけることができない。途方にくれていると、階段を駆け下りてくる、複数の足音がした。
とっさに西行の部屋にもどり、様子をうかがっていると、やってきた複数の従業員と思われる彼らは、ここに来ず、カードキーをつかったのか、ピッという電子音をたて、ドアを開けると、その中へ入っていった。
しばらく待ち、静かになったのを確認して出ると、さっきまでロックされていた黒いドアのひとつが開かれたままになっていた。中をのぞくと、ひんやりとした空気のなかに、かすかにオイルのにおいがした。
うちっぱなしのコンクリートの壁に床。ステンレス製のたなには、レンチボックスや、車を整備するための道具の数々がそろっている。おくからエンジンをふかす音がして、車が走り去っていったのがわかった。
思ったとおり、そこが車庫だった。さわがしいおもての様子から察するに、緊急の用で出かけていったのだろう。ずいぶんとあわてていたようで、ガレージの出入り口はあけたままになっている。
あとには二台の車が残っていた。黒いリムジンとカローラ。
もっているキーのスイッチを押すと、カローラのロックが解除され、七海はそれに乗り込んだ。
オートマ車だった。これなら大丈夫、動かせるはずだ。
キーをさし、スイッチを押して、エンジンを起動させた。ハンドルをにぎり、アクセルをふむ。
ゆっくりと車を進め、プロムナードをとおり、門を出るまで、運がいいことに誰にも見つかることはなかった。あとはふもとの町へ急ぐだけだ。とはいえ、先に出ていった、従業員の乗る前方車に追いついてしまったら元も子もない。適度な速度をたもたなければならなかった。
いっぽう運転のほうはすぐになれ、前進するだけなら何の問題もなさそうだった。が、発見されるのをおそれて、ヘッドライトを消しているために、かなりの注意力を必要とした。しかも道の幅もせまいから、少しでも外れて、藪につっこんだら最後、そのまま抜け出せなくなる危険もある。
その時だった。道の真ん中に座り込む人影を見つけたのだ。
あわててブレーキを踏み、急停車させる。
……。
ひいてしまった? でもあれは……館の従業員? ならば、このまま逃げたほうがいいのでは?
一瞬のあいだに、さまざまな思考が頭をかけめぐり、答えがみつからないまま、七海が呆然としていると、ドン。ボンネット手をついて、むっくりと起き上がった細い影。……それは玲子だった。
助手席にすわった玲子の姿は全身が泥にまみれ、手足はすり傷だらけで、疲労困ぱいしていた。くわえて、まばたきを繰り返し、爪をかんで、せわしなく体を揺らし。精神的にもかなり追い詰められた状態にあることがうかがえた。
「何があったんだ?」
「……みんな……死んだ」
桑原のこと、そして墜落した杏のことを言っているのだろうか?
「でもあれは事故だ。だろ?」
「カナも」
「えっ?」
「カナも、死んだっていうのか? どうして?」
うつろな瞳のまま、何も言わない玲子。
そうだ。そもそもなぜ、こんなところで倒れていたのだろう?
考えるまでもない。彼女もまた、何か怖ろしいものを見て、矢も盾もたまらず逃げ出したのだ。もしくは……、自身が、何か怖ろしいことをして……。
西行と教授がかわしていた会話が脳裏をよぎった。玲子は本物、強い力をもっている。確かそう言っていた。強い力。それが何を意味しているのか。七海の推測が当たっているとすれば……。
「……君が……やったのか」
全く荒唐無稽な話だ。けれど、たてつづけに起こる異常事態。そして怪しげな人たち。あの洋館では何があっても不思議ではない。
「……でも、それは君の意志によるものではないんだろ」
七海の言葉に力なくうなずく玲子。
そうか、やはり。持っている特殊な力をつかい、何かを起こし、結果、カナが死んでしまったということなのか。
「仕方なかった……だろ? 君のせいじゃない。そうだろ」
うつむいたまま沈黙している。何を思っているのか、その心は堅くガードされて、七海にも読みとることはできなかった。
うっ……。すると玲子は小さくうめいて、苦痛に顔をゆがめはじめた。
「どうした?」
「頭の中に誰かが……」
「?」
「ここに来てからずっと、見られている感じがしたの。でも、その誰かは、今度、わたしの頭の中に入りこもうとしているみたい……」
そう言って、追い払うように頭をふる。
「急いで、ここをはなれなきゃ。彼がくる。車を出して」
※
誰?
わたしをずっと見つめていた、姿の見えないその彼は、今やはっきりと存在を主張していた。もはや身をひそめようとなどと、微塵も思っていない。彼の意識はわたしの頭のなかにダイレクトに語りかけてくる。
「どこへ逃げるつもりだ」
「あなたは誰?」
「どこへ行ったって同じことだ。それは君自身よくわかっていることだろう?」
「だからあなたは誰だと聞いてるの。正体のわからない相手に、とやかく言われたくない」
「この館に君が来てから、いや、その前からずっと、見守ってきた男だよ」
「?」
もちろんそんなことを言われても、誰なのかまるで見当もつかないが、とにかく不愉快だった。そんなストーカーまがいのことをずっとされていたなんて。
「出ていって、わたしの中から!」
「それはできない。君は私と会う必要があるのだ」
「関係ないわ、そんなの。あなたの勝手な都合でしょ」
あっ……くっ……。
何だろう。体の自由がきかなくなっていた。手が足が、自らの意思で動かすことができない。これは……。
「話し合っても無駄なようだ。ならば仕方がない。力ずくで君を」
まさかこんなことができるなんて。彼の意識は私の体を乗っ取ろうとしていた!
そして、操られるがまま、わたしの手はドアの取っ手をもち、ひっぱろうとしている。
彼はわたしの体を、この車内から外へ飛び出させるつもりなのだ。
※
慎重に車を進めていた七海が、助手席に座る玲子の異変に気づいたのは、しばらくたってのことだった。
黙りこんでいた彼女が、突然に奇妙な動きをしだしたのだ。身を引きつらせ、ひねり、もだえるようにして。
「どうしたんだ?」
玲子は内面にひそむ何かと、まるで格闘しているように、苦悶の表情を浮かべている。さっき彼女自身が言っていたように、玲子の頭の中には誰かがいるのだ。
そしてそれは……。西行寿三郎にちがいない。
あの時……地下の部屋で言っていたではないか。玲子の波動に感応して、意識をうばわれていた、と。西行と玲子は距離をこえて、互いにテレパシーのようなもので、通じ合っているのだ。
さらに大きく暴れだした玲子を落ち着かせるため、停車しようと思った瞬間だった。
あっ! 七海は思わず声をあげた。目の前にジープがせまっていたのだ。前方を先に走っていた、従業員を乗せたジープが戻ってきたのだ。
ブレーキのペダルを踏んだまま、避けようと大きくハンドルを回し、道をそれた車は、段差に大きくバウンドして、宙に浮かぶと、回転しながら落下した。
※
ドクン……ドクン……ドクン……。
響きわたる自らの心音に、わたしは意識をとりもどした。
うっすらと目をあける。と、目の前はもやがかかったように白く、辺りを確認することはできなかった。
そして突然に襲ってくる、強烈な痛み!
頭が、腕が、足が、いや、全身のいたるところが痛くてたまらない。
息苦しい。肺が酸素をもとめていた。すいこむ……。
いたあああああああああああああああああいっ!
ハレーションを起こしたみたいに、目の前が真っ白になる。
もだえ苦しむ。
けれど、体は動かない。無理に動かそうとすればするほど、痛みはさらに増していく。
いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!
ゴボゴボゴボゴボ。
吐きそうだ。
喉元にこみあげくる、ねっとりした液体。
血の味がした。
わたし……の左手が……手首のあたりから……おれ……まがって……。
白い……骨……がのぞいている。
どうなっ……てい……るの?
なに……これ……おなか……わたし……のおなかから……なにか生えている?
いたいいたいいたい!
少しでも動……くと……強烈な……痛みが……。
しぬ……わた……しは死ぬ……の?
いたい……くるしい……ああ……おねがい……だれか……このくるしみを……おわらせ……て。
白河玲子。
またあの声が。
意識が遠のいていく。
そのままだと、もう数分でお前は死ぬ。
頭の中に響きわたる。
たすかりたければ。
ずっとわたしを見ていた。そして体を乗っ取ろうとした男。
魂を食べるんだ。
え?
となりにいる男の命を食えば、おまえは代わりに生き返ることができる。
となり?
薄れつつある意識をどうにか、たもち、目をあけて、最後の力をふりしぼり、首を横にむける。
七海さん。
彼はさいわいにも、君とちがって大きな怪我はしていない。頭をうって、脳震盪を起こしているだけだ。
そう……よかった。
他人を心配している余裕があるのか。おまえは死にかけているんだぞ。
ゲホッ、ゴホッ。
口の中が血であふれ、咳こむ。
くるしい、くるしい、くるしい。息が……できな……い。
おまえはもう感づいているんだろう。
何の……こと?
自分の正体を。
わたしが……何ですって?
超人類だ。
?
おまえは超人類。新人類、ミュータント、ニュータイプ、呼び方はなんでもいい。とりあえず私たちは超人類とよんでいる。
今、地球を支配している旧人類より、あらゆる点ですぐれた能力をもち、これからの環境に適応した生命体。この地球の次代の支配者。
私たちは旧人類と同じ姿形をしているが、その中身はまるで違う。まったく新しい種族なんだよ。
……。
君と同じく私も、そしてほかにも多くの仲間がいる。
……意識が遠のいていく……。わたしは……死ぬのだ……。
しっかりしろ。超人類はおどろくほど強い再生能力を有している。そんな簡単には死なない。さあ、目をあけて、手をのばして、七海の体にふれるんだ。それだけでいい。肌と肌を通じて、彼の命をもらうのだ。
……? 何を言ってるの?
超人類にとって旧人類は食料、その魂をすいとることによって、自らのエネルギーとしているんだよ。
!
そんなこと、うそ。
うそではない。我々が生きるには彼ら旧人類の命が必要なのだ。
いやだ。いやだ、そんなことできるわけない! 人が人を食べるなんて。
言っただろう。同じ姿形をしているが、私たちは旧人類とはまったく違う、超人類だと。それを共食いとは言わない。
何をためらう必要がある?全ての生物は、他の種を食べることで、命をつないでいるんだ。罪の意識を感じることなど何もない。
……わたしは人間だわ……
拒否するというのなら、仕方がない。お前は死ぬしかないだろう。無理強いはしない。決定権はお前自身にあるのだから。
男の声が遠くなる。
暗闇。
底のしれない深い闇の奥へと落ちていく。
超人類? わたしが?
でも、わたしの両親は普通の人だった。彼らは異端な能力など持っていない。
突然変異? そう、歴史の授業で習った。
ある種族が、長い年月をこえて代々と血をつないでいく過程において、何の因果関係もないまま、普通の親から、異端な力を持つ子供が生まれることがあるという。
わたしはその突然変異なのだろうか。
……きっと、そうなのだろう。小さい頃から、両親をふくめ、まわりの人間がわたしをうとんじ、とおざけたのは、本能的に自分たちと別の種であると感じ取っていたからなのだろう。
受け入れるしかないのだろうか。自分が超人類であるということを。
ならば……。何をためらう必要がある? 生きるために、他の種を食べることを。全ての生物はそうして、命をつないでいるのだ。
たしかに男の言う通り、それは正論かもしれない。
けれど。
いやだ。
わたしの中にある、何かが、そう否定する。
そうしてしまったら最後、本当に、自らを化け物と認めることにってしまう。
わたしは人間だ。
わたしは人間……。
そう。化け物として生きのびるくらいなら、人間として死にたい。
それに。そもそも他人を犠牲にしてまで生きのびたくない。
そうするくらいなら、このまま永遠の眠りにつくことを選ぶ。
かまわない。どうせ、現実世界に、これっぽっちの未練もないのだから。
※
「ほうっておいていいのですか?」
教授の問いかけに西行は鷹揚にうなずいて。
「生きるも死ぬも、あとは白河玲子自身が決めることだ」
「しかし、会長がおっしゃるほどの強い力を持っているのなら、このまま死なせてしまうのは、あまりに惜しいのでは」
「たしかにそうかもしれん。しかし生きる意思のない者が、そうした力を持っていたとしても、しょせんは宝の持ちぐされ。何の役にたたないことが明らかな人間を、我らの仲間にくわえるつもりはない」
逆さまになって転がる大破した車の下に、二人は無残な姿で倒れていた。
特にひどい有様なのは玲子で、左手の肘は折れて九十度に曲がり、右足は太もものあたりが大きく裂け骨がのぞき、ひしゃげたドアの一部が背中から腹部をまっすぐに貫いていた。
おびただしい量の血が今なお、あふれ続けており、失血死にいたるのは時間の問題だろう。
一方の七海は、偶然、厚いシートによって身を守られるかたちとなって、大きな怪我はしていなかった。脳震盪で意識をうしなっているだけだ。
「男のほうはいいのですか。このままで」
「ああ」
西行は捨て犬でも見るように一瞥し、まったく興味なさそうにつぶやいた。
「生きようが死のうが、どちらでもかまわん」
「しかし、どうやら彼は館の地下におり、資料の一部を見たようです。生かしておくとのちのち、面倒なことになるかも」
「小僧ひとりにどうせ、たいしたことはできん。それにいざとなったら、処分すればいいだけのこと」
その後、しばらく、動かないままの玲子を見つめたのちに、事きれたのを感じとったのだろう、西行は立ち去ろうと背をむけた。その顔にかすかに、失望の色がやどして。
数歩すすみ、しかし西行は足をとめた。ハッとしたように、まばたきをして、振りかえり、彼は見た。
致死にいたる失血により、完全に死のねむりについたとおもわれた玲子の手が、ゆっくりとはうようにして、となりに倒れたままの七海の体に触れるのを。