4.いと懐かしき初恋のヒトや
ちょっとだけ自分の古傷を抉る行為です;
学校に行ってまず困ったのは、二つ。教室の場所と下駄箱の場所だ。
地元であり、私の養娘も通っていた中学校ゆえ、内部の構造はおおむね覚えてはいたものの、流石に五十年近く開きがあるので忘却の彼方だ。
そのため自分の番号を一度、バッグからテスト用紙を取り出して確認せざるをえなかった。
そして、日記帳に書かれていた「上履きの中注意」というそれに従い、その結果中に画鋲が入っているのを確認した。これまた古いというか……。地味に長さが半分くらい折れたものだったので、そこまで強烈な痛みにはならない程度に調整されている? のが、ちょっとばしこまっしゃくれているというべきか。
教室に向かう途中も、やはり困る。
クラスメイトの顔がわかれば、その相手に「おはよう」というのが、私としては基本だ。職場でも一時的に本庁勤務だったころは、同僚や同じ部署の面々には挨拶をしていた。
要するに、そういう習性が身についている。
対して、メンバーの顔がわからないとなると、どうしても無口になってしまいかねない。が、流石にこれは拙いという自覚はある。今日ばかりは様子見だとしても、明日からはそこのところを覚えておかなくては。
そういえばクラスメイトの名前もほとんど覚えておらんの……。
だが、流石に担任の顔のことは忘れていなかったようだ。
廊下ですれ違い様、妙に無口でおなじみの中年男性教諭に、綺麗に会釈して挨拶をする。ぴったりそろえられたその動作に一瞬呆気に取られた教諭は「お、おはよう」と驚いたように笑った。
「どうした森上。何かあったのか?」
「?」
「嗚呼、特に何もないなら構わない」
それじゃあな、と職員室の中に戻る彼を見て、はたと私は首を傾げた。
が、流石に気付いた。おそらくこれまでの私と今日の私とでの、行動に齟齬があったのだろう。
家でも一度、同様のことがあったのでそれくらいは気付くべきなのだろう。
逆に考えて、とりあえず私がどういう扱いだったのか。一度思い出し作業もかねて、今日は控え目に様子をみることにしよう。
そう思いながら教室を探し、入り口の手前に書かれていた席順を確認。どうやら後ろの方の席のようだ。思っていたより当時の私は目が良かったらしい。
そして席に付いた瞬間、気付いた。明らかに周囲の視線が私を避けている。私自身、隣の席くらい挨拶しても普通だろうと思っていたが、一人は引き気味に答えもう一人は完全に無視。
そしてすぐさま雲の子を散らすように、どこへともなく他のグループの中に入り話はじめる。
こちらを見る視線も、何故か私の一挙手を観察しているようにも見える。
くしゃみをしたのを見て明らかにそれを嘲笑うように爆笑されては、流石に何なのだろうと思わなくもない。流石にその程度のことで気を悪くはしないが、なんだろう、気が狂ってるという意味合いの放送禁止用語を略したカタカナ言葉を呟かれたような気がする。
それを見て思うのは、幼いな、という感じだ。だが決して手離しにして良い類の幼さではない。
いじめ問題について小学校で講演した時のことを思い出すが、陰口や本人が心底嫌がる弄りをやり、なおかつ本人に反撃されないように振舞うというのは、酷く卑怯なそれだ。
そういう人間の方が世渡り上手ではあるのだろうが、イコール問題の根本を大して深く考えていないということでもあった。
つまるところ、尊厳を低くし傷つける事にためらいがないということ。
思ったよりもかつての自分が殺伐とした環境に居た事を思い知らされた。
授業が開始してからもそれはより露骨だった。教科書の類を一つ間違え、隣の相手に見せてもらおうとしても対応は変わらず。というよりも、席が離れたあいつは……、誰だっけ、スポーツが得意な。そんな少年が、私を指差して槍玉に挙げて、要は吊るし上げをしていた。
それをクラスの結構な割合が笑うのだから、何とも言えない。
私とて日記帳から当時の振る舞いを鑑みるに、あまり出来た人間ではなかったかもしれないが。ここまで周囲から悪し様な対応を受けるほどに嫌われていただろうか?
否、そうではないだろう。つまり、箸が転がってもおかしいという奴だろう。
年代間のテンションのギャップに付いていけない……。ジェネレーションギャップという奴だろうか。どちらかというと、若者文化に対するカルチャーショックの色も強いかもしれない。
英語の女教師が一括して黙らせ、私はあらかじめ用意されていたゼロ……、いやコピー用紙を使わせてもらった(どうやら私以外に、常習犯がそれなりに居たらしい)。
もっともこの授業に関しては、何というか懐かしいと言うべきか。一応これでも大学……、ではないが、まあ警察学校には行った人間なので、話すのは苦手でも書いたり読んだりする程度は多少できる。
そして更に言うなら、記憶などは死んだ当時のそれを引き継いでいるものの、肉体的には中学二年生のままのようで、面白いように教師の言葉が頭に入ってくる。
それこそ気持ちが悪いくらいだ。
養娘に請われて道順を覚えたショッピングモール(当時、つまり今はまだ出来ていない)への道筋を覚える以上に、すいすいと。
これは……、何だろうか。更に難しいものを知ってるからこそ簡単に感じるという奴だろうか。
授業中の単語テストはあまりよくなかったものの、読解のテストはそこそこで少し教師に驚かれもした。
その後はまあ、普通に順調と言えば順調か。選択授業で少人数になった時、何故か私が居た前の窓際付近に誰も近寄らなかったと言う類のそれを除けば。
いやはや、しかし懐かしい。確かこういうこともあったようななかったようなと、記憶がぶり返してくる。クラス内の立場は覚えてなくとも、流石にここまで露骨なのはショックだったのかもしれない。
というか、先生も先生で見て見ぬ振りなのだろうか。それとも私が何も言わないから、ということなのだろうか?
んー、まあ私も一応八十は超えているので(超えてからは年を数えてない)、この程度のことで目くじらを立てるほどではないのだが。いや、だが私個人としてどうこうというより、彼等彼女等の将来として大丈夫なのか、心配になってくる。
ことここにあって、身体は若返っても精神までは若返らないということなのだろう。
そんなことだったから、ついつい見逃してしまいそうなところだった。
国語の授業の音読で、すくりと立つその姿。声は明朗、何故か単なる授業の音読なのにミュージカルめいた表現力。聞いているだけで惚れ惚れする声というのは、こういうものを言うのだろう。
顔もスタイルもなかなかに良く、女優志望と言われればしっくりくる彼女。
そうだ――そういえば、同じクラスだった。
高校に入る頃には疎遠にはなっていたものの、その顔を忘れる事は出来ない。
その顔はかつて、私が毎日のように溺愛していた養娘のそれに重なる――。
「……春瀬 知世」
まごうとこなく、彼女は私の幼馴染の少女だった。
ショートボブの髪を揺らして席に座る彼女。一瞬こちらと目が合うが、特に気にした様子もなく逸らす。
一瞬眉根が険しく寄ったような気がしないでもないが、しかし、なんだろう。あまり懐かしいという感じはしないのは……。嗚呼、というよりもやはり、この彼女の視線も私は覚えていたということだろう。
周囲の様子を観察しても、特に大した変化はない。普通に授業をしている。
呆気にとられていた私に、担任の男性教師がわざとらしく問題の答えを振った。……この程度はちゃんと文章を読めば、特に無問題に解けるのだが。
※
いやはや、しかし懐かしい。しかし同時に、少しばかし思い出す。昔はもっと優しい表情を浮かべてくれていたような気がするが、どうしてか中学に入ってからは辛辣になっていったような――。
まあ今更の話なので、そこは多少流しておこう。今日は様子見なのだ。過去にせっかく舞い戻ったのだ、懐かしむ時間くらいあっても罰は当るまい。
昼食の時間、仕出し弁当を食べる際に一応は班の中に入れてもらえただけ、やはりあれはその場の空気というのも大きいのだろう。もっとも会話は全く混ざる余地はなかったのだが(空気的にも話題的にも)。
昼食明けはいきなり体育と色々身体に悪そうな気もしないではないが、まあそこも時代なのだろうと弁えておく。
そしていきなりのサッカーだったが、案の定この身体は鍛えられていないので、あまり強くない。ドリブル(へたくそ)をしていれば軽く取られ、ディフェンスすれば蹴飛ばされた砂煙や球に躊躇は欠片もなく。要するに痛い。
この痛さは相手の強さというよりは、この身体が打たれ慣れていないと言う事だろう。格闘技などに限らないが、武術、運動をする際は身体をまずはある程度いじめる。
筋肉トレーニングなどもそれに当るが、それらがもたらすのは筋力増強だけでなく、忍耐力も鍛えられる。つまりは外部からのストレスに、物理的に強くなるということだ。
「死ねェ!」
「ッ!」
だから、蹴り飛ばされたボールが顔面にぶち当たったことも、決して変なことではない。……明らかにお前、狙ってやったろと思わなくもないが、そこは仕方あるまい。事故はある、ということで今回は流そう。
そうだ思い出した、彼は男鹿だ。下は……、平矢と呼ばれている。男鹿 平矢か。スポーツがそれなりに出来て身長も高く、格好良いと可愛らしいの間くらいの容姿をしている。
ずばり、女の子からモテモテな相手だ。
だが、彼が小学校時代にいじめの主犯核だったこを私は忘れて居ない。小学校の頃は違ったが、どうやら今のターゲットは当時の私になっていたようだ。
とりあえず打たれ弱いのは仕方ないので、保健室で軽く鼻先を消毒して、手当てをしてもらった。謝罪はないが、まあこれもそんなものだろう。(一応)子供同士のそれだ、目くじらを立てることではないし、この年頃の子供は普通に謝る事を嫌う。自己を省みてそうなのだから、まぁそうなのだろう。
どいつもこいつも、ある程度はクソガキな訳だ。自分を含めて。
午後の授業中、ちらりと春瀬がこちらの方を見てきたのが少し気になったが、まあそれは一旦置いておこう。
問題があったとすれば。
帰る途中に後ろから同級生に蹴られたので、転ぶのを装いながら合気道で鳩尾に一撃肘をぶち込んでやったりしたのは良いとしても(流石にちょっと鬱憤が溜まっていた)、家に帰ってからが問題だった。
幸い雨は振ってなかったので砂だらけで済んだには済んだが、そんな格好で家の扉を開けようとした時。
「あら~、ヘキくん?」
「……?」
振り返ると、ショートカットに動きやすそうな服装の……、女子大生? 何というか、サバサバしていて普通にモテそうな容姿をしている女性だ。
なんとなく見覚えはあるような気がするが、はて誰だったか……。
彼女はこちらの姿を見とめると、そのまま走って私の方に来た。
「あらら、どうしたの? 服、砂だらけじゃない」
「……」
「ん、何かあった? って、まさかカナデお姉さんを忘れてるわけじゃないよね~」
うりうり、と私の頬を指で突く彼女。それを見て、その笑顔を見て、ようやっと思い出した。
彼女は、苗木 奏。
私の、ある意味初恋の女性だった。