家族総出で妹の新居を選んでますけど、結婚するのは私ですよね?
新居を選ぶ日、みんなが見ていたのは双子の妹、美緒だった。
不動産会社のテーブルには、新築マンションの資料が何冊も並んでいた。婚約者の佐伯怜司はその中から一冊を抜き取り、美緒のほうへ向ける。
「榊野駅のこの物件、どう? 会社から近いし、帰りが遅くなった日はそのまま泊まりに来られるだろ」
兄の拓真は別の間取り図を指さした。
「だったら花宮町のほうがいいんじゃない? 俺んちからも近いし。美緒が何か食べたいって言ったら、持っていけるしさ」
両親もすぐに賛成した。美緒が泊まる部屋を一つ空けておき、合鍵まで渡そうという話にまでなった。
ひと通り聞いてから口を挟んだ。
「でも、花宮町から冬木台の研究所まで、往復で二時間以上かかるよ」
一瞬だけ、テーブルが静かになった。
母が眉を寄せる。
「あなたの職場が郊外にあるだけでしょう。家を買うのに、通勤時間だけで決められないわよ。美緒は市内勤務なんだから、こっちのほうが便利じゃない」
子どもの頃、引っ越した先では兄にも美緒にも自分の部屋があった。私に与えられたのは、リビング横の納戸を改装した三畳ほどのスペースだった。
そのたびに言われた。
「千景はお姉ちゃんなんだから、少しくらい譲ってあげなさい」
二十年以上たって、今度は結婚することになった。
それでも、私がどの部屋を気に入ったのか、誰も聞かなかった。
子どもの頃にもらえなかった場所は、「新居」と名前を変えても、やっぱり私のものにはならないらしい。
だったら、もういらない。
1
不動産会社を出ても、誰も追ってこなかった。ガラス扉の向こうでは、まだ美緒が使う部屋について話している。
タクシーに乗ってしばらくすると、結婚式場からWeb招待状の確認メールが届いた。トップ画面を開くと、淡い色のワンピースを着た女性がこちらへ笑いかけている。
花嫁の写真は、美緒だった。
怜司に電話をかけた。何度か呼び出したあと、ようやくつながる。
「何? まだ部屋見てるんだけど」
「Web招待状、確認した?」
「見たよ」
「どうして花嫁の写真が美緒なの?」
向こうが少し静かになった。
「ああ、それ。式場に送る写真を選ぶとき、間違えたんだよ。あとで美緒にも見せたけど、写りも悪くないって言ってたし」
「私たち、双子だからいいってこと?」
「似てるだろ。それに、あの写真のほうが写りもいいし」
スマホを握る指に力が入る。
「でも、あなたと結婚するのは私だよ」
怜司がため息をついた。
「千景、写真一枚だろ。そこまで気になるなら、自分で式場に連絡して差し替えてもらえばいいじゃん」
返事をする前に、電話の向こうから怜司の声が聞こえた。
「美緒、その北向きの部屋はやめたほうがいい。暗いし。そこは千景の書斎にでもして、南側の二部屋から選べば?」
胸の奥が詰まった。
「もういい」
「何?」
「何でもない」
通話を切った。
こういうことは、初めてではない。
美緒は甘えるのが上手で、人が喜ぶ言葉も自然に出てくる。家族の輪の中にいれば、いつも先に視線を集めるのは妹だった。
私は昔から口数が少ない。
「千景は、美緒みたいに愛想よくできないの?」
「性格が硬いのよ。少しは妹を見習いなさい」
何度もそう言われた。
子どもの頃は悔しくて、勉強した。奨学金を取り、コンテストにも出た。理工系の大学院まで進み、そのまま研究職に就いた。
賞状を持ち帰るたび、反応は同じだった。
「勉強ができるからって、偉いわけじゃないでしょ」
「何でも美緒と張り合わなくていいのに」
何か月も、時には何年もかけて得た成果より、美緒が帰宅して「お父さん、お母さん、お疲れさま」と抱きつくほうが、両親はうれしそうだった。
怜司だけは違うと思っていた。
家に戻ると、家族のLINEグループには四百件以上の未読がたまっていた。
インテリア担当から新居のデザイン案が届いている。全体は美緒が好きな、くすんだピンク系。美緒が泊まる部屋には、専用のドレッサーと収納まで用意されていた。
子どもの頃、こんな部屋を何度も想像した。
毎日布団を片づけなくていい。食事の前に本を移動しなくていい。机の上に置いた物が、翌朝も同じ場所にある。
怜司と付き合い始めてからは、新居探しのノートまで作った。
明るいリビングが好きだから南向きがいい。胃が弱いから、朝早く開くベーカリーやカフェが近いと助かる。帰宅が遅い日も多いので、駅からの道はなるべく明るいところ。
何十ページも書いた。
LINEでは、誰一人そんな話をしていなかった。
ほとんど美緒の好みで内装が決まった頃、怜司がメッセージを送った。
「美緒と結婚できる男は幸せだろうな」
画面を見つめてから、返信する。
「そんなに好きなら、今回の花嫁も美緒に替えたら?」
途切れることなく流れていたメッセージが止まった。
2
母から電話が入ったのは、すぐあとだった。
「千景、あれ何なの? 美緒がどれだけ傷ついたか分かってる?」
こちらが口を開く隙もない。
「怜司さんみたいな人が結婚してくれるのに、何がそんなに不満なの。あなたは昔から愛想もないし、意地っ張りだし、美緒ほど可愛げもないでしょう。それなのに、どうしてあんなことで揉めるのよ」
母との電話を切ると、今度は兄から着信があった。そのまま切ったところへ、怜司からLINEが届く。
「千景、いい加減にしてくれ。美緒は一日中、俺たちの結婚のために動いてくれたんだぞ。今ずっと泣いてる。まず謝れよ」
親戚までグループに入ってきた。
考えすぎだと言う人。美緒は善意で手伝っているだけだと言う人。結婚前からそんなに尖っていたら、結婚生活もうまくいかないと諭す人。
一言だけ返した。
「分かった。私が悪かった。美緒に謝ればいいんでしょ」
それで満足したのか、話題は別の方向へ移っていった。
自室に戻り、大学院時代の指導教員だった相原教授へ電話をかけた。
「先生、以前おっしゃっていた北嶺研究センターの件、まだ間に合いますか」
教授は少し驚いたようだった。
「君、もうすぐ結婚じゃなかったのか?」
廊下から家族の声がする。母は美緒に夕食の希望を聞き、兄はデザートを買ってきたらしい。怜司の声も混じっていた。
「結婚はやめます」
電話の向こうが静かになった。
「北嶺の案件、まだ枠はある。ただ、しばらく向こうに常駐することになるぞ」
「構いません」
「政府主導の大型研究プロジェクトだ。研究内容や施設情報にも厳しい守秘義務がある。それでもいいんだな?」
「はい」
通話を終えて少しすると、部屋のドアが開いた。
怜司がテイクアウトの箱を持っている。
「もう機嫌直せよ。美緒が、千景の分も取っておいてくれたから」
照り焼きチキン、甘い卵焼き、かぼちゃのサラダ。
全部、美緒の好物だった。
「今、歯が痛いから。甘いものは無理」
ちょうど廊下を通った母が鼻で笑う。
「怜司さん、放っておきなさい。美緒なんて、出されたものは何でも食べるわよ。千景は昔からわがままなの」
美緒が食事に文句を言わないのは、家で買うものがいつも美緒の好きなものだからだ。
昔は何度か口にした。
そのたびに「また妹に嫉妬して」と返されたので、いつしか言わなくなった。
夜、眠ろうとしていると、ドアを軽く叩く音がした。
怜司が温かいかぼちゃのポタージュを持ってきた。
「昼もあんまり食べてないだろ。これ、好きだったよな」
懐かしい香りに、胸の奥が少し痛んだ。
美緒と知り合う前の怜司は、本当に優しかった。
働き始めた頃、私は人と争うのが苦手だった。自分の成果を同僚に横取りされても何も言えずにいると、怜司が代わりに抗議してくれたことがある。
人付き合いが下手だと笑われたときも、彼だけは庇ってくれた。
「仕事ができるって、十分すごいことだろ。なんで千景が、みんなの好きなタイプにならなきゃいけないんだよ」
あの言葉が好きだった。
美緒と出会ってから、少しずつ変わった。
「妹、本当に可愛いな」
そのうち、家族と同じことまで言うようになった。
「千景も、少しくらい美緒を見習えば? いつもそんなに張り詰めてなくていいだろ」
目の前のスープから湯気が上がっている。
そのとき、スマホにSNSの通知が出た。
美緒の投稿だった。
写真には同じ店の、同じかぼちゃのポタージュ。
「飲みたいって言っただけなのに、こんな時間にわざわざ遠くまで買いに行ってくれた。いつもありがとう、私のヒーロー」
怜司は二つ買ったのだろう。
一つは美緒に渡し、もう一つを帰りに私の部屋へ持ってきた。
スプーンを器の横へ戻した。
それ以上、口をつける気にはなれなかった。
3
翌日、正式に退職届を出した。
榊野を離れると知った同僚たちが、近くの居酒屋で小さな送別会を開いてくれた。
帰り際、隣の個室から聞き覚えのある笑い声がした。半開きの扉から中を見ると、怜司の隣に美緒が座っていた。
大学時代から付き合いのある、怜司の親しい友人たちらしい。
七年付き合って、一度も紹介されたことがない人たちだった。
以前、理由を聞いたことがある。
「千景が可愛いから、あいつらに見せたくないんだよ」
あの頃は信じていた。
美緒は初対面とは思えないほど馴染んでいた。
酔いの回った一人が笑いながら言う。
「この子が例の婚約者? そりゃ隠したくもなるわ。めちゃくちゃ可愛いじゃん」
怜司と美緒が顔を見合わせた。
どちらも訂正しなかった。
そのまま洗面所へ向かった。
戻る途中、今度は廊下の奥で二人を見つけた。美緒の袖に酒がついたらしく、怜司が濡らしたタオルで拭いている。
酒が入っているせいか、距離が近い。
美緒が伏せていた顔を上げると、目が赤くなっていた。
「怜司さん、お姉ちゃんと結婚したら……今までみたいには構ってくれなくなる?」
怜司の手が止まる。
涙を指先で拭いながら、苦笑した。
「前にも言っただろ。何があっても、俺は美緒の味方だよ」
「じゃあ、お姉ちゃんと私が同時に困ってても?」
返事は早かった。
「美緒のところに行く」
美緒が背伸びをして、怜司の唇に触れた。
怜司は動かなかった。
けれど、ほんの数秒後には、美緒の後頭部へ腕を回していた。
二人は洗面台の前で、しばらく離れなかった。
息がうまく吸えなくなった。
やがて唇を離しても、二人の額は触れたままだった。
「なんで、美緒じゃなかったんだろうな」
怜司の声は小さかった。
「最初に会ったのが美緒で、婚約したのも美緒だったら……たぶん、違ってた」
気づけば二人の前に立っていた。
怜司の頬を平手で打つ。
手のひらが痺れた。
「お姉ちゃん、何してるの!」
美緒がこちらへ手を伸ばした。
すぐ後ろは階段だった。
足が空を踏み、そのまま何段も転げ落ちた。顔の横が割れた装飾ガラスに当たり、視界の右側が赤く染まった。
次に目を開けたときには、病院のベッドにいた。
顔の半分は包帯で覆われ、右目は角膜とその周辺を傷つけている。後日、二度目の手術が必要だと聞かされた。
怜司はベッド脇の椅子に座り、髪をかきむしっていた。私が目を覚ますと、腰を浮かせる。
「千景、変なふうに考えないでくれ。あのキスは……事故みたいなもんだった」
話すほど、言葉が崩れていった。
「二人とも飲んでたし。たぶん俺、昔の千景と重ねたんだと思う。付き合い始めた頃は、千景も今よりよく笑ってたし……その、今みたいに冷たくなかったっていうか」
病室に彼の声だけが残る。
「性格が変わったって言いたいわけじゃない。ただ、最近は何を考えてるか分からないことも多くて。美緒は分かりやすいから、一瞬、勘違いしただけなんだ」
そこで声の調子が変わった。
「もう二度としない。それに、美緒もわざと突き落としたわけじゃない。本人もすごく怖がってる。だから……この件は、大ごとにしないでやってくれないか」
顔は、少し動かすだけでも痛んだ。
「怜司」
彼がこちらを見る。
「私、最初からこういう人だったよね」
口を閉じる。
「今日ここに来たのは、私に捨てられるのが怖いから? それとも、美緒が責められるのを避けたいから?」
返事はなかった。
4
美緒が病室に来たとき、怪我をした私より大きな声で泣いていた。
母にしがみついて、何度も「わざとじゃなかった」と繰り返している。
家族はみんな、美緒のほうへ集まった。
「大丈夫よ、美緒。事故だったんだから」
「千景だって、妹を責めたりしないよ」
「泣きすぎると目が腫れるぞ」
黙っていると、兄がこちらを見て顔をしかめた。
「千景、その顔やめろよ。美緒だってこんなに反省してるだろ」
母も続ける。
「少しくらい笑ってあげたら? この子、ずっと心配してるのよ」
顔の半分が包帯で覆われているのに、どう笑えばいいのか分からない。
少し離れたところで聞いていた看護師が、ベッドのそばまで来た。
「お顔の傷が深く、右目も再手術が必要です。今はできるだけ安静にしてください。表情を大きく動かすのも控えたほうがいいです」
それで、ようやく誰も何も言わなくなった。
けれど長くは続かなかった。
「そうだ、美緒の地域貢献賞、披露宴で一緒にお祝いしたらどう?」
母が思いついたように言った。
「美緒、あのホテルも気に入ってたでしょう」
怜司が頷く。
「披露宴の途中に新郎新婦の挨拶があるから、そこを短くすれば時間は作れるよ」
兄も乗ってくる。
「会場の色も変えよう。美緒、青りんごみたいな色が好きだろ? 今のベージュよりいいじゃん」
病室の中で、私の披露宴が美緒の祝賀会へ作り替えられていく。
看護師が口を挟んだ。
「一週間後ですと、ご本人が式に出席できる状態まで回復するのは難しいと思います。会場に延期の相談をされたほうが……」
兄がすぐに首を振る。
「延期は無理ですよ。美緒だってここまで準備してきたんですから」
母は少し考えてから言った。
「挙式はやめればいいじゃない。披露宴だけ予定どおりやって、美緒にドレスを着てもらえば写真も残せるでしょう。婚姻届だってまだ出してないんだし」
父まで頷いた。
「会場も料理も全部手配済みだ。中止にするよりはいいだろう」
怜司は私の手を握った。
「千景は治すことだけ考えればいい。披露宴は美緒に任せよう。回復したら婚姻届を出して、写真も撮り直せばいいから」
話はそのまま決まっていった。
もう、どうでもよかった。
帰り支度をしていた美緒が、小さな声を出す。
「でも、私の表彰式、七月十二日なんだよね。その日みんなが病院にいたら、誰も来てくれないの?」
七月十二日。
二度目の眼科手術の日だった。
医師がさっき確認したばかりだ。
「そんな大事な日に行かないわけないだろ」
兄が言う。
怜司も同意した。
「手術は先生がいるし。美緒の表彰なんて、一生に一度かもしれないんだから」
私の手術の話は、それで終わった。
部屋を出る前、兄が美緒に尋ねた。
「そういえば、今年は特別功労賞もあるんだろ? 政府の大型研究プロジェクトに関わった研究者が選ばれるやつ。誰なんだ?」
美緒は知らないと首を振った。
怜司が笑う。
「そっちはトップクラスの研究者だろ。地域貢献賞とはさすがに別格じゃない?」
布団の端を少し持ち上げた。
今年の「先端技術開発特別功労賞」。
受賞者の一人に、私の名前がある。
五年間参加してきた政府主導の大型研究プロジェクトが、先月一つの区切りを迎えた。機密性の高い研究だったため、これまでは仕事内容をほとんど口外できなかったが、一部の成果について情報公開が認められた。
研究機関が受賞情報を公開した日、家族のLINEにも記事を送っている。
美緒から返ってきたのは、一言だけだった。
「お姉ちゃん、まだああいう研究やってたんだ」
そのあとすぐ、美緒の地域貢献賞の話題で流れていった。
七月十二日。
二度目の手術の同意書には、自分で署名した。
手術は問題なく終わった。
包帯を巻き直したあと、鏡に映った顔は青白く、右側はほとんど見えない。
看護師に、家族へ迎えを頼むか聞かれた。
「大丈夫です。一人で帰れます」
三日後、職場へ行って引き継ぎを終えた。
夜になって相原教授からメッセージが届く。
「北嶺の受け入れ準備が整った。出発は明後日。集合場所は明日送る」
カレンダーを確認した。
予定されていた披露宴の日だった。
5
披露宴当日の朝は早かった。
服と書類、昔の写真は二つのスーツケースに収まっている。持っていけないものや、もう必要ないものはそのまま残した。
玄関を出たところで、怜司からメッセージが届く。
「披露宴が終わったら新居で待ってる。ちゃんと話そう」
画面が消える前に、連絡先を削除した。
番号をブロックし、家族のLINEグループも抜ける。
そのままスマホの電源を切り、北嶺へ向かう研究機関の送迎車に乗った。
榊野市を離れるにつれて、高層ビルは低い住宅へ変わり、その先には畑と遠い山並みが広がっていった。
◇
一方、榊野市のホテルでは、佐伯怜司はまだ千景が街を出たことを知らなかった。
その日は同じホテルの別フロアで、先端技術開発特別功労賞に関する記者説明会も予定されていた。千景は以前、披露宴のため当日は同じホテルにいると研究機関へ伝えており、担当者は説明会の前に本人へ資料を渡すつもりだった。
ところが会場に姿がない。
確認のため披露宴フロアまで来た担当者を見て、近くにいた記者の一部も何事かと後についてきた。
事情を知らない招待客は、宮坂美緒が榊野市の若手地域貢献賞を受賞したばかりだったこともあり、彼女への取材だと思い込んだ。
「美緒ちゃん、全国メディアまで来てるよ」
「地域貢献賞って、こんなに注目されるんだな」
千景の母は顔を輝かせ、美緒の手を握る。
「やっぱり美緒はすごいわ」
美緒は本来千景のために用意されたウェディングドレスを着ていた。挙式は取りやめになったものの、披露宴そのものは予定どおり行われている。
口では「そんな大げさな」と言いつつ、頬は緩んでいた。
怜司も隣で笑う。
「美緒は本当に頑張ってるからな」
招待客の一人が冗談を飛ばす。
「そこまで似てると、今日だけ見たらどっちの披露宴か分からないな」
怜司は笑わなかったが、訂正もしなかった。
五十代くらいの男性が、ホテルスタッフに案内されて近づいてきた。
「宮坂千景さんはいらっしゃいますか?」
周囲の声が小さくなる。
美緒が一歩前へ出た。
「妹の宮坂美緒です。姉に何か?」
「国立先端技術研究機構の者です。本日は宮坂千景研究員へ資料をお渡しする予定だったのですが」
美緒が首を傾げる。
男性は手元の書類を確認した。
「宮坂研究員が参加していた政府主導の大型研究プロジェクトについて、一部情報が公開されました。今年度の『先端技術開発特別功労賞』の受賞者でもあります。今日、こちらのホテルにいらっしゃると聞いていたのですが」
母親が聞き返した。
「千景が、ですか?」
「はい」
父親も戸惑った様子だった。
「あの子は研究所で普通に働いてるだけだと思ってましたが」
「宮坂研究員は五年間、主要メンバーとしてプロジェクトに参加されています。これまでは守秘義務がありましたから、ご家族が詳しい内容をご存じなくても不思議ではありません」
拓真が眉を寄せた。
「そういえば前に、研究所の記事をLINEに送ってなかったか?」
誰も答えなかった。
怜司はスマホを取り出した。
電話はつながらない。
朝に送ったLINEにも、既読がついていなかった。
何度か掛け直したあと、怜司は会場を出た。
両親と拓真も後を追う。
新居はホテルからそう遠くない。
鍵を開けると、室内は妙に静かだった。
くすんだピンクの壁、美緒が選んだカーテン。南向きの大きな窓からは、明るい日差しが入っている。
クローゼットは空だった。
洗面所に千景の物はなく、玄関にも靴が一足もない。
これから花嫁が暮らすはずだった部屋には、その人がいた形跡さえ残っていなかった。
ダイニングテーブルの上に、一冊の分厚いノートがある。
怜司は表紙を開いた。
千景の字だった。
――怜司は明るいリビングが好き。午後まで日が入るベランダがいい。
――胃が弱いから、朝七時前に開くベーカリーが近いと助かる。
――残業の日は帰りが遅い。駅から家まで暗すぎない場所。
――花宮町は怜司の通勤には便利。でも私の研究所までは遠い。
ページをめくっても、同じようなメモが続いていた。
怜司は椅子に座ったまま、最初から最後まで読んだ。千景の友人に連絡しようとして、そこで手が止まる。
七年付き合っていたのに、彼女の電話番号と宮坂家の連絡先以外、千景につながる道を一つも持っていなかった。
ウェディングドレス姿の美緒が、少し遅れて部屋へ入ってきた。
「怜司さん」
怜司は顔を上げなかった。
「こうなっちゃったし……私、本当はずっと怜司さんが好きだった。あの日のキスだって、お酒のせいじゃないの」
怜司が目を上げる。
「もしお姉ちゃんが戻ってこないなら、私と……付き合えない?」
千景とよく似た顔だった。
少し前まで、最初に出会ったのが美緒ならよかったと考えたことさえある。
けれど今、目の前にあるのは、千景が何ページにもわたって書いたノートだった。
怜司は首を横に振った。
「無理だ」
美緒の表情が固まる。
ノートを閉じた。
「悪い。今は一人にしてくれ」
6
北嶺研究センターでの生活は、思っていたより穏やかだった。
榊野市から遠く離れた山間の研究都市にあり、周囲には商業施設も多くない。プロジェクトには厳しい守秘義務があったが、毎日の暮らしそのものは単純だった。
実験して、データをまとめ、会議に出る。たまに同僚と近所の食堂へ行く。
相原教授は、若い研究員を一人つけてくれた。
真壁湊。
大学では私より二学年下で、彼も相原教授の教え子だった。
口数は多くないが、仕事は丁寧だった。
右目を手術したことを知ってから、長時間ディスプレイを見た翌日には、必要なデータが紙で印刷されて机に置かれていることが増えた。
怪我の理由も、結婚直前に北嶺へ来た事情も、湊のほうから尋ねてくることはなかった。
必要なときだけ声をかけ、それ以外は自分の仕事をしている。
一か月ほどして、研究機関が私の希望を確認したうえで、所属と一部の経歴を公開した。
その日の午後、実験を終えて湊と食事に出ようとした。
湊は小さな雛菊の花束を持っている。
「研究棟の前の花屋で余ったらしくて。研究室にでも置こうかと思って」
そんな話をしながら訪問者エリアまで来たところで、足が止まった。
怜司がいた。
記憶にある姿より少し痩せている。
その後ろには両親も立っていた。
母がこちらへ歩いてくる。
「千景! 披露宴の日に黙っていなくなるなんて、どういうつもり? 怜司さんが一か月も探してたのよ。電話にも出ないで!」
怜司の視線は、私ではなく湊へ向いていた。
「その人、誰?」
母が先に口を挟む。
「誰って、見れば分かるでしょう。だからあんなに簡単に出ていったのね。前から男がいたんじゃないの?」
湊は私に資料と花を渡した。
「僕、先に店に行ってます。何かあったら連絡してください」
「うん」
湊が去ってから、怜司が口を開く。
「千景、帰ろう。話したいことがあるなら榊野でちゃんと話せばいい。何も言わずに消えられたら、こっちはどうしようもないだろ」
「じゃあ、ここで言う」
怜司の表情が止まる。
「別れよう」
少し間を置いた。
「家族LINEで花嫁を替えたらって言ったとき、みんな私が拗ねてるだけだと思ってた。病院でも、披露宴をそのままやれば、そのうち機嫌が直ると思ってたでしょ」
怜司の目を見る。
「佐伯怜司。もう、あなたとは結婚しない」
顔色が変わった。
言葉を探すように口を開く。
「俺までいらないっていうなら……お父さんたちも? 家族も全部捨てるのか?」
両親はすぐ後ろにいる。
「捨てたのは、そっちだよ」
母が眉を寄せる。
「また何を言ってるの?」
昔の記憶は、今でも細かく残っていた。
「小学三年のとき、初めて学年三位になった。うれしくて成績表を持って帰ったら、お母さん、何て言ったか覚えてる?」
母が何か言いかける。
「『勉強ばっかりしてないで、美緒みたいに人に好かれなさい』って言った」
続けた。
「私のために買ってくれた服って、何着ある? 美緒が着なくなったものとか、気に入らなかった服ばかり、私のところに回ってきたよね」
「一度、その服を学校に着ていったら、同級生に『妹のお下がりしかないの?』って笑われた」
自分の声が少し震えているのが分かった。
それでも言葉は止まらなかった。
「勉強すれば見てもらえると思った。仕事を頑張れば変わるかもしれないって思った。何か一つくらい、最初に私を見てくれる日が来るって」
「でも、いつも美緒だった」
そこで言葉を切った。
「もう私がいないものだと思って」
母はしばらく黙っていた。
「美緒は昔から甘えるのが上手だったのよ。あなたは何でも一人でできたでしょう?」
まるで、それで説明がつくと思っているようだった。
「だから手がかからなかっただけよ。わざと美緒ばかり見てたわけじゃない」
怜司へ顔を向ける。
「あなたは?」
「俺はこの一か月、ずっと千景を探してた。大学にも行ったし――」
「そうじゃない」
言葉を遮る。
「私がずっと、誰かの残りをもらう側でいてもいいって思ってた?」
怜司は答えなかった。
その場を離れた。
「好きに見て帰って。私はご飯食べてくるから」
研究センター近くの店に入り、席について間もなく、個室の扉が開いた。
美緒だった。
一人で立っている。
「お姉ちゃん。今回は私に勝てて、うれしい?」
7
メニューから顔を上げた。
「何の話?」
美緒は椅子の背に手を置いた。
「怜司さんに告白したの。披露宴の日」
こちらの反応を待っているようだった。
メニューを一枚めくる。
「それで?」
「お姉ちゃんがいなくなったなら、私と付き合えないかって聞いた」
口元が少し歪んだ。
「断られたけど」
指が止まった。
「そのあと一か月、ずっとお姉ちゃんを探してた。前の職場も、大学も、先生のところも。北嶺にいるって分かったのは、受賞の記事に所属が出たから」
椅子を引いたが、座ろうとはしない。
「今までずっと私のほうだったのに。初めて、お姉ちゃんが選ばれたんだよ。うれしくないの?」
メニューを閉じた。
「一回選ばれただけで、喜ばなきゃいけないの?」
美緒の笑みが薄れる。
「もう帰って」
「私と張り合うの、やめるってこと?」
「私は私の生活をする。それだけ」
美緒は鼻で笑った。
「勝てないから、そんなふうに言ってるだけでしょ」
部屋が静かになった。
返事を待っていた美緒は、そのまま背を向ける。
廊下に響いていたヒールの音も、やがて聞こえなくなった。
少しして、今度は怜司が現れた。
手には鍵がある。
テーブルまで来て、それを置いた。革のキーホルダーには、小さく「CHIKAGE」とだけ刻まれている。
「前の部屋は解約した」
声が掠れている。
「千景がどこにいるか分かる前に、別の部屋を契約した。前の研究所から通いやすいところ」
こちらの反応を確かめるように続けた。
「美緒用の部屋はない。内装にも口を出させてない」
鍵を少し押した。
「ノートに書いてたことも、全部見直した」
昔なら、欲しかったかもしれない。
私ばかりが怜司のことを考えるのではなく、一度でいいから、同じように私の暮らしを考えてほしかった。
けれど今、鍵を見ても心は動かなかった。
「解約して」
怜司の指が少し縮こまる。
「美緒が欲しいなら、あげてもいいよ」
何か言おうとしたところで、個室の扉が開いた。
湊だった。
怜司を見ると一度足を止めたが、そのまま近くの席に座ってメニューを開く。
「今日、前に美味しいって言ってた鯖の塩焼き定食ありますよ」
「じゃあ、それにする」
「味噌汁、豚汁に替えられますけど」
「お願い」
湊はおしぼりをこちらへ置き、調味料を取りやすい位置へ少し寄せた。
怜司はしばらく立っていた。
やがて、部屋を出ていった。
翌日も来た。
三日目も姿を見せた。
四日目は研究棟まで来なかったが、駐車場に車が夕方まで停まっていた。
その後も何日かおきに贈り物が届いたが、どれも一人分だけだった。
受け取らず、そのまま送り返した。
ある日、怜司本人が研究棟の外で待っていた。
「千景。真壁のこと、本当に好きなの?」
疲れた声だった。
「俺のこと、七年好きだっただろ。たった一か月で全部なくなるわけない」
階段の途中で足を止める。
「七年だったって、覚えてたんだ」
怜司の顔が強張る。
「じゃあ、その七年、私に何してた?」
声を荒らげる気にはならなかった。
「好きなものも知らない。嫌いなものも覚えてない。新居は美緒を優先して、招待状に妹の写真が入ってても気にしなかった。私のドレスを着て、披露宴まで使わせようとした」
ゆっくり息を吐く。
「七年好きだった相手の中で、私はずっと美緒の次だった」
怜司の顔から色が抜けた。
「あの頃は、自分の気持ちを勘違いしてた。でも今は分かってる。俺が好きなのは千景だ」
「だったら、その気持ちは持って帰って」
怜司が固まる。
「次に誰かと付き合うなら、誰かと張り合わなくていい関係がいい」
彼は長いこと立っていた。
それを最後に、研究センターの外であの車を見ることはなくなった。
夕方、仕事を終えて研究棟を出ると、湊が階段に座っていた。
隣に腰を下ろす。
「さっきの、聞こえてた?」
湊は頷いた。
少し間を置いてから、自分のほうから話し始めた。
「前に、七年付き合った人がいたの」
湊は何も挟まずに聞いている。
「その人の中で、私はいつも二番目だった。子どもの頃からそう。何でも美緒が先で、残ったものが私に回ってきた」
指先で服の裾をなぞる。
「それで、北嶺まで逃げてきた」
口にしてみると、少しおかしかった。
「格好悪いよね。勝てないから、こんな遠くまで来たみたいで」
湊は庭の欅を見ていた。
「僕は、そうは思いません」
風が枝を揺らす。
「しんどい場所から離れるのって、簡単じゃないですから」
しばらくして、彼が言った。
「相原先生から、千景さんが急に北嶺へ来るって聞いたとき、もう少し早く知り合ってたらって思ったんです」
「どれくらい早く?」
湊が少し笑う。
「何でも誰かと比べるのが当たり前になる前くらい」
鼻の奥が熱くなった。
彼は距離を詰めてこない。
しばらく黙っていた湊の耳が、少しずつ赤くなった。
「僕、千景さんが好きです」
手元へ視線を落とす。
「一緒に仕事してる時間も好きだし、ご飯に行くのも楽しいです。千景さん、機嫌が悪い日はけっこう分かりやすいし」
少し笑う。
「うれしいときは、目が先に細くなるし」
こちらを見た。
「もし迷惑じゃなければ、今度は仕事じゃなくて……二人で出かけませんか?」
涙が頬を伝った。
湊の顔が慌てて曇る。
「すみません。急すぎました?」
目元を拭う。
「少し時間をちょうだい」
肩の力が抜けたように笑った。
「はい」
風が庭を抜け、欅の葉を揺らしていった。
二人で並んだまま、夕日が屋根の向こうへ沈むのを見ていた。
8
一年後、湊と結婚した。
式は北嶺研究センター近くの小さなガーデンレストランで開いた。豪華な宴会場も、大勢の招待客もいない。
相原教授とプロジェクトの仲間、それから本当に来てほしい人だけを呼んだ。
両親も、美緒も、拓真も呼ばなかった。
式が始まる一時間ほど前、知らない番号からメッセージが届いた。
「今日、結婚するんだってな。幸せになれよ」
画面はしばらく点いたままだった。
スマホをマナーモードにして、バッグへしまった。
◇
その頃、榊野市では、佐伯怜司が昔から住んでいるマンションのリビングに一人でいた。
千景のために選び直した部屋は、結局解約した。
テーブルの上にはスマホがある。
送ったメッセージに返事はない。
クローゼットの奥には、何年も前に千景が置いていった古いパーカーが一枚残っていた。
最初は、いつか取りに来ると思って捨てなかった。
もう来ないと分かったあとも、そのままになっている。
千景が結婚すると教えに来たのは美緒だった。
「お姉ちゃん、結婚するって」
怜司は短く返した。
「そうか」
その晩は書斎に座ったまま、朝まで眠らなかった。
今から車を出せば、北嶺まで行ける。
式が終わる前には着くかもしれない。
何度か車の鍵を手に取り、そのたびテーブルへ戻した。
昔、千景に聞かれたことがある。
「いつか私のこと、いらなくなったりしない?」
あの頃の怜司は笑いながら、飴を一つ彼女の手に乗せた。
「何言ってんだよ。そんなわけないだろ」
千景は飴を握ったまま、なかなか手を開かなかった。
体温で中身が柔らかくなり、包装が掌に貼りついていた。
それを見て笑ったことまで覚えている。
怜司は目を伏せた。
スマホの画面はもう消えている。
テーブルの車の鍵にも、最後まで触れなかった。
◇
北嶺の式は、最後まで賑やかだった。
司会をしてくれた研究センターの同僚が、湊の失敗談を次々に暴露したせいだ。
「真壁さん、最初に花を買ったとき、ユリが猫に危ないって知らなかったんですよ。危うく猫飼ってる同僚の部屋に持っていくところでしたからね」
会場に笑いが広がる。
隣の湊は、耳まで赤くなっていた。
指輪を交換したあと、彼が軽く唇を重ねた。
ミントタブレットの味がした。
夜になり、招待客が少しずつ帰り始めた頃、父から電話がかかってきた。
出ると、最初に聞こえたのは母の泣き声だった。
「千景、親戚みんな知ってるのよ。結婚式に親を呼ばなかったって。私はあなたをここまで育てたのに……そんなに私たちが憎いの?」
しばらくして、父に代わった。
「母さん、毎日泣いてるぞ。親子なんだから、いつまでもこんなことしてないで一度帰ってこい」
昔と同じ口調だった。
「結婚式に両親を呼ばないなんて、世間体だって悪いだろ」
そこで一息つく。
「美緒を見ろ。あいつはお前みたいなことしないぞ」
庭の明かりは、もう全部灯っていた。
少し離れたところで、湊がスタッフと一緒にテーブルを片づけている。
こちらの視線に気づくと、顔を上げて笑った。
私も笑う。
「そうだね。私は美緒みたいにはなれない」
父が黙る。
「これからも」
通話を切った。
夜風が庭を通り抜ける。
草と湿った土の匂いがした。
片づけを終えた湊が戻ってきて、上着を肩にかけてくれる。
「寒くない?」
「大丈夫」
その肩に寄りかかった。
窓辺には、新しい雛菊が飾ってある。
北嶺へ来たばかりの頃、湊が研究センター前の花屋から小さな花束を持ち帰ることがあった。
いつからか、それは毎週のことになった。
大げさなことは何も言わない。
花が萎れたら、新しいものに替える。
風が窓辺の花びらを揺らした。
肩から落ちかけた上着を、湊がそっと掛け直す。
少しだけ、彼のほうへ体を寄せた。
庭にはまだ、暖かな灯りが残っている。
夜はとっくに深くなっていた。
それでも、二人とも急いで中へ戻ろうとはしなかった。
(完)




