第6話 風の戦天使 風見 颯 【後編】
颯は走りながら、風を切る音の奥で記憶をたどっていた。
幼い日の茶室。薄暗い畳の匂い。湯が沸く「コトコト」という音。
あの頃は、家のしがらみも知らず、ただ一服の茶を点てる喜びだけを感じていた。
所作に心を委ねていると、不思議と世界が静まり返り、息をするたびに心が整っていく気がした。
茶室は、幼い颯にとっての小さな聖域だった。
だがその安らぎは、ひとつの囁きで崩れた。
お茶会の亭主に選ばれた日の午後、客の口から聞こえたささやき——
「あの子、上手だけど妾の子みたいね」
「本家の子では役不足だったのかしら?」
その言葉が、颯と静真の間に、深い溝を作った。
次に静真が選ばれたときは、逆の囁きが流れた。
「前の子の方が上手だったわね」
運命は、兄弟を平等には扱わなかった。
不運にも颯は、母が静真を叱責する声を聞いてしまう。
「静真、しっかりなさい! あんな妾の子に負けないで!」
その夜。
颯は母の膝に顔を埋め、震えながら泣いた。
「颯……ごめんね。お母さんが愛人だから、あなたに辛い思いを……」
その言葉に、幼い彼は悟った。
自分が茶道を続けることで、母も兄も傷つくのなら、もう茶を点てない方がいい。
——それが優しさだと思っていた。
やがて青年になった颯は、心の穴を埋めるように女性たちのもとを渡り歩き、家にも帰らなくなった。
風のように、どこにも居場所を定めなかった。
そんな颯の耳に、兄の叫びが届いたのはその夜だった。
カフェを出た颯が駆けつけると、そこには黒い影があった。
静真の前に立ちはだかる、風の悪魔——マルフォス。
「いいですね、嫉妬という負の感情。その憎しみで世界を壊しなさい」
囁きに支配された静真の瞳が、暗い光に染まっていく。
「静真! やめろ!」
颯の叫びに、マルフォスが冷ややかに笑った。
「劣等感、というやつですね。兄弟の業。お気の毒です。……私の兄も無能でして」
その言葉に、颯の胸の奥で何かがはじけた。
「静真は違う! 毎日努力して学んで、本当は上手なんだ。
周りのプレッシャーのせいで力が出せないだけだ。——静真を侮辱するな!」
その声に、静真の瞳がふっと揺れ、光を取り戻した。
「颯……俺は恨まれていると思ってた。ありが…とう」
その一言とともに、静真の体を包んでいた黒い霧が、静かに消えていく。
「バカな……悪魔にならないとは。——まあいい。二人まとめて消してやりましょう」
マルフォスの腕が振り上げられた瞬間——
「アクア・シールド!!」
水の結界が立ち上がり、颯と静真を包む。
ミズキが駆け込んできた。
「間に合って良かった。颯、そいつを連れて逃げろ!」
「いや、逃げない! 最愛の人には指一本触れさせない!」
その瞬間、颯の周囲に淡い緑の光が灯った。
ミズキが目を見開く。
「そのオーラ……まさか、戦天使の素質! このロザリオを掲げろ!」
「よし来た! ——あ、その前に約束しよう! 俺が勝ったらデートしてくれ!」
「言ってる場合か!」
光が奔り、風が弾けた——。
眩い閃光の中、颯の身体がふわりと宙に浮かぶ。
制服の裾がはためき、次の瞬間には銀青の羽衣のような光が全身を包みこんでいた。
彼の髪が風の色を宿し、瞳が蒼く燃える。
——変身。だがその事実を受け入れる間もなく、彼の前にはすでにマルフォスの影があった。
「さあ、舞ってみせなさい。風の使徒さん?」
挑発とともに、マルフォスが腕をひと振りする。空気が裂ける音がした。
かまいたち——それが襲いかかった瞬間、颯は身を翻すこともできず、胸を打たれたような衝撃に吹き飛ばされた。
石畳を転がり、咳き込みながら立ち上がる。体中に電流のような痛みが走る。
「戦闘経験もない人が戦線に立つなんて——みじめですね」
マルフォスの声は、冷たい笑いとともに耳を刺す。
「ビギナーズラックで殺さないであげます。そこで、指をくわえて見ていなさい」
その言葉に、颯の喉の奥が熱くなった。 歯を食いしばる。
愛する人の笑顔が、脳裏に浮かぶ。母に見たあの泣き顔を、二度と見たくなかった。
「……まだだ」 地面に手をつきながら、颯は震える声で言った。
倒れたまま、マルフォスの足を掴んで離さない。
「言っただろ……愛する人には、指一本触れさせないって……!」
彼の指先に、微かな風が集まっていく。 ざわめく空気。世界が息をひそめる。
胸の奥から、誰かの声が響いた——信じろ、自分の風を。
颯は、立ち上がった。 血に濡れた唇から、自然に詩のような言葉が零れる。
「——吹き荒れろ、真なる風。穢れを祓い、希望を運べ……!」
両手を広げ、蒼の奔流を解き放つ。
「天嵐の咆哮!」
轟音。世界が震えた。 天から降り注ぐ無数の風刃が旋回し、マルフォスを中心に渦を巻く。
黒い外套が裂け、魔の翼が千々に砕け散る。
光と風が交錯する中、マルフォスの悲鳴が響いた。
「おのれ……颯。覚えましたよ。この屈辱、何百倍にして返してやります……!」
彼の身体を黒い霧が包み、音もなく消えていく。
残されたのは、夜明け前の静けさと、まだ震える颯の息だけだった。
風が彼の頬を撫でる。
それは、母の手のように優しい風だった。
「よくやったな。守ってくれてありがとう」
ミズキの微笑みは、夜明けの光のように柔らかかった。
「好きな人には、傷ついてほしくないんだ。こんなの、初めてだよ」
その横で、目を覚ました静真がぼんやりとつぶやいた。
「僕を介抱してくれたのは……本物の天使? これが運命の人ってやつか……」
「おい、被るな!」
笑い声が夜気を和らげた。
数日後——。
颯は正式に《カフェ・空の庭》のメンバーとなった。
ドリンクメニューの考案と和菓子の仕入れを担当し、店はさらに繁盛。
「颯くんのおかげで若いお客さんが増えてね」と和菓子屋の主人は笑う。
「いえ、こちらこそ。和菓子が逸品だから、お客様がつくんですよ」
商才まで発揮する颯の姿に、仲間たちは目を丸くした。
カフェ・空の庭ではミズキと並んで接客する姿が評判を呼んだ。
颯がミズキを場所をわきまえず口説くため、「颯×ミズキが熱い!」と腐女子ファンも急増した。
「すげー需要が起こってんな…」と烈也が呆れ、キラは苦笑いする。
さらに静真が訪れ、にこやかに和菓子を手渡す。
「仕入れです。ミズキさん、こちらの菓子司には憩いのスペースでお茶もできるんです。今度一緒に行きませんか?」
「いや、私は別に…」
「おい、ミズキちゃんは俺とデートなんだよ!」
「なんだ颯。お前ちゃんとバイト終わったら稽古に来いよ」
「分かってるって。保護者かよお前は」
喧嘩が始まるというのが新たな日課になった。
「なんで増えてるんだよ」呆れながら烈也は突っ込んだ。
「まあ仲直りできてよかったね、颯君。2人の空気が軽やかだ」
キラは安心して微笑ましく3人を見守っていた。
店内が笑いに包まれる。 その光の中で、颯の緑の瞳が柔らかく輝いた。
——そしてその頃。
とある花屋の前で、ひとりの青年が花に手を伸ばしていた。
「……きれいだ。でも俺はもう、花は……」
風が花弁を揺らした。
次なる戦天使・大地の物語が、静かに幕を開けようとしていた。




