第30話 目覚めの兆し
ミズキとアイリスは扉を押し開けた。
その瞬間、外気が肌を刺した。
魔界の空気は重い。
肺に入り込んだ瞬間、血に異物が混じる感覚があった。
「アイリス様、息苦しさや違和感はありますか?」
「いえ、私は大丈夫です」
その言葉を聞き、ミズキは自分の心配が杞憂に終わり一息ついた。
「お探しものは見つかりましたか?」
音もなく背後から老執事が声をかけてきた。
「お初にお目にかかります、アイリス様」
穏やかな一礼をする老執事。
だが次の瞬間、空気が張り詰めた。
「改めてこの城の執事を務めております――ベルゼブブと申します」
名乗ると同時に、細身の刀が音もなく抜き放たれる。
ミズキは反射で翼を広げ、刃を受け流した。
「アイリス様、私から離れてください」
老体とは思えぬ踏み込み。
だが――
「……見事」
ミズキの一閃が、ベルゼブブの袖をかすめた。
布が裂ける。
「ほう」
わずかに目を細める老執事。
二撃、三撃。
刃と刃が交錯し、回廊に金属音が反響する。
ミズキは手応えを感じた。
こちらがわずかに上だ。
だが―― 空気が、妙に静まり返っている。
――いける。
そう思った瞬間だった。
ズキリ、と頭の奥を何かが貫いた。
視界が揺れる。
地面が遠のく感覚。
(……なんだ、これは)
魔界の空気が、急に濃くなる。
血管を内側から叩くような脈動。
刃を振り下ろそうとした腕が止まる。
「……っ」
膝が崩れた。
石畳に手をつく。
「ミズキ!」
アイリスが駆け寄る。
しかしアイリスの首筋に、すっと冷たい感触が触れた。
「あなたは自室に戻られるのが賢明な判断です」
ベルゼブブが静かな声でそう告げた。
アイリスの瞳が揺れる。
「ミズキは…無事ですか?」
ベルゼブブはふっと静かに笑みを漏らす。
「恐らく魔界の空気に当てられたのでしょう。別室で落ち着かせます」
アイリスは疑いの目を向けたがやがて決心した。
「分かりました。ここで私が取り乱せば、あなたの命を縮めますね、ミズキ」
ミズキに慈しみを含んだ表情を向ける。
そしてベルゼブブへ、強い眼差しを向けた。
「手記を拝見しましたのでミズキのことも知りたいですし、ルシエル様と天界のことを話し合う必要がありそうです」
アイリスのその声音は、王族のそれだった。
感情を呑み込み、未来を選ぶ声。
数秒の沈黙。
やがて、ベルゼブブは刀を引いた。
「さすがは天界の頂に立つお方」
わずかに口元が緩む。
「他の天界人よりは、話が分かる」
その言い方は、過去を知る者の響きを含んでいた。
「ご案内いたしましょう」
アイリスはミズキを一瞥する。
――必ずあなたを助ける。
その視線だけを残し、回廊の奥へと消えた。
気を失ったミズキは、別室へと運ばれる。
扉が閉じられ、静寂が落ちた。
ベルゼブブは歩みを止め、薄暗い執務室へ入る。
そこに座る影に、恭しく頭を垂れた。
「報告いたします、ルシエル様」
低い声が返る。
「……どうだった」
「想定通り。魔界の魔力に反応を示しました」
わずかな間。
ルシエルは静かに息を吐く。
「やはり来たか……」
窓の外、揺らぐ闇を見やる。
「目覚める時が」
ベルゼブブは問わない。
主は独り言のように続ける。
「果たして悪魔の人格を自分のものにできるか」
「それができたなら……本物だ」
静かな笑みが、闇に溶けた。




