第29話 灰色の誓い
ミズキは、思わず声を上げそうになるのを堪えた。
胸の奥に張りつめていたものが、音もなくほどけていく。
ずっと――助け出したいと願っていた人が、今、目の前にいる。
「アイリス様……ご無事で、本当に……」
喉が詰まり、言葉がうまく続かない。
「危ない目には遭われませんでしたか?」
アイリスはまっすぐにミズキを見つめ、静かに首を横に振った。
その仕草は、まるでこちらを安心させるためのもののようだった。
「私は大丈夫です。この書庫が思いのほか充実していて、退屈もしませんでしたし」
……書庫が充実。
まさか。
アイリス様まで、あの巨匠の世界に足を踏み入れられたのだろうか。
語り合いたい衝動が込み上げる。
だが今は、それどころではない。
ミズキは必死にその渇望を押しとどめた。
「ルシエルの手記を見ました。やはり天界に闇が潜んでいるようですね」
アイリスの瞳が、わずかに揺れる。
「……ええ。私も、感じていました」
沈黙が落ちる。
今なら、連れ出せるかもしれない。
だが――
(今の私で、守り切れるのか?)
自分一人ならともかく、アイリスを抱えてこの魔界を突破するのは容易ではない。
共倒れだけは避けなければならない。
覚悟を決める。
「アイリス様。私が囮になります」
顔を上げ、はっきりと告げた。
「その隙に、あなたはお逃げください」
しかし、アイリスは即答した。
「お断りします!あなたも一緒です」
先ほどまでの穏やかな声音ではない。
王族としての強さがそこにあった。
「あなたは……天界を変える希望なのです」
その言葉に、ミズキの胸が強く打つ。
「希望……? 私が?」
「ええ」
アイリスは一歩、距離を縮めた。
「あなたは灰色の翼を持ちながら、それでも戦っている。
その姿こそが、天界の理が絶対ではない証明なのです」
希望。
その響きに、ある日の記憶がよみがえった。
――あの日も、同じ目をしていた。
視界が、ゆっくりと過去へと滲んでいく。
石畳に乾いた風が吹いていた。
スラムから天界の城へ通された時だ。
簡素な椅子に腰掛けた少女が、静かにこちらを見上げる。
それが、ミズキとアイリスの初対面だった。
「お待ちしておりました、ミズキ!」
その言葉に、ミズキは眉をひそめた。
「スラムを守るために来ただけだ。あんたらのことは、これっぽっちも信用していない」
冷たく言い放つ。
だが怒声も、侮蔑も返ってこなかった。
「無理もありません」
アイリスは静かに頷く。
そして、不意に問いかけた。
「一つお聞きします。あなたは、天界に何を求めますか?」
予想外の問いだった。
王族が、そんなことを聞くのか。
しばし沈黙した後、ミズキは吐き出すように言った。
「無理に認めろとは言いません。でも……」
拳を握る。
「異端の存在も、受け入れてほしい」
その瞬間。
アイリスの瞳が、強く光った。
「……そう」
(この人だ!)
アイリスは自信を含んだ笑みでミズキを見つめて手を伸ばす。
「共に、拓けた天界を創りましょう」
その声に嘘はなかった。
少なくとも、他の者たちのような冷たい光はなかった。
――この人は違う。
その日、ミズキは初めて自らの意思で忠誠を誓ったのだった。
「私は、あなたを手放さない!共に天界を変えるために!」
アイリスの言葉が、はっきりと響く。
あの日と同じ、まっすぐな瞳。
逃げるのではない。
変えるのだ。
ミズキは、静かに息を吐いた。
その胸に宿るものは、自己犠牲ではない。
未来を変えるという、覚悟だった。




