第25話 『生き延びて、ミズキ』
家の中は、静かすぎた。
日が傾く頃には戻るはずの母が、まだ帰ってこない。
ミズキは机の上に広げた書物を、何度も読み返していた。文字は目に入っているのに、頭に残らない。胸の奥で、嫌な予感だけが膨らんでいく。
――そのときだった。
外から、かすれた声が聞こえた。
「……やめて……」
母の声だ。
ミズキは息を呑み、戸口へと近づいた。扉を開ける勇気はなく、ほんのわずかな隙間から外を覗く。
白い翼が、視界を埋め尽くしていた。
一枚、二枚ではない。複数の天使たちが円を描くように立ち、その中心で母・カンナが囲まれている。
「悪魔の血が混じった子を出しなさい」
淡々とした声だった。怒りも嫌悪もない。ただ、規定を読み上げるかのような冷たさ。
「……出しません」
母の声は震えていたが、逃げなかった。
「その子は、何もしていない。悪魔の被害者よ」
「認められない」
天使は即答した。
「悪魔の血が入った者は子どもでも粛清の対象である」
その言葉を聞いた瞬間、ミズキの中で何かが切れた。
考えるより先に、体が動いていた。
裏手に回り、翼を広げ、最も近くにいた天使へ体当たりする。
「離れろ!母に触るな!」
不意打ちに、天使がよろめいた。
だが、すぐに周囲がざわめく。
「子どもだ」
「混血……」
次の瞬間、母の腕を引かれるのが見えた。
「ミズキ!」
母の叫びに、ミズキは歯を食いしばる。
「母は純粋な天使だ! 連れていくなら、私だけでいい!」
叫びは、必死な懇願だった。
しかし返ってきたのは、冷酷な言葉だった。
「不可能だ」
「関与した者すべてを拘束する」
逃げるしかない。
ミズキは母の手を掴み、走り出した。背後で羽ばたく音が追ってくる。振り返らない。考えない。ただ、前へ。
夢中で走り続け、気づいたときには、大地が途切れていた。
足元は崖。
目の前には、夜の海が広がっている。
逃げ場は、もうなかった。
ミズキは振り返り、翼を広げた。
「戦う……」
震える声でそう言いかけた、そのとき。
「だめ」
母の声が、はっきりと響いた。
カンナは、静かに微笑んでいた。
「母としての私の一番の幸せはね」
一歩、近づく。
「あなたが――笑って、生きてることよ。
だから、あなたは生き延びて…ミズキ!」
次の瞬間、背中に強い衝撃が走った。
体が、宙へと投げ出される。
「お母――」
「ロザリオをかざして!」
母の声が、遠ざかる。
ミズキは必死に胸元を掴んだ。指に触れたのは、小さなロザリオ。
祈るように掲げた瞬間、青い光が弾けた。
海が、応えた。
水が渦を巻き、ミズキの体を包み込む。冷たさはない。むしろ、抱きしめられているような温もり。
遠くで、母が捕らえられるのが見えた。
「お母さん……!」
叫びは、波音にかき消された。
ロザリオから伸びる青い光が、暗い海の中に道を描く。
――生きろ。
そう告げられている気がした。
ミズキは涙を流しながら、流れに身を任せる。
生き延びよう。
強くなろう。
天界を変える、その日まで。
すべては――母のために。




