第20話 回帰の狭間 -大地、花を好きだと言えなかった日-
大地の目の前に立っていたのは、見覚えのある少女だった。
小学生の頃の同級生。
誕生日の日、花をくれた――あの子。
「大地くん」
柔らかく名前を呼ばれ、胸が小さく跳ねる。
「花、好きだったよね?
花壇の花を見る時、大地くんの目、すごく優しかったから」
その言葉に、世界が一瞬だけ明るくなった気がした。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
――嬉しい。
――覚えててくれた。
その感情を、口に出そうとした、その時だった。
「え?」
背後から、男子の声が割り込む。
「男に花なんて渡しても喜ばないよな、大地」
教室の空気が、ひやりと冷える。
何人かが、面白そうにこちらを見ていた。
(……あ)
喉が詰まる。
「花が好きだ」という言葉が、急に重くなる。
――言っていいのか?
――ここで言ったら、どうなる?
視線が集まる中、大地は黙り込んでしまった。
花束を持つ少女の手が、わずかに震える。
すると彼女は、はっとしたように目を見開き、慌てて言った。
「ご、ごめんね!」
笑顔を作り、少し声を張る。
「そうだ、妹さんにどうぞ。
きっと、喜ぶよね?」
その瞬間、大地は救われた気がした。
「あ……ありがとう!」
思わず、勢いよく頷く。
「うん、妹、喜ぶよ!」
花束を受け取りながら、胸の奥がちくりと痛んだ。
嬉しいはずなのに、どこか苦しい。
その時だった。
「……ほらな」
低い声が、耳元で囁く。
振り返ると、そこに立っていたのは――自分自身。
シャドウ大地だった。
「好きって言ったら、お前が傷つく」
淡々と、事実を述べるように続ける。
「場は荒れなかった。
誰も大声を出さずに済んだ。
――成功だろ?」
(……成功?)
視線の先で、少女が少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべていた。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
――俺は、守られた。
――でも、その代わりに。
(……あの子が、傷ついた)
花を好きだと言えなかった自分。
自分を守るために、誰かに気を遣わせてしまった自分。
大地は、花束を抱えたまま立ち尽くす。
(俺は……あの時から、ずっと同じことをしてる)
好きなものを隠して。
誰かにフォローさせて。
それを「正しい選択」だと思い込んで。
シャドウ大地が、静かに微笑む。
「な?」
「お前は、間違ってなかった」
その言葉が、今の大地には、何よりも残酷に響いた。
「悪くなかっただろ」
「好きって言わなかったから、誰も困らなかった。
お前も、傷つかなかった」
大地は、ぎゅっと花束を抱きしめる。
「……でも」
声が、震えた。
「俺は、あの子に何も返せなかった」
シャドウは一瞬だけ目を伏せ、すぐに言い切る。
「返さなくていい」
「好きを口にしなければ、失わずに済む。
お前は、それを知って生きてきた」
その言葉に、別の記憶が重なる。
――祖父の背中。
――柔道着。
――「体格に恵まれてるんだから、継げ」
(……俺のせいで、父さんも母さんも怒られてた)
この体。
この見た目。
この性別。
(見た目通りに生きた方が、誰にも迷惑をかけない)
「だから俺は……」
大地は、ゆっくりと口を開いた。
「“好き”を隠すようになった」
シャドウ大地は、微かに笑う。
「賢い選択だ」
「お前は誰も傷つけなかった。
自分を押し殺しただけだ」
――だけ?
その言葉が、胸に引っかかる。
花束の香りが、鼻をかすめた。
あの日、少女がくれたもの。
気まずそうに、でも必死に差し出してくれた“気持ち”。
「……俺」
大地は、ぽつりと言った。
「花が好きだ」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「好きだ」
もう一度、繰り返す。
「綺麗だと思うし、触ると落ち着く。
それを、悪いことだって思いたくない」
シャドウの目が、わずかに揺れる。
「言ったら、どうなる?」
「笑われるかもしれない」
「がっかりされるかもしれない」
「……期待を裏切るかもしれない」
深く息を吸う。
「でも」
視線を上げる。
「それでも、“俺”でいたい」
空間が、かすかに揺れた。
シャドウ大地の表情が、ひび割れる。
「……それは」
「“選ぶ”ってことだ」
大地は、うなずく。
「うん」
「誰かに許されるためじゃなくて、
俺が、俺を許すために」
シャドウは、ゆっくりと笑った。
寂しさと誇らしさが混じった笑顔で。
「厄介だな」
「好きを隠さない人間は、目立つ」
そして、意味深に付け加える。
「……“好きを言っても許される形”を
作りたがるやつも、出てくる」
大地は、その言葉を聞き逃さなかった。
「許される……形?」
答えは返らない。
「覚えておけ」
「“好き”を偽るやつも、
“好き”を演じるやつも――
根っこは、同じだ」
次の瞬間、シャドウ大地は淡い光に包まれた。
「お前は、もう隠さなくていい」
「自分が好きなお前でいろ」
光は胸へと溶け込み、確かな温度を残す。
大地は、花束を胸に抱き直した。
「……ありがとう」
誰にともなく呟き、前を向く。
(俺は、俺の“好き”を否定しない)




